第四十九話 逆臣の誤算
本能寺を焼き尽くし、天下を手中に収めたはずの明智光秀。
しかし、焼け跡から主君の遺骸がみつからないという不気味な空白が、知将の心を侵食し始めます。
安土城を占拠し、朝廷工作を急ぐ光秀の元に届いたのは、西国からの驚愕の報せでした。
親友の沈黙、迫りくる『死神』の足音。
情報の檻に閉じ込められた光秀が、奈落の底で見たものとは。
天正十年、六月初旬。
本能寺の焼け跡に立つ明智光秀を支配していたのは、天下を獲った高揚感ではなく、底冷えするような戦慄であった。
「首は……信長の首は、まだ見つからぬのか!」
光秀の怒号が、灰の舞う境内に虚しく響く。本能寺を幾度掘り返し、井戸の底まで浚わせても、織田信長の遺骸はついに発見されなかった。
「生きているはずがない。あの火の中で、逃げられるはずが……。」
光秀は自分に言い聞かせた。だが、首が手元にないという事実は、彼が最も恐れる『不確定要素』としてその胸に居座り続けた。信長という男は、死してなお、その存在しない骸で光秀を縛り付けていた。
この『首なし』という致命的な欠落を埋めるため、光秀は狂ったように動き始めた。自らの正当性を証明しなければ、自分はただの『主殺し』として歴史に埋もれてしまう。
光秀はまず、安土城を目指した。城内の金銀財宝を接収し、家臣たちに分け与えることで、強引に『新しき主』としての形を整えるためである。
ところが、信長の家臣で瀬田城主であった山岡景隆はこの光秀に同心せず、安土への要衝である『瀬田の唐橋』を焼き落として、光秀の進軍を妨害した。
光秀はこの橋の修復に三日を懸けざるを得なかった。この三日の遅滞こそ、彼が運命から見放され始めた兆しであった。
その後、光秀はようやく安土城を占拠。家臣たちへ恩賞を振る舞う一方、京の公家衆へも膨大な献金を送り、朝廷との接触を急いだのである。
「わしは、天下を乱すために信長を討ったのではない。悪政を正し、日の本に平穏を取り戻すためである……。」
六月九日、光秀はついに朝廷から京都の治安維持を命じる勅使を迎える。形式上、彼は『正義の将』となった。安土の豪華絢爛な広間に座し、公家たちの祝辞を浴びる光秀は、一瞬だけ、首が見つからない恐怖を忘れることができた。
(見よ、兵部大輔(藤孝)殿。信長の首などなくとも、朝廷はわしを認めた。世は、わしを中心に回り始めたのだ。)
だが、その盤石に見えた虚構に、最初の、そして最も鋭い亀裂が入った。
光秀が最も期待していた親友、細川藤孝、そして摂津の高山右近や中川清秀らからの合流の報せが、一向に届かないのである。
特に藤孝は、光秀の嫡男の舅であり、誰よりも固い絆で結ばれているはずであった。
「兵部大輔(藤孝)殿は慎重な御仁だ。わしが確実に天下を掌握するのを見極めているに違いない……。あるいは、西国の筑前(秀吉)を待っておられるのか?」
光秀は、西から近づく羽柴秀吉の動向を耳にしていた。『筑前(秀吉)が毛利と和睦し、こちらへ向かっている』との一報。その報告を聞いた時、光秀は自らの知略に基づき、それを『好都合』と判断したのである。
光秀には確信があった。かつて藤孝との密談で、万一本能寺で事を起こした折には、自分たちの傘下に引き入れる算段を語り合っていたからだ。藤孝もそれには深く頷いていた。
「筑前(秀吉)は利に敏い男。信長亡き後、必ずやわしに恭順し、『援軍』として駆けつけるはず……。」
光秀の脳内では、秀吉は毛利に背後を脅かされながら、命からがら自分に救いを求めてくる敗残の将として描かれていた。知将としての自尊心が、秀吉という男の恐ろしさを『自分に平伏すべき存在』として歪めて認識させていたのだ。
だが、六月十日。光秀の物見が、尼崎付近で不審な使者を捕らえた。男が持っていたのは、羽柴秀吉の印判が押された、摂津の諸将宛ての密書であった。
「筑前(秀吉)からの書状だと……? 出せ。奴が何を喚いているのか見てやろう。」
光秀は余裕を装いながら書状を広げた。だが、そこに記された文言を読んだ瞬間、彼の顔から血の気が失せた。
『上様(信長公)は御無事也。膳所にて傷を癒やしておられ、我ら羽柴勢はこれより逆臣、光秀を討たんとす。六月十一日には尼崎に到着せん。諸将、我らに合流せよ』
「愚かな……。信長が、生きて……ぎゃ、逆臣?な、なんと?わしを討つ?」
光秀は激しく動揺した。援軍だと思っていた秀吉の軍勢が、自分を『逆臣』として処刑しに来る討伐軍であるという事実。
さらに、首が見つからなかったという不気味な空白が、この『信長生存』という嘘に、呪いのような信憑性を与えていた。
「偽りを申すな!これは筑前(秀吉)のこけおどしじゃ!信長は生きてなどおらぬわ! 十一日に尼崎に届くなど、理に非ず!」
光秀は激昂し、書状を破り捨てた。だが、その指先は止まらなかった。破り捨てた紙片の一枚に記された『膳所』という文字が、床に落ちてなお、光秀を睨みつけているように見えた。
(膳所じゃと? )
光秀の脳裏で、膳所の深い闇の中から、血に濡れた信長がゆっくりと立ち上がり、安土へ向けて歩き出す幻影が結ばれた。
「あやつなら、やりかねぬ。あの火の中でも、死神のように笑いながら生き延びておるのではないか……。」
光秀は自分の肩を抱くようにして震えた。外で風が鳴るたびに、それが信長の軍勢の足音に聞こえてしまう。
その夜、届いた報せは光秀の怯えに輪をかけるように残酷であった。
期待していた高山右近、中川清秀、そして池田恒興までもが、光秀の誘いを断り、秀吉軍に合流したというのである。
光秀は信長が生存しているかもしれない事に対する怯えに加えて、秀吉や細川藤孝に対する怒り、そして摂津の諸将の裏切りに対する落胆を同時に痛感していた。
そして信長の仕置きで精神的に病んでいたとはいえ、『連合軍』という甘い言葉に唆された自身の愚かさを嘆いた。
(藤孝め……貴殿はわしを、最初から売るつもりであったのか。何が六万の連合軍じゃ!あの時の頷きも、あの時の微笑みも、すべてはわしをこの泥沼に引きずり込むための罠だったというのか!)
裏切りの冷たさが、背筋を凍らせる。藤孝の沈黙、そして秀吉の異常な行軍速度。すべてが一本の線で繋がった瞬間、光秀の足元は音を立てて崩れ去った。
「わしは……奴らを、援軍じゃと思うとった……。こんな恥晒し……利三にすら言えぬわ……。」
西から近づいていた砂塵は、自分を救うための風などではなかった。自分を、一族を、そして自らの正義を根こそぎ磨り潰すためにやってきた、死神の吐息だったのだ。
自分が安土で名物を愛で、形式的な交渉に逃避している間に、官兵衛は『情報』という武器で、光秀の周囲を完璧な『空白』に変えてしまったのだ。
「おのれ……筑前(秀吉)わしを、ここまで虚けに扱いおって……!」
光秀の目に、初めて『知的な自尊心』ではない、剥き出しの『憎悪』が宿った。しかし、その憎悪さえも、すでに官兵衛の計算の内にあることを彼はまだ知らない。
六月十一日。光秀の視界に、西の空を埋め尽くす土埃が見えた。
『援軍』などではない。四万の『処刑軍』が、そこにいた。
光秀は、震える手で陣太鼓を叩かせた。
「山崎へ! 山崎の出口を塞げ! 奴らを一歩も通すな!」
だが、その声はすでに枯れ、力はなかった。
官兵衛が設計した『檻』が、すでに山崎の地に口を開けて待っていることを、光秀はまだ知らなかった。
時代が、光秀という名の古い夢を、事務的に解体し始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
『中国大返し』という物理的な速度の裏で、官兵衛が仕掛けたもう一つの武器。
それが敵を孤立させ、精神を追い詰める『情報の檻』でした。
信長生存の噂、最も信頼していた親友の沈黙、そして自分を救う『援軍』だと思い込んでいた秀吉が『死神』へと変わる瞬間。
光秀の絶望を通じて、官兵衛という軍師の冷徹な凄みを感じていただければ幸いです。
次回、ついに激突。官兵衛が設計した『殺戮の檻』の全貌が明らかになります。




