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第五十一話 掃討

 山崎の合戦は、羽柴軍の圧倒的な勝利に終わりました。

 しかし、敗走する明智光秀を待ち受けていたのは単なる『不運』ではありませんでした。


 歴史の表舞台で秀吉が輝く裏側で、官兵衛が起動させた『精密機械』のような掃討戦。

 旧時代の知将、光秀が新時代の怪物、官兵衛によってどのように『処理』されたのか。


 軍師としての冷徹な完成形を、どうぞご覧ください。

 天正十年六月十三日。

 山崎の地は、もはや戦場ではなく、巨大な『屠殺場(とさつじょう)』へと変貌していた。

 光秀は崩れゆく自軍の残骸を背に、重臣、斎藤利三(としみつ)と別れて敗走を始めた。混乱の極致にある戦場において、一兵卒に紛れて逃げ延びることは、通常であれば不可能ではない。しかし、光秀が対峙していたのは、運命という名の『確率』ではなく、黒田官兵衛という名の『精密機械』であった。

 

 光秀が山崎を脱した瞬間、官兵衛の『裏の掃討戦』が静かに、そして迅速に起動した。

 

 官兵衛の手足となる暗殺部隊『潜龍』の面々は、闇に溶け、敗走する光秀の足跡を冷徹に追った。

 

 雨に煙る小栗栖(おぐるす)の藪。そこは、京へ逃れるための最短ルートでありながら、官兵衛が最も『光秀が通る確率が高い』と弾き出した死地であった。

 光秀は、わずかな近習とともに泥を蹴り、馬を走らせていた。その脳裏には、まだ『坂本へ至れば、再起の策はある』という知将ゆえの執着が渦巻いている。だが、その希望こそが官兵衛の狙い通りであった。

 

 突如、静寂を切り裂いたのは、鋭い竹槍の音ではない。足元を狙った『鳴子』の音と、闇から放たれた無数の(つぶて)であった。


 そこへ、竹藪の中から土民に扮した潜龍の面々が、一切の情けを排した動きで躍り出た。彼らの動きは無秩序な落ち武者狩りのそれではない。急所を最短距離で突く、鍛え抜かれた暗殺の所作であった。

 

 「なっ……貴様ら、ただの土民ではないな! 誰に、誰に命じられた……!」

 

 光秀が刀を抜こうとした瞬間、脇腹を鋭い衝撃が貫いた。竹槍ではない、鋭利に研ぎ澄まされた鋼の穂先である。

 

 馬から転げ落ちた光秀の目に映ったのは、無表情に自分を見下ろす男たちの瞳だった。その冷徹な光に、光秀は戦慄した。これは怨恨でも復讐でもない。ただの『処理』なのだ。

 

 (まさか……筑前か? いや……。)

 

 その真実に辿り始めた瞬間、二の槍が光秀の喉を貫いた。

 かつて天下を夢見た知将は、叫ぶことも叶わず、自分が誰の設計図の上で死んでいくのかわからぬまま、小栗栖の泥沼の中に沈んでいった。

 その最期は、悲劇ですらなく、官兵衛の脳裏では『処理完了』という一行に過ぎなかった。


 今まで織田家中で古き時代の知将を誇っていた明智光秀。

 これから天下を治める羽柴軍の、『情報の非対称性』を巧みに利用する新たなる時代の知将、黒田官兵衛へ『世代交代』となる瞬間であった。



 数日後、最期まで明智を支えた斎藤利三(としみつ)もまた、近江の地で潜伏中に羽柴軍の海北友松(かいほうゆうしょう)らに捕らえられた。

 

 羽柴の本陣に、利三(としみつ)捕縛(ほばく)の報が届いた。秀吉は、亡き信長の仇討ちという『最大の大義名分」を掲げ、天下への階段を駆け上がろうとしていた。そのため、反逆の象徴である利三(としみつ)に対して、かつての知己としての情をかけることは一切なかった。

 『裏切り者に甘い』。その一言が、秀吉の天下取りに泥を塗るリスクを、官兵衛は見逃さなかった。

 

 「殿、利三(としみつ)は即座に見せしめとして処刑すべきにございます。接触も無用に願いまする……。」

 

 官兵衛の進言通り、秀吉は利三との接見を避け、六条河原での処刑を即決した。

 

 だが、官兵衛にはまだ、処理すべき『不純物』が残っていた。

 処刑前日の深夜。京都の蒸し暑い闇を突き抜け、官兵衛は利三が閉じ込められた牢へと足を運んだ。松明の火が、湿った石壁に官兵衛の影を長く、(いびつ)に映し出す。

 

 「明智惟任(これとう)光秀殿の家老、斎藤利三(としみつ)殿とお見受け申す。(それがし)は羽柴筑前守旗下(きか)の黒田官兵衛でござる。」

 

 低い、地の底から響くような声だった。

 牢の中、両手を後ろで縛られた利三(としみつ)が、泥と血に汚れた首をゆっくりと持ち上げた。かつて織田家中でも指折りの智勇(ちゆう)を誇った男の面影は、もはや枯れ木のように痩せさらばえていた。

 

 「黒田……官兵衛……。筑前(秀吉)殿の『軍配者』か……。かなりの知恵袋と、風の噂で聞いておる。……こたびは、敗軍の犬となった(それがし)に、何の用か……」

 

 官兵衛は周囲の牢番を鋭い眼光で下がらせると、格子越しに利三(としみつ)を射抜くように問い詰めた。

 

 「こたび、お主はなぜ、上様を亡き者にした?惟任(これとう)(光秀)殿を()きつけたのは、お主ではないのか?」

 

 利三(としみつ)は乾いた唇を震わせ、自嘲気味に笑った。その瞳には、武士(もののふ)としての誇りの残り火が、微かに灯っていた。

 

 「わが主君が……あのお方が、上様によって日々、壊されていく様を、見ておられなかった……。我ら家臣に対する仕打ちならば耐えられた。だが、主君の誇りまでをも無惨に踏みにじるあのお方のやり口、お主も聞き及んでおろう……。(それがし)は、主君を守りたかった。ただ、それだけじゃ……。」

 

 官兵衛は表情ひとつ変えず、氷のような眼差しで見下ろしながら、さらに核心へと踏み込んだ。

 

 「誠に、それだけか? 背後に誰かおらなんだか。たとえば、四国の……。」

 

 利三(としみつ)は、この男がすべてを見通していることを悟ったのだろう。死を目前にした解放感からか、彼はすべてをさらけ出すように語り始めた。

 

「(長宗我部)元親殿との約定。(それがし)の縁戚であるあの男との平穏を、上様は一方的に反故(ほご)にされた。我が主君の顔に泥を塗り、(それがし)にとっては耐えがたき板挟みであった……。主を救うには、もはや上様の命を断つしかなかった……。」

 

 利三(としみつ)の言葉に嘘はない。官兵衛は確信した。この男は、自分が光秀に授けた『情報の毒』の存在にすら気づいていない。あるいは、気づいていてもそれを飲み込んで死ぬ覚悟だ。

 官兵衛は念のため、最後に最も重い問いを投げた。

 

 「謀叛を起こす前、兵部大輔(ひょうぶのたゆう)(細川)殿には相談せなんだか?」

 

 利三(としみつ)はその弱り切った眼で、高い天井の闇を仰いだ。しばらくの沈黙。水滴が床に落ちる音だけが、不気味に響く。

 

 「(それがし)にはわからぬ。我が殿は、ご相談されたかもしれぬ……。だが、兵部(ひょうぶ)殿が我らに味方することはなかった……。それが、すべて……。」

 

 (この男は嘘を言うておらぬな。間際に余計な口を割る懸念も、もはや無しと見た……。)

 

 官兵衛は心の中で、完璧な『盤面』の完成を確認した。光秀は死に、利三(としみつ)は明日死ぬ。そして彼らの動機はすべて『織田信長への怨恨』と『四国問題』という枠組みの中に封じ込められた。官兵衛の関与を示す糸は、どこにも繋がっていない。

 

 「こたびはお主にとって不憫(ふびん)な結果となった。だが、最後まで主君を裏切ることなく、武士(もののふ)の道を全うされたこと、誠に見事としか言いようがない……。冥土で、惟任(これとう)(光秀)殿を探してくだされ。そこにはもう、上様という(かせ)はありますまい……。」

 

 官兵衛はそれだけを残し、再び深い絶望の淵へ沈んでいく利三(としみつ)に背を向けた。

 牢を出て、夜風を浴びながら陣所へと戻る道すがら、官兵衛は胸の奥に棲み続ける竹中半兵衛に語りかけた。

 

 (半兵衛殿……。お主が残してくれた、この官兵衛にしかできぬこと。……信長の狂気を止め、惟任(これとう)(光秀)殿を葬り、筑前(秀吉)殿を天下へと押し上げる。その最初の一歩、我ら『二兵衛』でやり遂げましたぞ……。)

 

 暗い夜空を見上げる官兵衛の瞳には、勝利の喜びなどは微塵もなかった。ただ、これから始まるさらなる濁流――勝家、家康という怪物たちとの果てしなき盤面を、冷徹に見据える鋭利な輝きだけが宿っていた。

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 光秀の最期、そして重臣、斎藤利三との牢獄での対峙を描きました。

 官兵衛にとって、光秀の死は悲劇ではなく、次なる平和のための『事務手続き』に過ぎない……そんな恐ろしさを込めて執筆しました。


 そしてかつての朋友、竹中半兵衛への独白。

 『二兵衛』で成し遂げた最初の一歩が、ここに関わっています。


 物語はいよいよ清洲会議を経て柴田勝家、そして最後の怪物、徳川家康といったさらなる強敵との『知の決戦』へと進んでいきます。


 英語版も同時連載中です。詳しくは活動報告をご覧ください。

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