第二章 主VS妹【5】
だけど、響子は引かない。
一歩前に踏み出して、僕とぶつかるほどの距離までやってきて、僕に言う。
「どいてください、兄さん」
「それはできないよ。君がちゃんと話してくれない限りね」
「どいてください!」
「響子!」
互いに怒声を飛ばし合いながら、睨み合う。
僕は無意識に、響子の肩を掴んでいた。
「君が理由もなしに、理不尽に怒ることはないって僕は知っている。だから、教えてよ。なにが、君をそうまでさせる? どうして、なにもしていないアリーシアに、それほどの怒りを感じているんだ?」
「………………か」
ポツリと、響子の口からなにかが零れた。
「え、なに?」
彼女がなにを言ったのかを訊き取ることとが出来なくて、僕は訊ね返した。
そして、響子は、僕の目を見て、言う。
「使徒って、いったいどういうことなんですか?」
目の前が、真っ暗になった。
どうして、そんな言葉が響子の口から零れるのかが理解できない。わからない。知らないはずなのに。
響子の言葉に、なにも言えなくなった僕は、アリーシアの電流制裁を受けて麻痺状態に陥ったかのように、固まった。
僕は今、どんな顔をしているんだろう。たぶん、恐ろしいほどに動揺した顔をしているんだろうな。
それだけで、気づかれる。
これからは、嘘も誤魔化しも通用しない。
響子が、僕のネクタイを掴んで、僕を思考の淵から連れ戻す。
「人間じゃないって、どういうことなんですか?」
「……」
響子の顔が眼前に現れて、僕は思わず彼女から目を逸らす。
ただひとつ、言葉に出来たことはとても情けなくて。
「どうして、君がそれを……?」
アリーシアが話したとは思えない。僕だってもちろん、話してなんかいない。だからわからない。
どうして響子が、使徒のことを、僕がもう人間じゃないってことを知っているのかが。
そんな響子が、僕になにかを突きつけた。それは小型の黒い機械で、中心部分にはスピーカーのようなものが見える。
「兄さんには黙っていましたが、この家には盗聴器が仕掛けられています」
「えっ」
ですが、と響子。
「それは海外に行った父さんが、わたしたちの安全を考えて、設置していってくれたものです。わたしは家を出るときに、その盗聴器の存在を明かされ、管理を任されていたのです」
父さんたちが海外に行ったのは僕たちが中学生になって間もないころだった。
まさか、そんなときから盗聴器を設置されていたなんて、知らなかった。
それが、僕たちが高校に進学してからは、響子が管理していた。ということは、この家出のすべての会話は、すべて筒抜けだということになる。
そうか、だから、響子は知っているんだ。
昨日、僕の身にに起きたすべてのことを。
納得すると同時に、僕は逃げ場を失った。
決定的な証拠を響子は持っていて、もうどうしようもない。
なら、言うしかない。
僕の口から、響子に告げるんだ。
それがたぶん、響子の兄『だった』僕がしてあげれる、最後のことなのだから。
「響子、僕は……」
響子は黙って、僕の言葉を待っている。
唇が震えた。
だけど、僕ははっきりと、それを口にする。
「僕は、人間じゃない」
言った瞬間、響子の手がネクタイから放れて、重力に逆らうことなくだらりと垂れ下がる。
持っていた盗聴器が、カタンという音を立てて、床に落ちる。
言ってしまったら、もう止めることは出来なかった。
「人間だった僕は、もういない」
次から次へと、喉の奥から言葉が溢れ出てくる。
「僕は昨日、そこにいるアリーシアの、吸血鬼の使徒になった」
響子がすでに知っていることも、ぜんぶ言う。
「年を取ることも、死ぬこともない、不老不死の存在に、成り果てた」
言い終えて、最後にもう一度、告げる。
「僕はもう……人間じゃない」
そして、終わった。
僕を見る響子の眼鏡の奥に、光る雫が見えた。それは響子の頬を伝って、床へと零れ落ちる。
垂れ下った腕を伸ばして、僕のブレザーを、響子は掴む。
「……どうして、そんな……」
掴んだ手に力が込められる。
「兄さんが、どうしてそんなことにならなくちゃ、いけないんですか……?」
「響子……」
抱きしめようか迷って、結局僕は伸ばした腕を彼女の背中に回すことは出来なかった。
僕は、それをしていい存在じゃない。
響子の兄としての記憶も経験も思い出もある。
でも、僕は変わった。変わってしまった。
姿も心も変わっていない僕だけれど、でも確かに変わっている。
人間から、使徒へと。
そんな僕に、響子を抱きしめる資格なんて、ない。
「兄さんは、兄さんは、人間ですよね……?」
涙を流しながら、響子が懇願するように僕を見上げた。
無駄な問答だった。
響子もう知っている。たとえここで僕が、そうだよ、僕は人間だよ、と言っても、その言葉に意味はない。
わかっているのに、それでも響子が訊ねてくれるのは、それが響子の優しさだからだ。
彼女は僕を人間だと言おうとしている。
僕が自分を人間だと言えば、彼女はそれが嘘だとわかっていても、僕を人間として扱ってくれるだろう。
だけど、そんな優しい彼女だからこそ、僕は彼女を優しさを否定する。
「響子、僕は、人間『だった』んだ。もう、人間じゃないよ」
最後の一撃だった。真正面から打ち砕いた。
そして、響子は。
「っく!」
僕の胸を強く押して、居間を飛び出した。そして、そのまま家を出て行った。
僕はその後を追わなかった。僕にはその資格はない。僕はもう、響子の兄じゃない。
僕は、アリーシアの使徒なのだ。
多くを望む者は、ただのひとつすら得ることはできない。
僕はもう選んだのだから。迷いはしない。




