二十六。
カメラの電源を入れて動画の再生モードにする。
サムネイルの中の昨日の動画の中から、比叡山のお庭の美術館で撮った、あの録画のファイルを選択する。
程なく、液晶画面に千歌の顔が映った。
つい昨日のことなのに何だか懐かしく感じていると、画面の千歌が喋り出す。
『──…まず、これは一葉ちゃん宛てのメッセージです。
もしお兄ちゃんが間違えて、
こっちの方を見ていたら、そっこー停めてください。
……女の子の話を〝盗み聞き〟するのはサイテーだからねっ!』
そう言って動画は始まったけれど、その千歌の表情を観れば、せんぱいがあたし宛てのこのメッセージ動画を見ることはないと、確信していることはすぐにわかる。
そうやってお道化てみせて一息ついたように笑うと、千歌は落ち着いた表情と声で語り出した──。
『一葉ちゃん……。
一葉ちゃんは、私の〝最後の友だち〟で、
私のこと、一番大事にしてくれた友だちです。
私は、この最後の一日を、
お兄ちゃんと一葉ちゃんと過ごせて、
幸せだな、って思ってます。
楽しかった!
ありがとう…──』
ひと際にっこりと笑ってみせた千歌の表情…──。
線の細い、薄幸の美しさばかりのイメージを持っていたのだけれど、ううん……向日葵みたいな華やいだ印象のコだった。
そんなコが言う。
『それから……
私のために、泣かないでくれて……、
ありがとうね……』
ちょっとじんわりときた。
──千歌はお見通しだったね……。
すると千歌は、いまのあたしの表情もお見通しなように、柔らかい微笑であたしに向いた。
『一葉ちゃんが、私のためにがんばってくれたから、
私、救われました。
がんばっている一葉ちゃんは、とてもステキです』
そう言ってくれる千歌の目の表情に、あたしの方が救われた──。
はじめは、〝かっこ悪くなるのが怖いあたし〟が、そうなることから逃げるためにしていたことだった……。
ただそれだけのことだったかも知れないことを、でも千歌にとってはそうじゃなかったと、その目は優しく言ってくれていた。
あたしのしたことが全部、あたしのためだけのことだったわけじゃない…──。
ちゃんと誰かのためになることだって、あった……。
優しい眼差しの千歌が続ける。
『もし…ね、
私が死ななかったら……、
同じ学校に進んで、クラスメートになってたら…──』
──…画面の中の千歌が、ほんの少し、言い淀む。
そうしたら千歌は、あたしの心の棘の刺さったところまで、そっと上がり込んできた。
『一葉ちゃんは、自分のことには、とても臆病になっているけど、
それなら私が、
一葉ちゃんのために一緒にがんばってあげたかったな。
私にはもうそういうの、できないことだけど……。
だからさ……、生きている一葉ちゃんには、
〝私の好きな一葉ちゃん〟のためにがんばって欲しいんだ。
次に生まれ変わったら、
今度は私が、一葉ちゃんのためにがんばるから…──』
画面の中の一生懸命な千歌に、あたしは約束した──。
うん、がんばるよ……。
千歌の好きになってくれた一葉のために、あたし、がんばるよ。
すると、ふと思い出したふうにお道化て千歌が言う──。
『──あ、……でも、お兄ちゃんのことは譲れないけど』
そう付け加えた千歌が、最後にもう一度、向日葵の笑顔を作って、それから言った。
『それじゃ…、またね!』
そう、最後を締めくくった千歌の笑顔が液晶画面の中で静止して、それから画面が落ちる……。
あたしはそっと小さく応えた。
「またね……」
それから何度も動画を見直した。
メッセージの中の千歌の笑顔に何度も勇気づけられて、ようやく決心したあたしは、ベッドの上のスマホを手に取る──。
◆ ◆ ◇
〝だいもんじ〟を過ぎても、今年の京都の暑さはいっこうに和らぐ様子がなく、午後の半ばになっても熱気と湿気とをまとう空気の中を歩くことになる……。
京都の夏は、まだまだしんどい……。
そんな陽射しの中を最寄りの茶山駅まで歩いてきた一葉は、平日とはいえ通勤時間を外れていることで人の乗降の少ない電車をもう数本ベンチから見送って、正道の現れるのを待っている。
茶山の駅に彼を呼び出したのは一葉だ。
そんな一葉が正道の姿を見つけたのは電車がホームにいないときで、ホームベンチから彼の乗っていなかった車両を見送ってからちょっとしてからだ。
目線を手元に戻そうとしたとき、券売機の陰になったクランクの先の階段から私服姿の正道が現れて、目が合うと笑顔になって近付いてくる。
一葉も笑って、立ち上がって一礼して迎えた。
「せんぱい……」
──…どうやってここまで? と一葉の疑問が口の端に上るまえに正道が種を明かした。
「悪い、自転車で来たんだ。置きっ放しはまずいから……」
そう言って出口の方へと一葉を誘って歩き出す。
一葉は、〝正道も自転車に乗るんだ〟という、そんな当たり前と言えば当たり前のイメージの無かった自分にちょっとびっくりしながら、彼と並んでホームを降りた。
◆ ◆ ◇
線路沿いの住宅街で立ち話、というのも何なので、と、二人は高野川の方に向かって歩き出した二人。
道すがら、お互いのこと昨夕のことなんかからの距離を計るようにしながら、取り留めの無い遣り取りに時間が流れて行く。
「せんぱいも自転車、乗るんですね?」
そう訊いた一葉の横で、自転車を押している正道が応える。それは何の変哲もないいわゆる普通の〝ママチャリ〟だった。
「何で?」
朝道は、その質問はおかしくないか、というふうに一葉を見返す。「──俺だって自転車ぐらい乗るけど……?」
「ぜんぜんそないなイメージ、なかったですよ」
一葉は、そんな表情を引き出せた会話の流れに満足したふうに、目を細めて応えた。
そんなふうに時間を過ごすと、十五分ほどで高野川の川端に出た。
「せんぱい……」
信号を渡って堤の下へと続くスロープを下り切ったとき、一葉は立ち止って正道に声を掛けた。
「──…コレ」 ポシェットからハンカチを取り出して正道に差し出して言う。「昨夕は、おおきに」
正道は自転車を脇に除けてスタンドを立てると、一葉の前にきてハンカチを受取った。
受取りしな、バツの悪い表情になって言う。
「それって、俺の方のせりふなんだと思うけど……」
そう言って笑って、ハンカチをポケットに仕舞う。
それから、彼は訊いた──。
「メッセージは見た?」
一葉が頷いて返すと、正道は重ねて訊く。
「千歌は……何て言ってた?」
一葉は、いろいろなことを端折って、こう答えた。
「〝がんばれ〟、言われました」
「…──?」
正道の表情が、〝要領を得ないけど……〟というふうに怪訝になる。
わざと端折って言ったことに、そうなるのは当然だ。
でも、いまはそれでいいとそう一葉は思っていて、だから構わず彼に訊き返す。
「せんぱいは何て?」
「…………」 切り返され、正道の方もどう言ったものかと思案顔になる。
それで結局、一息吐いた彼はこう答えた。
「──フラれた」
「……えっ⁉」
思いもよらぬ正道の答えに、思わず声音が訊き返してしまっていた。
正道は目線を川面へと逸らし、口うるさい妹を面倒がる兄の面持ちになって続ける。
「──それと〝もっと大事にしろ〟とか〝ぐずぐずするな〟とか、〝何がしたいのかはっきりしろ〟とか……イロイロと……。一々もっともで胸に刺さりました……」
ゲンナリとした表情をしてみせてから、そんな自分をクスリと笑うように口許を綻ばせてから、すっきりとした表情になって言った。
「…──だから、ちゃんと向き合うことにしたよ」
「何をですか?」
今度は一葉の方が目をパチクリとさせて訊くと、正道は前を向いたまま、スッと言葉を継いだ。
「取り敢えず、写真。──プロ目指そうと、がんばってみることにした」
そう言った正道の横顔を見上げる一葉は、最初眩しそうで、次に感慨深げに、その次は不安そうになって、最後は笑顔になって口を開いた。
「ええ思います! ──やっぱし風景ですか?」
正道は、曖昧な感じに頷くと、一葉の方に向き直る。
一葉は、そのとき正道がちょっと緊張したのに気付いた。
「──…かずは……」
その響きを一葉が彼の声で聞くのは、初めてだったが、彼女が──え? と思ったときには、もう照れてしまった正道の声…──。
「──…あ……そう、呼んでいいかな?」
千歌が呆れるように苦笑している気がした。
「…………」
ちょっと残念だな、って思った一葉は、小さく深呼吸する。
少し意地悪に言ってみた。
「部室でも、ちゃんとそう呼んでくれるのん?」
真っ直ぐな一葉の視線に、正道は肯いて返した。
「うん……」 右の手を差し出して正道は言った。「努力します」
その手を取って一葉は笑う。
正道も照れたふうに笑う。
「せんぱい」
一葉は、ポシェットからスマホを取り出して言った。
「──写真、撮ろう」
え? となる正道の隣に一葉は滑り込む。
「ここで?」
「うん」
正道は何とも言えない表情で一葉の手からスマホを取り上げる。
それから、一葉を引き押せるようにして、カメラを持つ腕を伸ばした。
夏の日の一コマ──。
そうやって、人生の一コマ一コマが切り取られていく……。
まずはここから始めてみるよ……。
もう会えない心の中の〝友だち〟にそう言って、一葉はレンズ向かって笑った。
──終わり




