第51話 奥様は、私の名前を知っている
新人メイドのミア・ベルナーは掃除道具を載せたワゴンを前に、見覚えのない廊下で立ち尽くしていた。
今朝もシャルロッテ・ミラーについて客室を回り、掃除の手順や備品の場所を教わっていた。ところが替えの布を取りに離れ、戻る途中で曲がる場所を間違えたらしい。
(……ここ、どこ?)
働き始める前は、三日もあれば屋敷の中くらい覚えられると思っていた。その自信は初日で綺麗になくなり、四日目になった今でも、似たような廊下が続く侯爵邸はミアにとって立派な迷路だった。
先輩であるシャルロッテさんを探して聞けばいいのだが、できることなら優秀なところをを見せたい。そんな新人らしい意地が邪魔をして、ミアは記憶を頼りに来た道を戻った。
やがて、見覚えがあるような気がする扉を見つける。
(ここだった……はず)
自信はまったくない。それでも、いつまでも廊下をうろうろしている方が恥ずかしくて、ミアはワゴンの取っ手を握り直した。
「失礼いたします」
扉を開けてワゴンを押し込み、三歩ほど進んだところで、ミアはようやく自分の間違いに気づいた。
立派な机には書類が置かれ、壁際の本棚には分厚い本が隙間なく並んでいる。奥には寝室へ続いているらしい扉まであり、先ほどまで掃除していた客室とはどう考えても違う。
(間違えた……!)
慌てて引き返そうとしたところで、部屋の奥から柔らかな声が聞こえた。
「ミア?」
自分の名前を呼ばれ、ミアの手がワゴンの取っ手を握ったまま止まった。恐る恐る振り返る。
窓辺に立っていたのは、エレノア・ヴァン・アドラー侯爵夫人だった。
艶のある長い髪を普段より簡単にまとめ、手には掃除用の布を持っている。華やかなドレスを着ているわけでもないのに、美しい顔立ちと女性らしい姿は十分すぎるほど目を引いた。
遠くから何度か見たことがある。見間違えるはずがない。この屋敷の奥様である。
「あ……お、奥様!?」
「おはよう、ミア」
「お、おはようございます!」
慌てて頭を下げたものの、ミアの頭は混乱していた。部屋を間違えた。そこに侯爵夫人がいた。新人メイドとしては、朝から泣きたくなるほどの失敗である。それなのに、一番気になったのは別のことだった。
ミアは顔を上げ、エレノアの綺麗な顔を見つめる。
「あの……奥様は、どうして私の名前を?」
「新しく入ったミア・ベルナーでしょう?」
あまりにも自然に返され、ミアは目を丸くした。
「でも私、奥様とはまだ、まともにお話ししたこともありません」
「そうね。でも、これから同じお家で過ごすのだもの。顔とお名前くらいはすぐ覚えられますよ」
エレノアは何でもないことのように微笑んだ。
ミアには、それが何でもないことだとは思えなかった。アドラー侯爵家には大勢の使用人がいる。ましてや自分は入ったばかりで、仕事を覚えることに必死な新人だ。エレノアの姿だって、廊下や食堂で遠くから見たことがあるだけだった。そんな自分を、侯爵夫人が知っている。
「わたし……奥様に覚えていただいているとは思っていませんでした」
「まあ。せっかく来てくれたのに、お名前も知らない方が寂しいでしょう?」
エレノアが柔らかく笑う。その顔があまりにも綺麗で、ミアは返事を忘れて見惚れてしまった。
遠くから見ていた時は、美しくて上品で、自分とは住む世界が違う人に思えていた。実際に話してみると、想像していたよりずっと柔らかい。
そんなことを考えていたミアは、自分が何をしに来たのかを思い出して青ざめた。
「申し訳ございません! 私、客室へ戻ったつもりで、こちらのお部屋を……!」
「迷ってしまったのね。このお屋敷は広いもの。まだ四日目でしょう?」
「はい……。早く覚えなくてはと思っていたのですが」
「私もお嫁に来たばかりの頃は迷ったわよ。初めて一人で厨房へ行こうとした時なんて、気づいたら全然違う場所にいたの」
ミアは思わず顔を上げた。目の前にいるのは、どこから見ても立派な侯爵夫人である。その人が屋敷の中で迷っていた姿など、どう頑張っても想像できなかった。
「奥様も迷われたのですか?」
「ええ。結局、通りかかったメイドに厨房まで連れていってもらったわ。だからミアも大丈夫。そのうち、考えなくても歩けるようになるから」
叱られると思っていたのに、なぜか侯爵夫人の失敗談を聞かされている。張り詰めていたミアの肩から力が抜けた。
そこへ廊下から足音が近づいてきた。
「ミア、そちらでは……」
扉から顔を覗かせたシャルロッテは、探していた新人を見つけてほっとした顔をした。ところが、その隣にエレノアまでいることに気づき、すぐに姿勢を正す。
「奥様、申し訳ございません。ミアには私が客室を教えていたのですが、途中ではぐれてしまったようで」
「大丈夫よ、シャルロッテ。私もお嫁に来た頃は迷ったのだと話していたところなの」
シャルロッテは怒られるどころか、困ったように笑った。
「奥様、ミアを安心させるためとはいえ、ご自分の失敗までお話しにならなくてもよろしいのですよ」
「でも、本当のことだもの。私だけ最初から迷わなかったことにしたら、ミアが可哀想でしょう?」
そのやり取りを聞いていたミアも、とうとう頬が緩んだ。侯爵夫人と使用人なのだから、もちろんシャルロッテは礼儀を守っている。それでも二人の間には、長く同じ家で過ごしてきた者同士の親しさがあった。
エレノアはシャルロッテへ顔を向ける。
「昨日は東側の客室を教えていたでしょう? 今日は西側を回る予定だったわよね」
「はい、その予定です。……よく覚えていらっしゃいますね」
「ミアが一生懸命覚えていると聞いていたから、気になっていたのよ」
名前を知っていた時にも驚いたのに、昨日どこで何を教わっていたのかまで知っているらしい。ミアは嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになった。
四日前に入ったばかりの自分が、侯爵夫人の目に留まるような仕事をした覚えはない。それでもエレノアは、ちゃんと自分をこの家で働き始めた一人として見てくれている。
「それにしても、ここまで来てしまったのなら、随分遠くまで迷ったのね」
エレノアがワゴンへ目を向ける。その言葉で、ミアは今いる場所がどこなのか知らないままだったことを思い出した。
「奥様。こちらは、どなたのお部屋なのでしょうか?」
「主人の部屋よ」
「……ご主人?」
「アルベルトの私室なの」
今度こそ、ミアの顔から血の気が引いた。
アドラー侯爵家当主、アルベルト・ヴァン・アドラー。つまり自分は、働き始めて四日目にして、侯爵本人の私室へ掃除道具を持って勝手に入ったことになる。
「も、申し訳ございません! 私、知らなかったとはいえ、旦那様のお部屋へ勝手に……!」
「大丈夫よ、ミア。間違えて入ってしまっただけでしょう? 何かを壊したわけでも、勝手に触ったわけでもないのだから、次から気をつけてくれればそれでいいのよ」
エレノアの声は変わらず穏やかだった。ミアは何度も頭を下げそうになるのを堪え、今度こそきちんと返事をする。
「はい。次からは扉を開ける前に確認いたします」
「ええ。それでも分からなかったら、誰かに聞いてね。一人で困ってしまうより、その方が私も安心だわ」
そこまで言われて、ようやくミアも落ち着いた。そして顔を上げたところで、エレノアが手にしている布が目に入った。
改めて部屋を見れば、窓は開けられ、机の上も綺麗に整えられている。どう見ても掃除の途中だった。
「どうして奥様が、旦那様のお部屋をお掃除なさっているのですか?」
エレノアは手にした布へ目を落とした。
「このお部屋だけは、昔から私が整えているの」
「ずっと奥様が?」
「ええ。結婚した頃からね」
エレノアはアルベルトの机へ目を向け、その美しい顔をほころばせた。
「主人のお部屋くらい、私がお世話をしたいでしょう?」
ミアは、今度は違う意味で言葉を失った。貴族の夫人が自分で掃除をすることも珍しいのに、その理由が夫の部屋だからというのだから驚いてしまう。けれど、エレノアの顔を見ていれば分かる。この人は本当に、夫の部屋を自分の手で整えたいのだ。
「さあ、シャルロッテ。ミアを連れていってあげて。これ以上遠くへ行ったら、今度こそ戻れなくなってしまうわ」
「はい。今日は私も、ミアが後ろにいるか確認しながら歩きます」
「わ、私もちゃんとついていきます!」
慌てて答えたミアに、エレノアが楽しそうに笑う。
「ええ。頑張ってね、ミア」
たったそれだけなのに、名前を呼ばれたことがやっぱり嬉しかった。
♢
アルベルトの私室を出て廊下を進み、角を一つ曲がったところで、ミアは胸に溜めていた息を吐いた。
「私、本当にクビになると思いました。旦那様のお部屋だと聞いた時なんて、今日中に荷物をまとめるところまで考えました」
「四日目で旦那様の私室へ迷い込んだ子は、私も初めて見たけれどね。奥様がおっしゃった通り、次から気をつければいいのよ」
シャルロッテは笑っている。ミアは恥ずかしくなったものの、先ほどから気になっていることを我慢できなかった。
「奥様って、いつもあんなに優しいんですか? 私の名前まで知っていて、昨日どこを教わったのかまで覚えていらっしゃって……」
「奥様は昔からそういう方よ。料理人も庭師も御者も、新しく入った子も、きちんと名前で呼んでくださるの。誰かが家族のことで休めば、その後どうなったのかまで気にかけてくださるわ」
それを聞いて、ミアはエレノアが自分の名前を知っていた理由をようやく理解した。新人の自分だけを特別扱いしてくれたわけではない。エレノアにとっては、この家で働く人の名前を知ること自体が当たり前なのだ。だからこそ、ミアは嬉しかった。
「旦那様のお部屋も、ずっと奥様がお掃除なさっているんですか?」
「ええ。以前、奥様もお忙しいだろうからと、私たちで済ませようとしたことがあったのよ。そうしたら、『ありがとう。でも、ここだけは私に残しておいてちょうだい』って」
シャルロッテは当時を思い出したのか、懐かしそうに笑った。
「怒っていらっしゃるわけでもないのに、それを聞いたら誰も代わるとは言えなかったわ。奥様にとっては、旦那様のお部屋を整えることも大切な時間なのでしょうね」
ミアの頭に、アルベルトの机を見ながら微笑んでいたエレノアの姿が浮かんだ。
「奥様、旦那様のことが本当にお好きなんですね」
「ええ。それはもう。結婚して何年経っても変わらないわ」
シャルロッテは迷わず頷き、そこで何か面白いことを思い出したように口元を緩めた。
「でもね、旦那様も負けていないのよ。この家で働いていれば、そのうち分かると思うわ」
「そこまで言われたら気になります。何があるんですか?」
「それは自分で見つけた方が楽しいでしょう?」
教えてもらえそうにないと分かり、ミアは諦めてワゴンを押した。
この屋敷へ初めて来た時は、失敗しないことばかり考えていた。侯爵様に粗相をしないように。侯爵夫人の前で恥をかかないように。仕事を早く覚えて、周りに迷惑をかけないように。
けれど今は、それとは別のことが気になっている。
遠い存在だと思っていた美しい侯爵夫人は、新人の自分を名前で呼んでくれた。そして夫の部屋を自分で整えながら、とても幸せそうに笑っていた。
では、その夫であるアルベルトはどんな人なのだろう。
そんなことを考えながら歩いていたせいで、ミアは前を行くシャルロッテが右へ曲がったことに気づかず、そのまま真っ直ぐ進もうとした。
「ミア、今度はこっちよ。奥様のお話が気になるのは分かるけれど、また迷子になったら笑われてしまうわ」
呼び止められたミアは、慌ててワゴンの向きを変えた。
「わ、分かっています! 今度はちゃんとついていきますから!」
シャルロッテは楽しそうに笑いながら先を歩き、ミアは今度こそ離れないよう、その隣へ並んだ。
覚える仕事は山ほどある。屋敷の中だって、まだ一人ではまともに歩けない。それでも四日前より、この大きな屋敷がずっと身近に感じられる。
そして、シャルロッテが教えてくれなかったことが一つ。
旦那様も負けていない。その意味を知るのが、ミアはちょっとだけ楽しみになっていた。
この作品が「明日も続きを読もう」と思えるような、日々の楽しみのひとつになれたら嬉しいです!
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明日は《お父様の宝物》と《私の可愛いリリアーナ》
この2話はエレノアの話になりますが、書いててとても楽しかったですわ!是非読んでください(っ ॑꒳ ॑c)




