第0話 最初の授業(中編)
「では、皆さんにも自己紹介をしてもらいたいと思います」
先生は出席簿を開いた。
「英語で、お願いします。名前と、簡単な自己紹介。それから一言だけ——英語に何を期待しているか、あるいは英語で何をしたいかを聞かせてください。Don’t worry about making mistakes. 一人一分ほどで。あいうえお順にいきます。荒畑さんから、お願いできますか」
教室に、薄く静かな緊張が走った。
あいうえお順。「せ」は——十一番目だ。
指を折って数えてから、机の下でノートを開いた。何を言おう。何も浮かばないうちから、シャープペンシルの芯だけが尖っている。
窓際の最前列で、椅子が引かれた。
荒畑さん、と先生が呼ぶ。長身の人だった。立ち上がる動作に無駄がなくて、体育の授業でよく見る種類の身体だと思った。バレー部だろうか。
「I’m Touko Arahata. I’m in the volleyball club. I like… physics. And math. It’s my favorite subject, actually, since junior high.」
一語ずつ、置いていくような英語だった。それでも、「actually」を挟むあたり、余裕がないわけではないらしい。
「I want to understand English. Not just… memorize it. I want to understand why. Like physics.」
最後の一語だけ、はっきりしていた。
「Why、と言いましたね」先生が言った。「では、一つ面白い話をしましょう。ニュートンの運動方程式は、数式で書かれています。でも、それを最初に他人に伝えたのは、言葉でした。——法則は、数式が先ですか。言葉が先ですか」
荒畑さんが、少し黙った。
「……考えたこと、なかったです」
「今日から、考えてみてください」
荒畑さんが席に着く。丸暗記じゃなくて、「なぜ」を知りたい。あの人の英語は、たぶん、あの人が世界を見ている方法と同じ形をしている。——というのは、私が勝手にそう思っただけだけれど。
次は、植田くん。
椅子を引く音が、ほとんどしなかった。慎重に持ち上げて、慎重に下ろす。日焼けした肌と、アイロンの効いたシャツの白さのコントラストが目に残った。
「I’m… Wataru Ueda. I… don’t have a club.」
そこで、止まった。
教室が、待った。誰も咳一つしなかった。
「I like… mountains. And trains.」息を吸う音が聞こえた。「I want to… I want to read train information. From other countries. In English. Um. Timetables, and… how trains work. The system.」
最後まで、言い切った。詰まって、詰まって、それでも英語のまま最後まで行った。一分近く、日本語に逃げなかった。
「Train information.」先生が繰り返す。「今、日本語のサイトでは、それをどのくらい読んでいますか」
「……毎日、見てます。ダイヤ改正のたびに、必ず」
「毎日。それは、もう立派な習慣です」先生は少し間を置いた。「では、その中の一つだけ、今度英語版に切り替えてみますか」
植田くんが、顔を上げた。予期していなかった問いらしい。眼鏡の奥で、瞳が一度だけ大きく動いた。
「……やって、みます」
先生は頷いただけで、何も付け加えなかった。
大江さんが立ち上がると、教室の彩度が上がった。
「I’m Ayane Oe! I’m the leader of the brass band. I love music, especially English songs. I want to understand the lyrics — the real words, not the translation. I’ve been singing along without knowing the meaning for years, and I’m a little embarrassed about that, actually.」
声が跳ねている。発音は荒っぽいのに、まったく怯んでいない。
「最近、好きな洋楽は?」先生が訊いた。
大江さんが、曲名を三つ、早口で挙げた。先生は、そのうち一つにだけ小さく頷いた。
「一つだけ知っています。あとの二つは、今、初めて聞きました」
「え、先生、音楽聴かないんですか」
「聴きます。ただし、私の再生リストは、更新が二千年代で止まっている自覚があります」
教室に、小さな笑いが広がった。大江さんも、声を上げて笑った。
「今年で、少しは更新できるかもしれません」
先生は、知らないことを、知らないと言った。
笠寺さんが立ったとき、教室の音が一段下がった気がした。大江さんとは、声の温度がまるで違う。
「I’m Shizuku Kasadera. I like chemistry, and biology a little. I’m interested in… medicine. Or pharmacy.」
少し間があって。
「But… I’m not sure yet. Which one.」
語尾が、水の底に沈む石のようにゆっくり落ちていった。
「Not sure yet.」先生は繰り返しただけだった。「では、もし将来その道に進んだとして、英語で何を読めるようになりたいですか」
笠寺さんが、考えている。伏せがちの睫毛が、一度上がって、また下がった。
「……薬の、パッケージの説明です。海外の薬局に行ったときに、自分で読めたらいいなって」
「It’s okay not to know yet.」先生は静かに言った。「That’s part of what this year is for. ——まだわからなくていい。それを確かめるための一年です」
笠寺さんの肩の位置が、少し下がったように見えた。
次に立った人の英語は、機械の音に似ていた。
「I’m Rei Kamisawa. I want to be a web engineer. For me, English is a protocol. The protocol I need to work with the world. I already use English every day, in documentation and error messages, so this class is, in a sense, an upgrade for something I already have.」
感情がまったく乗っていない。けれど、一語も詰まらなかった。準備してきた文を、そのまま置いていくような読み上げ方。
「Protocol.」先生が繰り返した。「では神沢くん。もしこの授業を一つのアプリケーションとして設計するなら、あなたはどんな機能を追加しますか」
教室が静止した。神沢くんの指の間で回っていたペンが、止まった。
「……進捗が、見える機能です。今、自分がどこまで来たか、数値で」
「なるほど。可視化ですね」先生は頷いた。「——覚えておきます」
ペンが、また回り始めた。回り方が、さっきより少しだけ遅い——ような気がしたけれど、それはたぶん、私がそう見たかっただけだ。
銀縁の眼鏡の人が立った。川名くん。
「I’m Kosei Kawana. I want to be a diplomat, so I want to read the news in the original language, not in translation. I think a translation always contains someone’s judgment.」
長い。そして、途中で一度も止まらなかった。
「Not in translation。今、原文で追いかけている記事はありますか」と先生。「国連総会のスピーチを、少しずつ」と川名くんが答え、「本物から入るのは、遠回りに見えて近道です」と先生が返す——その短いやり取りの間、川名くんの背筋が、わずかに伸びるのが見えた。
translation。judgment。私が知らない単語じゃない。でも、あんなふうには繋げられない。
しおりの番が来た。
「I’m Shiori Kita. I’m in the English club. I want to understand grammar deeply — not just the rules, but why the rules are the way they are.」
落ち着いた声。でも、最後の the way they are のところに、微かな——しおりにしか出せない種類の熱が宿っていた。
私にはわかる。あの言い方をするとき、しおりはもう、答えより先に問いのほうを見ている。
「なぜ規則が、そういう形をしているのか」先生が訊いた。「では、小さな謎を一つ。英語の because は、もともと by cause という二つの単語でした。理由という語の『そば』に、ずっと前置詞が立っていた。——なぜだと思いますか」
しおりが、間を置いた。
この間は、わからないから考えているんじゃない。答えを一番正確な形に研いでいるのだ。幼稚園の砂場のときから、しおりはそうだった。山を崩さないように、いちばん細い枝を選ぶ。
「……理由は、単体では存在できない、からでしょうか。何かの『そば』にしか、立てない」
先生の視線が、しおりの上で少しだけ長く止まった。
「その仮説、覚えておいてください」
しおりの眼鏡のレンズが、窓からの光を一定の角度で反射した。
あと三人で、私の番だ。
何を言おう。
シャープペンシルの先を、ノートの余白に置く。書こうとして、書けない。
「英語が好きです」——嘘だ。嫌いじゃないけれど、好きと言えるほどの熱はない。
「大学に行くため」——本当だ。でも、この教室で言うにはあまりにも薄い。
みんな、自分だけの座標を持っている。
私は?
桜さんの番が来た。左斜め後ろで、椅子がゆっくり引かれる気配。振り返りはしなかった。けれど、教室の空気の粒が、なぜか整列した気がした。誰かが呼吸を浅くした。私も、たぶん。
「I’m Mashiro Sakura. I don’t have a club. I’m not sure… what I want to do with English.」
途切れがちだった。単語と単語の間に、水面のような沈黙がある。
「But… I think language can say things. Things that are hard to say… another way. That’s why I want to learn. Even in Japanese, I sometimes can’t find the right word. Maybe English will have the word I’m missing.」
最後の一文が、語尾を微かに消しながら、教室に染み込んでいった。
二十人が、黙った。
先生も、しばらく桜さんのほうを見ていた。
「言葉にしにくいものを、言葉にするために。——それは、この一年で一番大切にしたい動機かもしれません」
一拍。
「Do you write anything — a diary, or poems?」
「少しだけ……」
「It shows.」
ノートに、そのまま書き写した。日本語の訳は、書かなかった。書いてしまうと、何かが逃げる気がした。
次に立ったのは、がっしりした体格の人だった。志賀くん。
「I’m Takumi Shiga. I play basketball. I want to be… engineer. I want to make… real things. With my hands. And I want to read manuals. English manuals, for real machines, not textbook English.」
文法が、ところどころ抜けている。それでも声は大きかった。
「Real things、と言いましたね」先生が言った。「では、もしこの一年で、英語を使って何か一つ『作る』としたら、志賀くんは何を作りますか」
志賀くんが、少し驚いた顔をした。それから、大きな手を一度開いて、閉じた。
「……英語の、説明書を書いてみたいです。自分が作った回路の」
「作った人にしか書けない説明書がある。——今日は、それだけです」
志賀くんの口角が、上がった。
庄内くんの番で、小さな変化が起きた。
「I’m Shota Shonai. I’m in the tennis club. I want to read the Wimbledon website in English. Especially the columns — the match reports are boring, but the columns have opinions.」
「ウィンブルドンの公式サイト。読みごたえがありますよ、特にコラムは」先生が言った。「Do you play on clay or hard courts?」
「ハードです」庄内くんが、少し斜め上を見た。「……あ、先生、テニスやるんですか」
「学生時代は」
短い返答だった。けれどそのとき、チョークを持っていない左手の指先が、ほんの一瞬だけ——何かを握るように、微かに丸まった。
ラケットのグリップだ。
なぜそう思ったのかは、自分でもわからない。
「今も、やってるんですか」庄内くんが食い下がる。
「今は、たまに壁打ちをする程度です」
「壁相手じゃ、勝ち負けつかなくないですか」
「勝ち負けを忘れられる時間が、たまには必要です」
庄内くんが、ふっと噴き出した。「先生、それ、逃げてません?」
「逃げています」
先生は、まったく悪びれずに認めた。教室に、また笑いが起きた。
——次の次が、私だ。
心臓が、さっきまでより少し速く打っている。ポニーテールの毛先に触れかけて、やめた。
シャープペンシルを握り直す。ノートの余白には、まだ何も書けていない。
I want to… 何?
I want to speak English well. ——嘘じゃない。でも、誰でも言える。
I want to go to a good university. ——正直すぎて、たぶん、教室の空気が冷える。
時間がない。
「瀬戸さん」
先生に名前を呼ばれた。
立ち上がる。膝の裏が椅子の縁を離れる瞬間の、かすかな抵抗。息を、一度、深く吸う。インクと紙の匂いと、遠くのコーヒーの香りが、一緒に肺へ入ってくる。
「I’m Rin Seto. Um…」
声が、思ったより小さかった。
「I don’t have a… specific dream. Yet.」
yet は、さっき笠寺さんが使った語だ。無意識に借りていた。
「But I think English is important. For university. And for the future. I want to…」
そこで、詰まった。
言おうとしていた言葉が、口の中で形を持たない。取り残されたくない。それを、英語でどう言えばいいのか、わからない。
二十人が、待っている。
「……I want to not fall behind.」
言い終えた瞬間、自分の言葉が教室の空気の中でどれほど薄いか、痛いほどわかった。
恥ずかしい。
でも、嘘はつけなかった。
先生は、静かに頷いた。
「取り残されたくない。——それは、とても正直な動機ですね」
一拍、間があった。計算ではない、呼吸のような間だった。
「では、一つだけ聞いてもいいですか。『取り残される』というのは、世界に対してですか。それとも、自分自身に対してですか」
予想外の問いだった。
頭の中で、何かが急停止した。
世界から? 自分自身から?
考えたことがなかった。取り残されたくない、とだけ思っていて、その先を、一度も考えたことがなかった。
二十人の視線が、私の上にある。窓の外では鳥が鳴いている。
「……両方、だと思います」
絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「正直な答えです」先生は言った。それから、少し声を落として続けた。「では今日一日だけ、試してみてください。もし『両方』のうち、片方だけを今日の授業で意識するとしたら、瀬戸さんはどちらを選びますか」
選ばされている。でも、逃げ場のなさに、なぜか棘がなかった。
「……自分自身、を」
「では、それで。楽しみにしています」
それだけだった。
椅子に座る。木の座面が、さっきよりほんの少しだけ温かかった。自分の体温が椅子に移っていたことに、今さら気づく。
左隣で、しおりが視線だけをこちらに寄越した。声はかけない。しおりはそういう人だ。今の私に必要なのは言葉ではなく、ただ「見ている」という事実だと、知っている。
ノートを開いた。
behind とだけ、書いた。
なぜ私は、あんな言い方をしたんだろう。
うまく言えない。ただ、何かの順番が違う気がした。日本語で考えていたことを、そのまま英語の形に押し込んだような、変な窮屈さ。どこがどう窮屈なのか、言葉にはできなかった。
先生は、直さなかった。
直さなかったことの意味を、しばらく考えた。優しさなのか。それとも、今日はそういう時間ではない、という判断なのか。
わからなかったので、ノートの隅に、小さくクエスチョンマークだけ書いた。
私のあとも、自己紹介は続いた。
窓の外の光の角度が、少しだけ変わっている。二限目の始まりと、今とでは、机に落ちる影の長さが違う。教卓の上のタンブラーから、もう湯気は立っていなかった。
曽根くんが、大きな身体をゆっくり起こした。
「I’m Kaname Sone. I’m a catcher. I want to listen to Major League games in English. Live, not recorded — I don’t want to know the result before I hear it.」
短いのに、理由まできちんと繋げている。詰まらなかった。
「好きなチームは?」
「どこでもいいです。ドラゴンズが出れば」
教室に笑いが弾けた。その笑いが、さっき私の自己紹介で張り詰めた空気を、ふわりとほどいてくれた。
「When that happens, you’ll be ready.」
そのときが来たら、君はもう準備ができている。先生の口元に浮かんだのは、紛れもない笑みだった。
長い黒髪の人が立った。鶴里さん、と先生が呼ぶ。黒縁眼鏡の奥の視線は、教室のどこも見ていないようだった。
「I’m Shie Tsurusato. I’m in the art club. I like Japanese history. Castles. And… the Warring States period. And I’m interested in where English words come from. Their origins.」
言葉は、ゆっくりだった。でも、選ばれている感じがした。
「Where words come from.」先生が、少し長く鶴里さんを見た。「英語の castle と、フランス語の château は、同じラテン語から分かれた従兄弟同士です。——では、日本語の『城』とは、兄弟でしょうか。他人でしょうか」
鶴里さんの目が、初めてはっきりと動いた。
「……他人、だと思います。でも、似た理由で生まれた、他人」
先生は、それには答えず、小さく頷いただけだった。黒縁眼鏡の奥で、口角がかすかに持ち上がったように見えた。
中村くんが立つと、教室の空気の温度が一段上がった気がした。
一年のとき、同じクラスだった。だから少しだけ知っている。この人は、誰にでも同じ顔で話す。それはたぶん、優しさで、同時に、少しだけ残酷なことだ。
「I’m Asahi Nakamura. I’m the captain of the soccer team. I want to use English for real. Not just for exams. I want to talk with people, and understand what they say — even the parts nobody teaches you in class.」
文法は、たぶん、完全ではない。でも、一度も止まらなかった。
for real.
ノートに書いた。二語だけ、はっきりと。
「For real、と言いましたね」先生は少し間を置いた。「正直に言うと、私も学生の頃、試験の英語と、本物の英語は、別の生き物だと思っていました」
「え、先生でもそうだったんですか」
「そうでした。同じ飛行機なのに、高度が違うだけだと気づくまでに、ずいぶん時間がかかりました」
中村くんが頷いた。首だけじゃない、身体の芯ごと同意するような頷き方。一年のときも、そうだった。授業中に先生の話に頷くとき、あの人はいつも、体ごと前に出る。
なぜだろう。同じ言葉なのに、あの人が言うと、少しだけ重い。
次の人が立ったとき、教室の空気が変わった。
「I’m Sara Hatta. I lived in England until I was thirteen, so English is not really a foreign language to me. I’m in the archery club. This year, I’d like to work on my essay writing rather than my speaking — I think that’s where I still have a lot to learn.」
長い。滑らかで、一度も途切れない。単語の輪郭が、教科書のCDよりもさらに丸くて、深い。
教室が、小さくざわついた。
その瞬間、八田さんの表情が、一瞬だけ硬くなったように見えた。ほんとうに一瞬で、私の見間違いかもしれない。
「British English ですね」先生は静かに頷いた。それだけで、ざわめきは収まった。「Essay writing、と言いましたね。今、書きたいのは、意見を主張する文章ですか。それとも、自分の経験を書く文章ですか」
「……意見を主張するほうです。感想文なら、もう十分に書いてきましたので」
「では、この一年は、主張の文章を中心に見ていきましょう」
八田さんが、初めて少し目を上げた。
続く伏見さんは、遠くを見るような目のまま立った。
「I’m Amane Fushimi. I like space. I want to read… papers. About space science. In English.」
「Papers、と言いましたね。もう、読もうとしたことがありますか」
「あります。NASAのサイトを開いて、三行で閉じました」
ボブカットが揺れて、急に幼い笑顔が覗いた。教室が笑った。
「三行、読めたのですね」先生が言った。「では一つだけ。宇宙についての文章が難しいのは、単語が難しいからではありません。誰も自分の目で見たことのないものを、言葉だけで描写しているからです」
伏見さんが、少し驚いたように瞬きをした。
音もなく立った人がいた。星丘さん。背筋が、定規で引いたようにまっすぐだった。
「I’m Kotoko Hoshioka. I practice… tea ceremony. I think language is like manners. I want to use it… with care.」
声は小さかった。でも、一語一語が、丁寧に置かれていた。
「Language is like manners.」先生が繰り返した。「では、もし茶道の『一期一会』の考え方で、この授業の一場面を設計するとしたら、星丘さんはどんな場面を作りますか」
星丘さんの背筋は、一分も揺らがなかった。けれど答えるまでに、ひと呼吸あった。
「……同じ問いに、二度と同じ答え方をしない場面、でしょうか。一度きりの、やり取りとして」
先生は、すぐには答えなかった。教卓の前で、本当に少しだけ考え込んだのが、私の席からも見えた。
瑞穂さんは歯切れよく立った。
「I’m Risa Mizuho. I’m the manager of the soccer team. I want to read tactical articles in English — the foreign ones are always two days faster than the Japanese translations.」
「Tactical articles、ですか。本格的ですね」
「……あと、英語でしゃべれたら、かっこいいと思って」
小声で付け足したその一言に、また笑いが起きた。
「その動機、正直で好きです」先生が言った。「かっこよく見せたい、というのは、語学において、意外と立派な燃料になります」
瑞穂さんが、少し得意げに笑った。
サッカー部のマネージャー。中村くんと、同じ場所にいる人だ。
なぜ今それを思ったのか、自分でもよくわからなかった。
森下くんが立った。「俺」と言い出す前に、少し息を吸う音がした。
「I’m Kento Morishita. I play basketball. Um… I want to open doors. Doors I don’t know yet.」
「Doors you don’t know yet.」先生が繰り返した。「もう、ノックしたことのある扉はありますか」
「……ないです。ノックする勇気が、まだなくて」
「では、今年、一緒にノックしてみましょう」
森下くんは頭を掻いた。けれど彼の視線は、先生の言葉ではなく、先生の手元のほうに向いていた気がする。何を見ていたのかは、わからない。
最後に、三つ編みの人が立った。八草さん。
「I like math. And art.」
声が、小さい。教室の後ろまで届いているかどうか、あやしいくらい。
「Um… for me, English grammar is like a system. Like mathematics. I want to understand the system.」
文は、正確だった。単語の選び方も、たぶん、このクラスの上のほうだ。それなのに、声だけが震えている。
少し間があって、消え入りそうな声で付け足した。
「……completely.」
「Do you think language follows rules as strictly as mathematics does?」
「たぶん、似てるけど……例外が、多いと思います」
「では、その例外は、八草さんにとって、厄介な誤差ですか。それとも、興味深いデータですか」
三つ編みの先が、指の間で止まった。少しの沈黙が落ちた。窓の外で、誰かのボールが弾む音がした。体育の授業だろうか。
「……厄介、だと思ってました。でも、今、聞かれて」
もう一度、間があった。
「……たぶん、興味深いデータのほうかもしれません」
教室の対角線の向こうで、荒畑さんの眉が動いたのが見えた。同じことを考えたのかもしれないし、まったく別のことを考えたのかもしれない。
「That’s an accurate observation.」先生が言った。「正確な観察です、八草さん。And the exceptions — that’s exactly where language gets interesting. 例外こそが、言語のいちばん面白い場所です」
八草さんが、眼鏡の奥でゆっくり頷いた。
二十人ぶんの名前と、二十通りの理由が、この部屋にあった。




