第0話 最初の授業(前編)
四月八日、水曜日。
四月の光は、まだ生まれたばかりの色をしている。
窓の外で、桜が咲き切っていた。満開というより、限界という感じがした。これ以上ひらけないところまでひらいてしまった花に、次にすることは散ることしか残っていない。
水曜日の二限目は、英語。二年生になって、初めての英語の授業。しかも、英語選抜クラス。
学年で九クラス、合計三百人を超える。愛知県内では「中堅」と括られる学校だけれど、学年の上位一割ほどは、毎年当たり前のように難関国公立や有名私立へ抜けていく。その中から、英語の成績上位二十名だけが、週に三度、この特別教室に集められる。月曜の一限、水曜の二限、金曜の五限。英語のためだけに存在するクラス。
二年になって同じクラスになった幼馴染と連れ立って、私は廊下を歩いていた。喜多栞。小学校からの付き合いで、いまは英語部。チャコールグレーのブレザーの下、深いプリーツのスカートが揃いの色で揺れる。二年生になって、ようやく制服が身体に馴染んできた感触がある。しおりのブレザーの内ポケットには、いつも革のブックカバーをかけた文庫本が一冊。スクエアの眼鏡のレンズが、廊下の窓の光を一定の角度で跳ね返していて、その奥の瞳はよく見えない。しおりがこのクラスにいることに、驚く人間は一人もいないだろう。
去年の英語の授業は嫌いではなかった。でも、好きでもなかった。英語は、それなりの大学に入るために必要な道具。グローバルな時代に身につけておいて損はない保険。中学の頃にどこかで聞いた「英語ができないと取り残される」という言葉が、今でも頭の片隅に棲みついている。脅しのような、でも否定しきれない、そういう種類の言葉。
——私は、ここでやっていけるだろうか。
特別教室の敷居をまたぐ。もとは語学演習室だったと聞いた。机は四十席ぶん並んでいるのに、集まるのは二十人。空席のほうが多い部屋は、それだけで少し緊張して見える。
先に来ていた数人が、どこに座るべきかを互いの様子から読み取ろうとして、結局誰も動けずにいる。視線だけが、教室の中を細かく行き交っていた。
遅れて、中村くんと瑞穂さんが一緒に入ってきた。サッカー部のキャプテンとマネージャー。細身のスラックスに包まれた中村くんの足取りは、教室に入った瞬間から迷いがない。瑞穂さんの手首には、スポーツブランドの小さなリストバンドが一つだけ、お守りのように光っていた。二人と、軽く目が合う。会釈を返す。中村くんとは一年のときも同じクラスだったけれど、交わした言葉は挨拶程度で、ちゃんと喋ったことはほとんどない。
「ねえ、りんちゃん」
しおりが声を落とした。
「清水先生って、どんな人なんだろう」
「さあ」
私は首を小さく振る。
「何か聞いてる?」
「始業式で紹介されてたでしょ。新任の先生」
「それだけ?」
「それだけ」
しおりは眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。何かを測ろうとするときの、癖。
「絶対、厳しい人だって」
斜め後ろで、男子の声が跳ねた。
「アメリカの大学院卒って聞いた」
「ガチじゃん」
二限の開始が近づくにつれ、二十人が揃った。数えるまでもなく、女子のほうが少し多いだろうか。うちのクラスからは、しおり、中村くん、瑞穂さん、私の四人。 誰からともなく、知り合い同士がかたまって前方に座る。椅子の脚が床を擦る音がいくつも重なって、やがて止んだ。
机の上には、もう教科書とノートを広げている生徒もいた。電子辞書を教科書の脇に置いている子。英字のロゴが入ったキャンバス地のトートバッグを椅子の背にかけている子。二十人ぶんの持ち物の一つ一つに、まだ知らない誰かの生活の匂いがした。
キーンコーンカーンコーン
チャイムが鳴った。四つの音が、ゆっくりと降りてくる。最後の一音が天井に吸われて消えるまで、誰も口をきかなかった。
廊下に、足音が響いた。ただの足音ではない。等間隔で、正確で、一歩ごとの着地に迷いがない。メトロノームが廊下を歩いているような——いや、それよりもっと人間的で、もっと意志的なリズム。それが近づくにつれ、教室の小さなざわめきが、波が引くように消えていった。 誰かが息を詰める気配。
最初に見えたのは、姿勢だった。 長身。細身。ネイビーのファインゲージ・ニットの下に、白いボタンダウンシャツ。第一ボタンまで一分の隙もなく留められているのに、ノーネクタイ。それがだらしなく見えないのは、服が人を律しているのではなく、人が服を律しているからだった。ニット越しに浮かぶ背中の線には、余分な肉がどこにもない。その輪郭は、長い時間をかけて自分に何かを課してきた人間だけが持つ、静かな説得力を放っていた。
次に目に入ったのは、足元。白いスタンスミス。踵に沿った緑が、外光を受けて一度だけ濃く沈んだ。その白さが教室の前方へ進むたび、部屋の重力がわずかに傾く錯覚を覚えた。
年齢は三十代の半ばくらいだろうか。それより上にも、下にも見える。整った顔立ち。余計な表情をしていない。感情を隠しているのではなく、必要な表情を、必要な分量だけ使っている——そういう印象だった。
その人は教卓の向こうに立ち、出席簿と濃紺のタンブラーを、静かに置いた。
「Good morning, everyone.」
低く、静かで、しかし教室の壁にも窓にも吸い込まれない声だった。教室はすでに静かだったのに、その一言がさらに深い静寂を重ねた。沈黙が沈黙を塗り重ねるような、不思議な現象。
前列の端で、誰かが息を吸う音がした。
「Good morning.」
返したのは、中村くんだけだった。座っているのに、背筋が一本の柱みたいに立っている。
——声が、出なかった。
先生が、中村くんのほうへわずかに顔を向けた。頷きは小さく、一度だけ。整った表情の中に、ほんの少しだけ緩んだ何かが滲んだ。
「Nice.」
「もう一度、皆さんで。Good morning?」
「Good morning.」
二十人の声が部屋を満たした。
「Good. That's how a class begins.」
先生は小さく頷いて、日本語に切り替えた。英語から日本語へ、水が段差を落ちるように。
「本日から、英語選抜クラスの英語を担当します、清水です。よろしくお願いします」
お辞儀。浅くもなく、深くもない。礼儀として過不足のない角度。
「まず、席を決めましょう。中央の五列を使います。一列に四人。名前を読み上げますので、全員呼び終わってから、移動してください」
先生は出席簿を開き、窓側の列の前に立った。
「窓側のこの列、前から。荒畑透子さん、植田渉さん、大江彩音さん、笠寺雫さん」
先生が次の列の前に移動していく。
「次の列。神沢怜さん、川名航星さん、喜多栞さん、桜真白さん」
「中央の列。志賀巧さん、庄内翔太さん、瀬戸凜さん、曽根要さん」
——瀬戸凜さん。 自分のフルネームが、この人の声で発音されるのを、初めて聞いた。子音の輪郭がはっきりしている。「せ」と「と」のあいだに、湿り気がない。
「四列目。鶴里史絵さん、中村旭さん、八田沙羅さん、伏見天音さん」
「廊下側。星丘琴子さん、瑞穂理沙さん、森下健人さん、八草理央さん」
持ち物を抱えた二十人が、いっせいに動く。椅子が引かれ、誰かの筆箱が机の角に当たって鈍い音を立てた。三十秒ほどの、小さな混乱。
席に着く。中央の列の、前から三番目。教室のちょうど真ん中だ。 ノートを開き、透明なペンケースから、使い慣れたジェットストリームを一本取り出す。手首に巻いた予備の髪ゴムが、机に肘をつくたびにわずかにずれた。 左隣にしおり。右隣は、たった今名前を知ったばかりの八田さん。そして右の斜め前に、中村くんの背中があった。少し日焼けした首筋。制服の襟が、片方だけわずかに折れている。 その隣が、瑞穂さん。二人が何か短く言葉を交わし、瑞穂さんが小さく肩を揺らして笑った。
——二十人が、二十の座標に振り分けられた。私の座標は、中央。よく見える場所。よく見られる場所でもある。
「はい。全員、座りましたね。この席で、一年間よろしくお願いします」
先生が、二十人を見た。「見渡した」のではない。一人ずつ、見た。視線を一つの顔に止め、確認し、次へ移す。その速度には値踏みのような粘着もなく、形式だけの流し見でもなく、ただ——ちゃんと見ている、という誠実さだけがあった。
私の番が来た。目が合った。
——逸らしてはいけない。
なぜそう思ったのかわからない。でも身体が先に判断していた。先生の視線は一秒ほど私の上にあって、それから何の余韻も残さず、右隣へ移った。 見られた。それだけなのに、背骨が一本の線になった。
「今日は初回なので、授業というよりは、お互いのことを知る場にしたい。まず私が自己紹介をします。その後、皆さんにも一人ずつ話してもらいます」
教室に、薄い緊張が走った。誰かが小さく唾を飲む。
「その後で、この一年間の設計図を説明します。——では、私から」
先生はチョークを取り、黒板に名前を書いた。Kyoichi Shimizu。続けて、漢字で、清水恭一。癖のない字だった。速い。書き終えて、こちらを向く。
「I'm Kyoichi Shimizu. I'll be teaching you English this year.」
一拍。
「Let me tell you a little about myself. I studied at a foreign-language university here in Japan, and then I earned my master's degree in the United States. After that, I taught at international schools abroad for five years, and in Tokyo for three years. And now, I'm back.」
最後の “I’m back.” のところで、先生はわずかに間を置いた。両隣から小さく「え」という声が漏れた。
——Back?
「——どのくらい伝わりましたか」
日本語だった。私たちの反応を見ている。
「同じことを、日本語でも。清水恭一です。愛京国際文化大学で英語を学んで、その後、アメリカの大学院に行きました。海外のインターナショナルスクールと東京の高校で英語を教えてきました。そして今年、ここに戻ってきました」
——愛京国際文化大学。この地域では名の知れた、外国語に強い大学だ。
誰も、何も言わなかった。ただ、教室の空気の密度が、ほんの少し変わった。窓の外で、桜の花びらが一枚、音もなく落ちた。
隣で、しおりが小さく息を吸うのが分かった。
静寂は、長くは続かなかった。誰かが、姿勢を直す気配。教室は、何事もなかったかのように、次の時間へ動き出した。
「この学校が、私の母校です」
教室の空気が、ざわりと揺れた。 先生の口元に、笑みとも呼べない何かが一瞬だけ宿って、消えた。 この人はかつて、この廊下を歩いた。どこかの教室の、どこかの椅子に座っていた。その事実が、教壇に立つ人を、ほんの数センチだけ——遠い高嶺から、手の届かないけれど見上げられる場所へと、引き寄せた。
教卓のタンブラーは、濃紺のグラデーションが美しかった。底の深い紺から上へ向かって、青が薄れていく。深海から夜空へ移り変わるような色。
先生が、ゆっくりと蓋を開けた。
コーヒーの香りが、微かに立ち上がった。酸味を孕んだ、すっきりとした匂い。それが四月の教室の空気——新しい教科書のインク、桜の花びらが運んできた土の微香、二十人分の緊張——と混ざり合った瞬間、私の中で何かのスイッチが切り替わる音がした。
——これが、今年の授業の匂いになる。




