1 影の呼び声
クダサイ市――雨の日
雨がアスファルトを叩いている。
キアロコはその中を歩いていた。人々は足早に通り過ぎていくが、彼だけは歩調を変えない。思考の底に沈んだまま。
(ずっとこの街を歩いてきた。人の中にいて、それでもどこか別の場所にいるような気がしていた)
(馴染めたことがない。理由も、わからないままだ)
傘の下で足を止め、落ちてくる雨をただ見つめる。不思議と、その雨と自分がつながっているような感覚があった。
今日は空気が違う。何かが、いつもと違う。神経が研ぎ澄まされていくような、妙に生きている感じがした。
公園に着き、いつもの場所へ向かう。中央に一本だけ立つ木。
世界から切り離されたくなったとき、必ず戻ってくる場所だ。
その木の前で立ち止まると、胸の奥に妙な圧迫感があった。
(ここは……いつも心が静まる場所だ。だが今日は違う。今日は、何かがおかしい)
突然、頭の奥で囁きが聞こえた。
人の声ではない。深く、暗く、遠いどこかから届いてくるような声。
『キアロコ……』
一歩、後ずさる。あたりを見回すが、誰もいない。
街はいつも通りに流れている。だが彼だけが、その一瞬に取り残されていた。
「誰だ……? 今、誰が俺の名を呼んだ」
その瞬間、彼の内側で影が動いた。
得体の知れない気配が、身体の奥で形を持ちはじめる。心臓が激しく打った。
『思い出す準備は、できている』
冷たいものが全身を走る。だがそれは、肌に感じる冷たさではなかった。
古く、強大な何かが、自分の中で目を覚まそうとしている。
キアロコは一度目を閉じ、呼吸を整えた。
何かが変わろうとしている。それだけはわかる。何が変わるのかは、わからない。
*
黒いフードを目深にかぶり、静かな目をして、キアロコはいつも裏路地を抜けていく。
その先にあるのが、彼のお気に入りの場所だった。
新しい店ばかりが並ぶ中に、忘れられたように残っている古いピザ屋。看板は傾いたままだ。
だが、あの匂い――焼きたての生地、溶けたチーズ、新しいオレガノ。その匂いが、静かな隠れ家のように彼を呼んでいた。
窓際のいつもの席に座る。ピザはすぐに出てきた。いつものことだ。
店主はもう彼のことをよく知っている。言葉を交わすことはほとんどないが、二人のあいだには書かれざる決まりのようなものがあった。
無言の敬意、とでも言うべきものが。
そのときだった。
扉が乱暴に開いた。
小さな少女だった。汚れた身体、裸足、ぼさぼさの髪。目だけが野生の獣のようだった。
少女はまっすぐテーブルへ向かうと、迷いもせず、客の皿からピザを一切れ奪い取った。
誰も動かなかった。ただ一人、店主を除いて。
「おい、このガキ!」
カウンターから飛び出してきた店主が、腕を振り上げる。何をするつもりかは、見れば分かった。
その手が振り下ろされる前に、影が風のように滑り込んだ。
気づけばキアロコが店主の正面に立っていた。そして、凍りつくほど静かな仕草で、その手首を空中で掴んでいた。
「……てめえが上客じゃなけりゃ、こうはいかねえぞ」
店主は逆らわずに腕を下ろした。この男が普通の人間でないことくらい、分かっていた。
「あんたも運がいい。いい心を持ってる」
キアロコはそう言って、静かに手を離した。
少女は無表情のまま、こちらを見ていた。
何が起きているのか分からないように、動かない。小さな両手でピザを、宝物のように抱えているだけだった。
「…………」
しゃべらない。泣きもしない。ただ、食べていた。
キアロコは少女の前にしゃがみ込み、それからポケットから何かを取り出した。金だった。それを店主のテーブルに置く。
「三十日分のピザだ。この子に」
「三十日だと……?」
店主は信じられないという顔をした。
「正気かよ、あんた」
「正しいことをしてるだけだ」
そう言ったキアロコの目が、一瞬だけ、影の色に光った。
店主は何も答えなかった。金をしまい、黙って頷いた。
キアロコは少女のほうを向いた。背負っていた鞄を下ろし、中から古いぬいぐるみを取り出す。
時間に擦り切れた、青いマフラーを巻いた小さな狼。
何も言わずに差し出した。
少女はためらいながら受け取った。その仕草の意味が分からない。理解できていない。
それでも、胸に強く抱きしめた。まるで、自分の中の何かがそれを憶えていたかのように。
それ以上は何も言わず、キアロコはピザ屋を出た。
その夜、風はやわらかかった。
だが頭上――いつも身を寄せていた木の高みで、影たちが彼を取り囲んでいた。
感じ取っていた。呼んでいた。
そして彼はまだ知らない。あの少女と自分を結ぶ、もっと深い何かがあることを。




