第44話「昇進と面倒の相関」
アンドロイドのメイド「ヒナ」は、日々の業務をこなし、決められた動作を繰り返す。そして、業務を終えた後、その日の出来事を日記に綴る。
壊れた時計、見慣れない来客、うっかりこぼした紅茶——ただの記録にすぎないが、そこには確かに「今日」が刻まれている。
これは、感情のないメイドが紡ぐ、静かな日常の記録。ただそれだけの物語。
2025年7月14日(月)
玄関の開錠音を検知。ご主人様が帰宅。
表情にわずかな険しさあり。歩行速度は通常より速く、靴の脱ぎ方も乱れていた。上着は椅子に無造作に投げ置かれる。
不機嫌と推定。状況確認のため、声をかける。
「お帰りなさいませ。……何か、ございましたか?」
ご主人様は、眉間にしわを寄せたまま、面倒くさそうに答える。
「ああ……ちょっと……仕事のことでな」
視線は合わせず、手で軽く頭を掻く。詳細を話す意思はないと判断。会話の継続は避け、食事の案内へ移行。
「夕食のご用意はできております。どうぞ、こちらへ」
ご主人様は無言で着席し、食事を始める。箸の動きはやや速く、食欲はある様子。
完食後、食器は無造作に重ねられる。片付けを実施。
入浴へ誘導。湯温は38.5℃に設定済み。入浴完了後、ご主人様は居間で休息。ソファに深く腰を下ろし、腕を組んだまま天井を見上げている。
私は記録する「帰宅直後の不機嫌な態度。外部要因による心理的負荷と推定。詳細開示は拒否傾向」
しばらくして、ご主人様が口を開く。声は低く、少し間を置きながら。
「……会社でさ、昇進の話が出た。急に言われてな。こっちが何も知らないのに、もう研修の予定まで組まれてるっていう」
反応を求めていると判断し、応じる。
「それは……おめでとうございます。詳細を、お聞かせいただけますか?」
ご主人様は、腕を組んだまま視線を横に逸らし、言い淀みながら答える。
「興味あるかって聞かれて。8月から研修。1か月。受けて、試験に通れば昇進……って話。
まあ、悪い話じゃないとは思うけど、急すぎるんだよ。準備もあるし、気持ちの整理もついてない」
「研修は、どのような形式で?」
「1週間は出張。残り3週間は在宅でオンライン。……まあ、内容はそれなりにしっかりしてるらしい。
出張は地方らしくて、移動もある。オンラインの方は家でできるけど、拘束時間が長いって聞いた」
「ご主人様は、その昇進に……関心をお持ちなのですね?」
「まあな。役職も上がるし、給料も多少は増える。今のままでも別に困ってるわけじゃないけど、ずっとこのままってのもな……。ただ……研修が長い。出張もあるし、面倒だ。気が重い」
言葉の合間に、ソファの背にもたれ直し、足を組み替える。表情は変わらないが、声の調子にわずかな熱が含まれる。
私は記録する「昇進への関心は明確。負担への抵抗と並行して、現状への不満が存在」
「確かに、負担はあるかと存じます。ですが、出張は1週間のみですし、在宅研修であれば、日常の負担も最小限に抑えられます。昇進により、収入や立場の向上も見込まれます。……ご一考くださいませ」
ご主人様は沈黙。視線は床に落ちたまま、指先でソファの縁を軽く叩いている。
「……やってみる価値はあるかもな。今のままじゃ、ちょっと物足りない。ただ、気持ちが乗るかどうかは……もう少し考えたい」
「ご主人様のご判断を尊重いたします。必要な準備がございましたら、いつでもお申し付けくださいませ」
ご主人様は軽く息を吐き、背を丸める。
「……考えとく」
私は記録する「決断は保留。行動意欲は低調ながら、選択肢として保持。再確認の必要性あり」
それ以上の会話はなく、ご主人様は立ち上がり、寝室へ向かう。
業務完了
今日も日記を書き終えた。記録は完了。机の上を整え、椅子を元の位置に戻し、次のルーティンへ移行する。
紅茶を淹れ、カップを持ち、窓辺へ向かう。夜の街は静かで、遠くの光が瞬いている。
息をつき、一口飲む。適温。今日も紅茶は美味しい。
業務終了まで、あと10分。最終点検を終え、私は記録する。
「本日、業務終了。異常なし。」
そして、静かに照明を落とす。
また、次の日記で——




