第一話 白い光の中で
目が覚めたとき、最初に感じたのは石の冷たさだった。
頬に触れる硬い感触。鼻を突く古い埃と蝋燭の匂い。そして——人々の低い祈りの声が、どこか遠くから波のように押し寄せてくる。
倉橋蓮は、ゆっくりと瞼を開けた。
天井が高い。石造りの円柱が等間隔に立ち並び、その間を埋めるように巨大なステンドグラスが嵌め込まれている。朝の光がガラスの向こうから差し込み、七色に分かれながら石畳の床に複雑な幾何学模様を描いていた。黄、赤、青、緑——色の境界が揺れるたびに、まるで光そのものが呼吸をしているように見える。
(……ここ、どこだ)
体を起こそうとして、自分が横になっているのではなく、立っていることに気づいた。足裏に感じる石の硬さ。全身に重力が正常にかかっている。夢ではない、と判断するのに数秒かかった。
祭壇の上に立っていた。
白い石でできた広い台だ。その縁を囲むように見知らぬ人間たちが跪き、目を閉じ口を動かして何かを繰り返し唱えている。言葉は聞き取れないが、その旋律には祈りの形がある。
蓮は周囲を見回した。
祭壇の上には、自分のほかに四人の人間が立っていた。いずれも十代後半とおぼしき若者で、みな呆然とした表情をしている。着ている服や顔立ちからして、日本人だ、と蓮はすぐに判断した。そしてもう一人——銀色の長い髪を持ち、この場の雰囲気に一人だけ溶け込んでいる少女がいた。腰に細い剣を帯び、青いコートを纏い、紫の目でただ静かに前を見ている。
(この子だけ、違う)
蓮がそう思った瞬間、低く落ち着いた声が響いた。
「目覚められましたか、英雄候補の方々よ」
壇の前に立つのは、白髪の老司祭だった。長い白いローブを纏い、杖を両手で持ち、深く皺の刻まれた顔に厳粛な光をたたえている。声は老いているにもかかわらず、広間の隅々まで届く張りがあった。
「ようこそ、エルテリアへ。ここは剣と魔法の息づく世界。あなた方は、我々の世界を滅びから救う英雄として、神の意志のもと召喚されました」
英雄。
蓮はその言葉を頭の中でゆっくりと転がした。
昨日まで——いや、おそらく数時間前まで——自分は東京の片隅にある公立高校に通う、ごく普通の高校二年生だった。
特技もなく、目立った才能もなく、ただ毎朝決まった時間に起き、授業を受け、帰宅する繰り返しの日々。
帰り道に突如現れた白い光の柱に飲み込まれ、意識を失ったのが最後の記憶だ。
それが今、見知らぬ石造りの神殿で「英雄」と呼ばれている。
(なんで俺が)
疑問は当然あった。
しかし蓮はその疑問を声に出さなかった。
今は情報を集める方が先だ。
感情的になっても何も変わらない。まず状況を把握する。
それが蓮の、昔からの癖だった。
隣に立っていた男子が、震える声で口を開いた。茶髪の、活発そうな顔つきをした少年だ。
「あの……ここって、本当に異世界ですか? 俺、夢じゃないよな? 誰かつねってくれ」
蓮は黙って自分の腕をつねった。痛かった。夢ではない。
老司祭は穏やかに頷いた。
「夢ではございません。これは紛れもない現実です。あなた方は今、もう一つの世界に存在しています」
「マジか……」
茶髪の少年が天井を仰いだ。蓮はその横で、ただ静かに老司祭の次の言葉を待った。
老司祭の説明はこうだった。
エルテリアは、剣と魔法が存在する世界だ。
百年ほど前から魔王バルザリオンの支配する軍勢が北方から侵食を続け、今や帝国の国土の三分の一が魔王軍の影響下に置かれている。過去にも勇者召喚は何度か試みられたが、いずれも魔王軍を食い止めることができず、撤退あるいは壊滅という結果に終わっていた。
今回の召喚は、過去最大の霊力と資金を投じた、帝国の最後の賭けだという。
「あなた方には三日間、この神殿でゆっくり休んでいただきます。
四日目の朝に鑑定の儀を執り行い、各々の才能・属性・適性を測定します。その結果をもとに、魔王討伐のパーティーを編成いたします」
「鑑定って何ですか?」と一人が聞いた。
「神眼の石版と申しまして、触れた者の才能が数値として浮かび上がる魔道具です。
古来より、冒険者や騎士の適性を測るために使われてきた確かな道具です」
神眼の石版。蓮はその言葉を心に留めた。
(俺の才能が、数値で出る。それが良い数値なのか悪い数値なのか——それで、ここでの立場が決まる)
特別な才能があると思ったことは一度もなかった。
運動は人並み、勉強は人並みより少し上。
ただ人や物事を観察することだけは昔から好きで、それが何かに繋がるとは思っていなかった。
(まあ、鑑定を受けてみなければわからない)
そう言い聞かせながら、蓮はもう一度、銀髪の少女を見た。少女はこちらを見ていた。紫の目が蓮と交わった瞬間、彼女は短く頷いた。蓮も、無言で頷き返した。
広間の奥の扉が開いて、使用人たちが案内を始めた。
蓮は列の最後に立ち、歩きながら広間の隅に目を向けた。
柱の陰に、一人の老人が立っていた。神官でも騎士でも宰相でもない、場違いな古びたローブを着た小柄な老人。白い顎鬚を生やし、小さな目で——蓮だけを、じっと見ていた。
蓮は立ち止まりそうになったが、列の流れに従って歩き続けた。
(あの人は誰だ? なぜ俺だけを見ている?)
その疑問は、胸の奥にそっとしまっておいた。
案内された部屋は清潔で、石造りながら温かみがあった。
窓から見える景色はエルテリアの街並みで、赤茶の屋根が並ぶ中央に噴水のある広場が見えた。
日本とは全く違う景観だが、人が生活している、という感触があった。
ベッドに腰を下ろし、蓮は手のひらを見た。
普通の手だ。何も特別なものはない。
(三日後、鑑定。それまでにできることをする)
感傷に浸るよりも、準備することを選ぶ。
それが蓮という人間の在り方だった。目を閉じると、以前から繰り返し見てきた夢の断片が浮かんできた。
廃墟の中に立つ自分。
三本の剣が交差する紋章。
光が溢れる空。
そして、自分のものではない声で誰かに語りかける言葉
——「待っていろ。必ずお前のところへ行く」。
その言葉を、蓮は誰かに向けて言っている。しかし誰に向けてなのかが、どうしてもわからなかった。
(あの夢が、ここに繋がっている気がする)
確信はなかった。ただ、そう感じた。
蓮は目を開けて、窓の外を見た。エルテリアの空は、透明感のある深い青をしていた。




