初めての感情
「私、何もされてないわ。お母さんが心配してるようなこと何もないわよ。ちょっとした口論になっただけ」
「……そうなの。広瀬さん、その、ごめんなさい」
「あ、いえ、謝らないでください。僕もアカコさんに強引なやり方をしてしまったから……」
それを聞いた恒子はまた素っ頓狂な声を出した。
「強引な……?広瀬さん、アカコさんに何をなさったの!」
アカコがせっかく助け舟を出したのに広瀬はまたピンチを作ってしまった。焦ってしまい変な汗をかいている。
「お母さん、本当に何もないわ。安心してちょうだい」
アカコが広瀬を庇い、なんとかこの場をおさめ、恒子は納得したのか台所の方へ戻って行った。
何故、アカコは広瀬を庇ったか。
広瀬は写本を取り上げようとしている敵なのに。
それはオロオロしている広瀬を少し可哀想だと思ったのと、ある感情がアカコの中に芽生えたからだ。
不思議な感情だった。
口をパクパクさせ目を丸くして懸命に誤解をとこうとする青年の姿。
(ちょっと、可愛い)
男の人を可愛いと思うのは初めてのことだった。
この感情をアカコは自分でも説明がつかず、
(まぁ、広瀬さん、ちょっと童顔だから)
と広瀬の顔の造形のせいにして忘れることにした。
「アカコさん、さっきはありがとうございます。それで、写本は……?」
ああ、広瀬はやっぱり敵だ。写本を簡単には諦めない。
「知らない。絶対に返さない」
そう言ってアカコはピシャリと襖を閉めた。
写本は下着入れの中。もし広瀬が下着を漁って写本を奪ったら…犯罪者として鈴木家から追い出してやる。
それと……写本を絶対に渡したくない理由は桐生の論文発表を阻止したいのが第一だが……
広瀬に写本の内容を読まれたくない!
という理由もあった。
広瀬はすでに写本の内容を把握しているのだが(桐生の手伝いをしているから)、それでもこれ以上読まれたくない。
恥を何度もかきたくないではないか。
だって、×××とか×××とか大胆で官能的な妄想を書いてあるから。
「うわぁ、見られたくない」
アカコは顔を両手で覆った。