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背負っているもの

 不気味な程の静けさに包まれている部屋に響くノック音。緊張を感じさせない軽やかなそれは、音一つしない部屋には十分な大きさであった。

 けれど、一向に応答がない。訪問者はドアの前でため息をこぼす。



「入りますよ」



 落ち着き払った声がかけられ、やっと訪問者の存在に気づいたのか、ドア越しにバタバタ、ガサガサと騒がしい音が聞こえてくる。

 ガチャ、とドアを開け、中を覗いてみれば、机から落下したのだろう資料や本が床に散らばっていた。訪問者であるセシルオは、この状態を作り上げた竜騎士隊隊長執務室の主たるニコラスに呆れを含んだ視線を眼鏡越しに向ける。



「何をやっているんでしょうかね」

「あ、いやぁ……これは……」



 目の前に広がる惨状の言い訳が思いつかず、笑い返すしかなかったニコラスは、僅かに口元が引きつった不恰好な笑みを浮かべる。



「少しボーッとしてしまって」

「ほうほう。ボーッとですか」



 男性にしてはしなやかな細い指で眼鏡の位置を直しながら、セシルオは誰もが見惚れてしまいそうな程の甘い微笑みをニコラスに向ける。全てを見透かすような青い瞳に囚われたニコラスは、薄っすらと背中に汗をかきつつも、急いでかけていた椅子から降り、床に散らばった資料を集め始めた。



「……えーっと、それでセシルオ副支部長は何のご用件でこちらに?」

「何だと思われますか?」



 ニコラスはやっとここで、セシルオの機嫌が悪いことを悟った。パッと見ただけではわかりづらいが、セシルオの笑みが甘くなればなるほど恐ろしいことを、十年以上の付き合いであるニコラスは知っている。


 セシルオは藤色の長い髪に中性的な美しい顔立ちを持ち、常に笑みをたたえ、所作の一つ一つも落ち着いている。騎士と並べば体の線の細さが際立つこともあり、女性に間違えられてもおかしくない見た目だ。

 けれど、セシルオはれっきとしたニコラスの先輩である。もちろん、竜騎士としての、だ。だから、見た目に騙されてはいけない。彼は決して、優しくはないのだ。



「えー、俺……あ、いや、私が何かミスを?」



 もはや普段、兄貴分として慕われている隊長の姿はそこになかった。セシルオの視線に情けなくもニコラスの肩がビクリと揺れる。



「ええ、そうですね。大きなミスというわけではありません。新しい防具の発注数が、二桁ほど多かったとか」

「二桁!?」

「新人騎士の評価記録だったはずのものが、途中から貴方の情けなーい、馬鹿らしーい、悩み相談記録に変わってしまっていたくらいで」

「ちょっと待ったぁ!?」



 わなわなと申し訳なさと恥ずかしさで震えるニコラスが、縋るようにセシルオの両肩を掴む。

 一見、儚げな人物が大男に襲われている図にも見えるが、セシルオがニコラスの勢いに負けることはない。着痩せしているだけで、セシルオの身体は騎士として現役バリバリの状態である。


 哀れなものを見つめるような冷たい目が、ニコラスを容赦なく突き刺した。



「安心してください。発注書はきちんと修正しましたし、評価記録もエドワードに提出するよう伝えてあります。さすがに悩み相談と化した記録を本部に提出するわけにはいきませんからね。いやー、二重チェックがここまで役に立つ事例を久しぶりに見ましたね」

「……お手数をおかけし、申し訳ございません」



 ニコラスが言えるのは、謝罪の言葉以外なかった。

 セシルオは大きなため息を一つ吐き、チラリと執務机の上へと視線を向ける。



「仕事も滞っているようですし」



 ニコラスは身体を動かすのが得意な者達ばかりが集まる騎士団の中では珍しい、机での仕事もきちんとできる騎士だ。何でも卒なくこなす器用な男と言っていい。それなのに、現在の机の上は、完了済みが一つもない。



「……ここまでとはね」



 セシルオはチラリと部屋の一角へ視線を向けた。吊られて視線を追ったニコラスは、その先を見て眉を下げる。

 ポツンとテーブルの隅に置かれた大きめの弁当箱。中身は綺麗に洗われているが、もう何日もあそこに置かれたままだ。



「仕事に私情を挟むのはいかがなものかと思いますよ」

「申し訳ありません」



 ニコラスは素直に頭を下げる。ニコラス自身も思っているのだ。このままではいけないと。

 ニコラスが仕事に身が入らない理由など簡単だ。



「まぁ、ニコラスが私情を挟むのは慣れっこなんですけどね。というか、いつだって貴方を揺るがせるのはメイさんしかいませんから」

「……」



 ニコラスの顔に影がさす。

 そう、いつだってニコラスの心を震わせるのはメイだった。


 引き取ったばかりの頃、ニコラスの帰りが遅いと一人で先に寝ていたメイ。いつだってその目元には何度も擦ったような痕があって、何もしてやれない自分に腹が立った。

 初めてメイが言葉を返してくれた時や初めて笑った時、初めて料理を振舞ってくれた時、ニコラスは泣きそうなくらい嬉しかった。

 風邪で高熱を出した時、隠していた怪我を見つけた時、仕事を見つけて家を出ると言い出した時、ニコラスは心配すると同時に恐怖を覚えた。


 メイはニコラスが守ってやらねばならぬ、大切な家族だ。今だって時々、ニコラスはあの地獄のような光景を夢に見る。

 瓦礫と死体の山、人々の苦しみ悲しむ声。その中にポツンと座り込んでいる小さな子供の姿。



「あの子は俺が守らなければと、ずっと思ってきたんです」

「……ええ」



 セシルオが初めてメイを目にしたのは、ベレニスの惨劇の半年程(あと)のことだ。表情の抜け落ちた少女をおんぶして、『熱があって家に一人にしておけない』とニコラスが南支部に連れてきたのだ。

 その光景をセシルオは冷めた目で見つめていた。いや、こいつは何をしてるのか、とニコラスを馬鹿にしていたかもしれない。


 ベレニスの惨劇は本当に酷いものだった。多くの人が命を落とし、何かを失い、未来を見失った。メイのように家族を失った者など、数えきれぬほどいたのである。

 だと言うのに、ニコラスはメイを引き取った。たくさんの中から一人だけを救い出して何になる。あの時、セシルオはそう思ったのだ。


 ニコラスのしたことは自己満足でしかない。メイを救って現状が回復するわけでもなし、メイのような者がいなくなるわけでもない。

 何かとメイを気にかけ、答えてくれないというのに懸命に向き合うニコラスを、セシルオは哀れんですらいた。


 けれど、今思えば、それも全てニコラスを見下すことで、ベレニスの惨劇で相棒のドラゴンを失ってしまったという現実から目を背けようとしていた己の弱さだった、とセシルオは感じている。



「実際、ニコラスはメイさんを守ってきたではありませんか」



 出会うたびに表情に色がついていくメイを、セシルオは南支部で見てきた。決して惨劇から立ち直ったわけではないだろう。けれど、メイが前を向けたのは間違いなくニコラスの存在があったからだ。

 ニコラスはメイの身体や生活だけでなく、心も守っていた。



「彼女はもう立派な大人の女性に成長したと思いますよ」

「……ええ、まあ。メイにももう子供じゃないと言われてしまいました。メイはもう大人なんですよね」



 それはまるで自分に言い聞かせているようだった。ニコラスの弁当箱に向ける眼差しは寂しそうで、何より不安そうだ。

 そんなニコラスの姿を見て、セシルオはある事に気がつき、口を開く。しかし、セシルオの言葉は勢いよく開かれたドアの音でかき消された。



「んなこと、今更すぎますって」

「レオン!? というか、お前はノックができないのか!」



 飛び込んできたのは、ふんっと悪びれた様子もなく、金の瞳に挑戦的な色を宿したレオンだった。影を帯びていたニコラスも、思わぬ登場の仕方にレオンへ苦言を呈す。



「盗み聞きとは褒められたものじゃありませんね」

「二人に気づかれなかったってことは、また俺の腕が上がった証拠だな」



 セシルオの恐ろしほど美しい笑みもレオンには通用しない。腰に手を当てニシシッと笑ったレオンを見て、ニコラスとセシルオは諦めたように肩を落とした。



「んなことより、メイちゃんの話。あの子が大人の女性なんて、なにわかりきった事を話してるんすか?」

「いや、まぁ、そうなんだが」



 歯切れの悪いニコラスの態度に、レオンはあからさまに呆れた様子を見せる。



「まるで大人になられちゃ困るって言ってるみたいだ」

「そんなわけないだろう。メイだって、いつかは独り立ちしなくちゃいけないんだ」

「独り立ちはもう十分してるでしょう? メイちゃんを子供だと引き留めてんのは隊長だけだよ」

「なに?」



 ソファーの背もたれに腰掛け、腕を組んだレオンをニコラスは睨みつけた。騎士特有の殺伐とした空気が辺りに漂い始めたが、セシルオは止めるどころか傍観している。



「俺はただメイを心配しているだけだ」

「親の役割を担ってきた者として、って言いたいんでしょ? なら、その弁当箱だって普通に返せるじゃないの? なにをビビってんの?」

「ビビってなんかない。ただ、どういう顔をして会えばいいのか……」



 ニコラスの脳裏に浮かぶのは、先日のメイの姿だった。『子供じゃない』なんて昔からメイが口にする言葉だ。それは親に文句を言う子供の台詞。そんな風に捉えていた。


 けれど、あの夜は何かが違った。まるでここから先には入ってくるなと線引きされたような、家族じゃないと切り捨てられたような感覚。

 メイが全く知らない女性に見えて、それなのに言動は不自然なくらいいつも通りで。そのちぐはぐさにニコラスは困惑してしまった。



「そういえば隊長知ってます?」



 先程までの挑戦的な風貌を消し去り、いつも通りの調子で突然話し出したレオンの言葉に、ニコラスは伏せていた顔を上げる。



「なにがだ?」

「メイちゃん、仕事帰りは同僚に送ってもらってるんですって。この前女のところに遊びに行った帰りに、ばったり会ったんですけど」

「お前はまたそうやって女性のところに……」



 レオンらしい行いに毒気を抜かれ、ニコラスは重いため息と共に肩から力を抜く。しかし、少しだけ和んだその雰囲気も、レオンの次の言葉で固まった。



「なんだ、その様子だと知ってたんですね。へぇー、少し驚きました。隊長が男と歩くのを許可するなんて」

「は? レオン、お前何を言って」

「だから、仕事終わりに家まで男に送ってもらってるんだーーって、近い! 近いって!」



 凄まじい勢いで距離を詰めてきたニコラスに、レオンは思いきり仰け反った。そのままソファの前方へと転げ落ちそうになっているレオンを見兼ねて、セシルオがニコラスを引き剥がす。



「その様子じゃ、知らなかったと?」

「同僚に送ってもらうとは言っていたが、男だとは」

「いやいや、女の子に送ってもらってたら意味がないでしょうが。てか、送る側の子はどうでもいいって言ってるのと変わらないよ。それは騎士としてまずいっしょ」

「た、たしかにそうだが……」



 すでにニコラスの頭はパンク寸前。普段はどんな魔獣が襲ってこようと冷静沈着なニコラスの取り乱し様に、さすがのレオンも可哀想に思えてきた。



「ほんと、メイちゃんが関わるとメイちゃんしか見えなくなるよね、隊長って」

「まぁ、メイさんはニコラスにとって唯一の家族と呼べる相手でもありますからね。でも、そろそろ潮時なのかもしれません」



 レオンの呟きにセシルオはそっと言葉を返すと、労わるように優しくニコラスの肩に手を置いた。



「ニコラス、貴方はメイさん離れをしなければいけない時期なんですよ」

「何を……」

「貴方がメイさんを引き取った理由は、彼女をあの場から助けたという理由だけじゃありませんよね?」



 ニコラスの黒い瞳が揺れ動く。しかし、それ以上の反応はなく、ニコラスの口から否定の言葉は出てこない。



「自分と同じ境遇の彼女を見ていられなかったからでしょうか」



 セシルオの言葉を耳にした瞬間、ニコラスはギュッと強く拳を握りしめた。


 ニコラスもまた二十年前に村を魔獣に襲われ、故郷や家族、住処も全て失い孤児となった境遇の持ち主だった。その時に助けてくれた当時竜騎士のガイザルに憧れ、自分も戦う力が欲しいと竜騎士を目指したのだ。



「……俺は竜騎士になる時誓ったんだ。もう二度とあんな惨劇は生み出さないと。だけど結局、大量の魔獣を止めることはできなかった。メイの姿が小さい頃の自分と重なったのは確かだ。メイを引き取ったのも、見ていられなかったって理由もある。でも、あの時は自分への戒めもあったかもしれない」



『お前が魔獣に負けたから再びあの悲劇が起こったんだ』という戒め。メイを見るたび、ニコラスは自分の心に深く刻んだ。

 もうこんなことがあってはいけない。もっと強くならなければいけない、と。



「でも、いつの間にか、メイは戒めの象徴ではなく、人の温かさを伝えてくれる象徴になった。明かりのついた家に帰れば、笑顔で迎えてくれる(メイ)がいて、心配してくれて、泣いてくれて、怒ってくれる。忘れていた家族の事を思い出させてくれた」



 どうしようもないことで喧嘩して、小さなことで笑い合って、静かに過ぎていた人生が一気に賑やかなものになった。それがニコラスはとても心地よかった。

 だからこそ、メイを守りたかったのだ。もう絶対傷つけたくなどなかった。


 どうせだったらずっと子供のままでいてくれたら、とニコラスは思う。そうすれば、大義名分を掲げて守れたというのに。

 今じゃ他人に任せなくてはいけなくなってしまった。



「たしかにセシルオ副支部長の言う通り、子離れする時期なのかもしれませんね。……じゃないと、メイに近づく輩を排除したくなる」



 ボソリと溢れたニコラスの恐ろしい言葉に、レオンは顔を引きつらせた。セシルオも笑みを浮かべまま固まっている。



「た、隊長? 別に副支部長は子離れしろと言ったわけではなく、メイちゃん離れをしろと言ったんですよ?」

「……何が違う?」



 心底わからないといった表情を浮かべるニコラスに、レオンは「あぁぁああっ!」と頭を抱えて叫んだ。



「なんでここまで言ってもわかんないんだ!? 鈍感ってレベルを超えてないか!?」

「お、おい、レオン。少し落ち着け」

「これが落ち着いていられるか! どんだけ自分の気持ちに疎いんだよ! 逆にそんな無自覚な状態でウロウロされたら、メイちゃんの周りにいる男の身が危険だよ! いつ闇討ちされるかわかんねぇよ!」



 ニコラスはレオンの言っていることが理解できず、セシルオに助けを求めるような眼差しを送った。

 もちろんセシルオはレオンの言いたいことがしっかりと理解できている。正直もう仕事に支障が出なさそうなので、これ以上はどうでもいいのだが、残念ながらこの二人を放置できるほど浅い仲でもなかった。



「そうですねぇ……まぁ、簡単に言えば、メイさんを他の男に取られて平気なら子離れを、平気じゃなければメイさんへ考えを改めて、男として自分で守りやがれ、ってことですね」

「は?」

「では、私は仕事がまだありますので、この辺で失礼します」

「ちょっと待った!」



 軽い会釈をしてその場を去ろうとするセシルオを引き止めたのは、唖然としたまま動きを止めているニコラスではなく、頭を抱えて喚いていたレオンだった。

 セシルオはわかりやすいくらいに表情を歪める。普段笑みを絶やさない男だからこそ、負の表情が一段と恐ろしいものに見える。ただし、レオンを除いてだが。



「何でしょうか? 私もそれほど暇じゃないのですよ?」

「いやいや、まさか俺が隊長をいじるためだけに隊長室に来たとでも思ってたんですか?」

「おや、違うのですか?」



 戯けたような返事をしてはいるが、セシルオの青い瞳は笑っていなかった。対するレオンも、先程までのおちゃらけた雰囲気を消し去り、誰が見ても美男子だと言うだろう凛々しく真剣な顔つきになっている。

 ニコラスも普段通りの落ち着きを取り戻していた。切り替えの早さはさすがである。



「今日の巡回で魔獣五体と遭遇した」



 レオンの重々しい声が張り詰めた空気を震わせた。



「全て排除したが、これはでかいのが来る」



 魔獣の発生は珍しいことじゃない。単体でならかなりの頻度で遭遇する。それが国境よりも遠くなら排除しない。魔獣は普通の動物よりも頭が良いから何かない限り人里には近づかないし、狩りすぎると自然の生態系が壊れるからだ。

 しかし、群を作り始めれば話は別である。単体で生活をする魔獣が群れを作る。それはつまり、繁殖期が訪れたことを意味する。


 魔獣の繁殖期は様々で、規模もかなり差がある。小さければ対処もしやすいが、大きくなれば、食料を求めて人里に降りてくることも少なくない。

 ただでさえ凶暴化していて対応が難しいというのに、群れで襲われてはひとたまりもない。いつベレニスの惨劇と同じことが起こってもおかしくないのだ。



「……他の支部にも連絡を入れる。一時間後、緊急ミーティングを行うから、レオンは皆に連絡を。セシルオ副支部長は支部長へ連絡をお願いします」

「わかりました」

「了解」



 三人の表情は険しく鋭い。ピリピリとした空気が肌に刺さる。

 すぐに踵を返し部屋を後にしたセシルオに続こうとレオンがドアへと足を向けた時、ニコラスがレオンを引き止めた。

 ニコラスの視線はレオンの左腕へと向けられている。



「レオン、お前はまず医務室に行って、その腕の傷を消毒してもらえ」

「こんなの舐めときゃ治りますって」

「これから何が起こるかわからない。万全を期すためだ」

「……了解」



 真新しい擦り傷のついた左腕を、レオンは右手で強く掴む。

 どんなに技を磨こうと、どんなに優秀な竜騎士だと言われようと、本番で活躍できなければ意味がない。それは、竜騎士として色々な戦いを経験すればするほど身に染みることだ。



「すぐに気づかなくて悪かったな」

「そんなこと言われたら、俺もおちょくって悪かったって言わなきゃいけなくなるじゃないですか」

「お前は絶対言わないだろ」

「たしかに。んじゃ、ちょっくらセリーヌに会いに行ってきまーす」



 騎士の礼をとるわけでもなく、ふらふらぁと部屋を出て行ったレオンの背を見送ったニコラスは、すぐさま動き出す。その姿はここ数日の腑抜けた姿とは別人のようだった。




 ♢



 様々な種類の薬が並ぶガラス張りの棚に、しわ一つなく整えられた三台のベッド、もはや飾りにしか見えない人体模型。薬品の独特な香りは一度足を踏み入れただけで、ここが医務室なのだと実感させる。



「ああ、もう。傷口が少し爛れてるじゃない。あんた、まさかこれを放置する気じゃなかったでしょうね?」

「……ちゃんと来ただろう」



 清潔さを醸し出す白を基調とした部屋には幾分か眩しすぎる髪色の二人が、向かい合う形で椅子に座っていた。

「やっほー」と陽気に医務室へ入ってきたレオンだったが、左腕の怪我を見せた途端、医師であるセリーヌの小言が始まり、レオンは若干疲弊している。



 セリーヌは第四騎士団南支部の医務室で働く女性医師だ。プラチナブロンドの長く美しい髪を後ろで無造作に結い上げ、紫の瞳に眼鏡という、見るからに頭の良さそうな見た目をしている。

 顔立ちは至って普通だが、白衣を着ていてもわかるくらいにナイスバディの持ち主であった。


 ただ、面倒見が良く姉御肌なせいか、若干口が悪いせいか、はたまた自分に関しては無頓着なせいか。十八から二十三歳が女性の結婚適齢期と言われているこの世界で、二十八歳の今も独身彼氏なし。もはや彼女自身がネタにするほどである。



「本当に無茶苦茶なんだから。いっつも怪我ばかりして」

「怪我をしてるのはセリーヌに会うためなーー」

「あー、はいはい。そんなしょうもないこと言ってないで、手当てしちゃうわよ」

「……ほんと、セリーヌは口説きがいがないな」



 たっく、と文句を言いながらも真っ赤な騎士服の上着を脱ぎ、中のシャツ一枚になったレオンは、片手で左腕の袖を捲り上げる。シャツごしでもわかる厚い胸板。袖から現れたのは、筋のある鍛え抜かれた腕だ。

 一般的な女性ならば、その見惚れるほどの肉体美に感嘆の息をこぼしてもおかしくない状況だが、セリーヌは淡々となれた手つきで傷口を水で洗浄し始めた。


 魔獣は基本的に不衛生な森の中で生活しているので、素肌に触れれば、被れたりと様々な症状が出る。中には毒を持つものもいるが、竜騎士達は魔獣の特性を熟知しているので、医師から苦言を呈すような程悪化することは少ない。


 ただし、セリーヌの目の前にいるレオンは別だ。彼の戦い方は特攻が多く、どんな魔獣でも恐れることなく挑んでいくので生傷が絶えない。レオンの技術が高いおかげで怪我は最小限に抑えられているが、それにしたって怪我が多いのだ。


 そして、タチの悪いことに、レオンはなかなか手当を受けに来ようとしない。痛みに慣れてしまったとも言える。

 今だって、普通ならば染みて痛いはずの消毒を、顔色ひとつ変えることなく受けているから恐ろしい。



「副隊長に昇進したんだから、少しは自重しなさいよ」

「これが俺の戦い方なんだよ。まとめ役はニコラス隊長一人で十分だ」

「なにもっともらしい事言ってるの。頭を使う仕事を丸投げしてるだけじゃない。全ては考えるより先に本能で動く、あんたの性格よ」

「うるさいなぁ」



 そっぽを向いてしまったレオンに、セリーヌはため息をこぼす。

 レオンとセリーヌは年齢こそセリーヌが一つ上だが、南支部に配属されたのは同時期だった。そのせいか、レオンもセリーヌの前では普段の優男の仮面を外し、不機嫌さを隠そうとしない。


 とはいえ、セリーヌもレオンに対しては言い過ぎることが多々あるため、度々反省はするのだ。医者じゃない者に医者の仕事が理解できないように、竜騎士じゃない者が竜騎士の仕事に口出ししてはいけない。

 それでもやはり、七年間彼ら(竜騎士)を医務室から見守ってきた身としては、言いたくなることもある。



「セリーヌさん、いますかぁ?」



 医務室に漂う気まずい雰囲気をかき消すような明るい声が入口の方から聞こえてくる。その声に先に反応したのはレオンだった。

 薬を塗った腕に包帯を巻いていたセリーヌの手から包帯を奪い立ち上がると、軽い足取りで入り口へと駆けていく。



「こんなところでヘレインちゃんに会えるなんて、俺ついてるなぁ」

「うえっ!? レオンさん! なんでここに? あっ、怪我を……大丈夫ですか?」



 セリーヌが発注していた薬品を届けにきたヘレインは、突然姿を現したレオンに驚き、すぐさま左腕に視線を向けた。

 ヘレインの言葉にレオンは蕩けるような笑みを返し、心配ないと言いたげに左腕を振ってみせる。



「ちょっとセリーヌが大袈裟なだけだよ。ヘレインちゃんに心配してもらえたから、もうすっかり良くなーー」


 ーースパーンッ!



 小気味いい音が医務室に響き、遅れて「痛ってぇええ!」というレオンの悲鳴に近い叫び声が上がる。頭を押さえながら勢いよく振り返ったレオンは、冷たい眼差しでファイルを持っているセリーヌを睨みつけた。



「思い切りいくことないだろうが」

「見境なく女を口説く男には、これくらいがちょうどいいのよ」

「俺は怪我人だぞ」

「あら、すっかり良くなったのでしょう?」



 殺伐としながらも軽快な掛け合いにヘレインは唖然としつつ、あまり見たことのないレオンの姿に興味を持った。

 いつもは皆を引っ張り、振り回しているレオンが、今はセリーヌに押されている。いつもよりも口調や振る舞いが乱暴なのにだ。



「そうかそうか。ヘレインちゃんばかりかまったから不貞腐れてるんだな」

「腕より頭の方が重症のようね」

「俺はセリーヌでも大歓迎だぜ?」

「もう一度殴られたいのかしら?」



 セリーヌがファイルを持つ手を掲げたのを目にし、レオンは「それは勘弁だわ」と上着を肩にかけ、そのまま医務室を後にしていく。もちろんヘレインに「じゃあね」と微笑むことは忘れない。

 残されたセリーヌは鼻から小さく息を吐き出した後、何事もなかったかのように動き出した。



「あの……レオンさんはいいんですか?」



 思わず問いかけたヘレインに、セリーヌは困ったように笑いかける。



「いいのいいの。あいつの処置を最後までできた事なんて数えるくらいしかないし」

「え?」

「竜騎士自身の方が怪我の度合いをわかってるってこと。私が必要なのは、彼らがベッドの上から動けなくなった時くらいよ」



 一度魔獣が現れれば、竜騎士はどんな怪我をおおうとも、翼が折れるまで空を飛び続ける。彼らは人間では魔獣に勝てないと痛いほど身に染みているのだ。

 第四騎士団に入る者は物好きの変人だと言う者がいる。けれどセリーヌは、あれ程までに国を想い、ドラゴンを愛し、自分を犠牲にする者達を知らない。



「私には彼らを引き止めることなどできない……ねぇ、ヘレイン。貴女はアレクが好きなのでしょう?」

「な、なんでそれを」

「ふふふーー、見てればわかるわ」



 真っ赤に顔を染め俯くヘレインをセリーヌは微笑ましげに見つめる。真っ直ぐに恋をしているヘレインが可愛くて仕方がない。だからこそ、知ってほしいこともある。



「アレクはこれからどんどん成長して、立派な竜騎士になると思うわ。優しくて、正義感のある子だものね」

「はい」

「だから、どんな時でも支えてあげてほしい。彼が喜んでいる時も苦しんでる時も」

「……セリーヌさん?」



 ヘレインの瞳に不安の色が宿る。セリーヌも本当ならばこんな事は言いたくない。いや、もしかしたら余計なお世話なのかもしれないとも思えてくる。

 けれど、竜騎士として様々な経験を積んでいくことになるだろうアレクに恋をするヘレインならば、いつかは必ずぶつかることになる。それならまだ引き返せるところで知って、少しでも考える時間があったほうがいいとセリーヌは思うのだ。



「ヘレインは何でレオンが特定の女性を作らないか知っている?」

「え……女性が好きだからじゃないんですか?」

「あはははーー、それはそうかも」



 思ったことをそのまま口にしたヘレインの素直さにセリーヌは思わず笑ってしまう。そして、間違っていないと頷いた。



「あいつは根っからの女好きだからね。でも、愛情は人一倍持ってるのよ? きっと相手が決まったら一途だと思うわ」

「じゃあなんであんなにコロコロと女性を変えるんです?」

「もちろん、続かないからよ」



 ヘレインはポカンと口を開けたまま固まった。もっと意外な理由かと思えば、当然と言えば当然の理由だったからである。



「あいつは不器用とも言えるわね。レオンの一番はいつだって竜騎士という仕事であり、相棒のドラゴンで、揺るがないのよ。何かあった時、優先するのは愛する女性ではなくドラゴン」



 レオンはどんなに夜遅くなろうと女性の家には泊らず、寮へと帰ってくる。有事の際には、女性を安全な場所へ連れて行くより前に支部へと戻ってくるし、ドラゴンの体調が少しでも悪ければ、約束をドタキャンするのは当たり前だ。



「女は口では平気だと言うけれど、本心では自分を一番にして欲しいと思うでしょう? レオンもそれがわかってる。でも、叶えてはやれない。だから、軽い男のままでいることを望んでるのよ。女に夢を持たせないためにね」



 ヘレインはただただ聞いていることしかできない。あんなにいつもヘラヘラと笑って、呼吸をするように平気で誰にでも甘い言葉を吐くレオンの知らない顔を知ったような感覚だった。



「あんなどうしようもない男でも何か抱えてるってこと。たくさんの命を背負う彼らに、私達がしてあげられることは少ない。情けないことにね。でもね、そばにいることはできると思うの」



 俯くヘレインの頭をセリーヌは優しく撫でる。



「アレクはきっとこれからいろんなことを経験するわ。ヘレインには聞かせられないようなこともあるかもしれない。だけど、そばにいて支えてあげることはできると思う。それ相応の覚悟は必要かもしれないけど、アレクはレオンみたいに不器用じゃないし、ヘレインなら大丈夫だと私は信じてるわ」

「私……」



 微かに目が赤くなっているヘレインにセリーヌは冷やすものを用意するため背を向ける。


 恋をしたばかりの子には残酷だったかもしれない。

 けれど、セリーヌは南支部に配属されてから七年もの月日を竜騎士達と過ごしてきた。医者として治せるのは外傷だけで、心におった傷は治せないのだと何度も痛感し、唇を噛んだ。


 竜騎士隊に配属されてまだ半年しか経っていない時にベレニスの惨劇が発生し、自分の無力感に打ちのめされていた男の心を救うこともセリーヌはできなかった。

 彼はその悔しさをバネに、多くの技を身につけ、今では第四騎士団きっての騎士へと成長したが、あの時受けた心の傷が癒えていないのか、自分が魔獣を狩るという意思が異様に強くなり特攻癖が直らない。


 そして、セリーヌは危険だと知りながら、強く彼を、レオンを止めることができないのだ。



「……私は欲深いから、捨てられたくないという自分の気持ちを優先して必要以上に近づくことをやめてしまった」

「……え?」

「向き合うことから逃げて、同僚でいることを選んでしまったってこと。でも、ヘレインには後悔してほしくないから」



 竜騎士は痛みに強いのではない。痛みや苦しみに鈍感でなければ、まともに立ってなどいられないのだ。


 ここは第四騎士団南支部にある医務室。

 竜騎士達の生死だけでなく、彼らの強さや弱さを垣間見ることができる場所。


 自分の痛みを我慢してまで人々を守ろうとする心の強さを見せる一方、大切なものを作り、残していく可能性に怯える弱さも覗かせる。

 そんな彼らの生き様をセリーヌはずっと見てきて、セリーヌは誰よりも竜騎士達の苦しみを知ってるつもりだ。


 なのに……いや、だからこそセリーヌはレオンと向き合うことから逃げてしまった。怖くなってしまった。

 だって、彼の誇りを知っていながら、それでもなおレオンを引き止めてしまいそうだったから。それではレオンと付き合い、すぐに別れていった女性達と何も変わらないではないか。



「いつだって、誰だって、大切な人と生きていくことが一番幸せだと私は思ってる。だから、押し付けがましいとは思うけど、ヘレイン達にはうまくいってほしいの」



 そう言って振り返ったセリーヌの表情は、優しくて、少し寂しそうだった。ヘレインはぐっと息を詰める。



「セリーヌさんの好きな人って……」

「……さぁ? 誰でしょう? ほら、目元冷やして仕事に戻りなさい。またニコラス隊長に怒られるわよ?」



 これ以上の話は終わりというように、セリーヌはヘレインに笑いかける。もう先ほどまでの憂いはなく、いつも通りのセリーヌだった。

 ヘレインも口を閉じ、セリーヌに言われた通り目元を冷やし、医務室を後にする。



 人が誰もいない廊下を歩きながらヘレインはセリーヌとの会話を思い出す。



「……支える覚悟か」



 ヘレインは自分の恋心に手一杯で、そんなことを考えたこともなかった。けれど、ヘレインが恋をしたのは、幼馴染のアレクだけれど、竜騎士のアレクでもあるのだ。


 ベテランの竜騎士達が乗り越えてきたことを、アレクはこれから乗り越えなくてはいけないのかもしれない。その時、自分は何ができるのか。ヘレインにはまだ検討もつかなかった。



「しっかり考えなきゃな」



 そう呟き、拳を握るヘレインはまだ知らない。その覚悟を決める時がすぐそこまできていることを。

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