プロローグ―そして彼女は落ちてきた―
なんでこうなった。なぜアリスが来ないんだ。あの契約を破ったのか。いや、もしかして契約そのものがなかったのか。それとも無効だったのか。いや、もしかしてもしかして、この子が本物のアリスなんてことは――……。
事の始まりは10分前に遡る。
ルイがわくわくしながらアリス・キングスレーの到着を待っている、まさにそのとき。
光が、落ちてきた。
光のような何かでも、光を纏った何かでもなく、“光そのもの”が庭園の真上から落ちてきたのだ。
その光はふわふわと、まるで質量を感じさせない動きで地面にまで到達する。リオンとルイはその動きを目で追いながら身構える。
元々軍人であるリオンと、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた交渉人であるルイには慣れたことだったが、こんな真昼間の、まさかルイの別荘で不可思議な現象が起り得ることなどないと思っていたために、いつもとは違う緊張が走る。
いつでも飛びかかって行けるように地につく足の力を込める。
現場の緊張感が最高潮に達したとき―――
「痛ったぁ!!」
大量の白い紙と共に、思わずずっこけてしまいそうな、場違いな声が聞こえた。
******
さらに時間は遡る。
――同日午後4時3分 とある私立高校内部
だだっ広い会議室でアリスは黙々と仕事をこなしていた。山積みにされたプリントをまとめ、ホッチキスで留めるという単調極まりない行動だ。
なぜアリスがこんな夕方まで学校に残って、雑用まがいなことをしているのかというと…、たまたま先生の目に止まり、いつも校則違反していることを理由に雑用を押し付けてきたのだ。普通の家なら親が文句でもつけてきそうだが、生憎アリスの家はそうではない。そこを逆手にとられ、親からのクレームがこないアリスがターゲットになったのだ。
「あの先生、変な噂でも流してやる…!」
そんな冗談に聞こえない声色で呟く。
ぐちぐちと先生やクラスメートの悪口を言いながら、しかし丁寧な手つきでホッチキスを留める。カチリと何十枚めか分からないプリントの束に針を刺したところで溜め息をつく。
あと何百枚あるのだろう、気が遠くなる。普通こういうのは何人かで手分けしてやるものじゃないのか。どどんと山積みのプリントを見て、さらに深い溜め息をついた。
それから約1時間後。
最後のプリントの束にホッチキスを通す。ゆっくりと、慎重に。
カチリ。
そんな軽く小さな音がしてプリントの束が冊子に変わった。
そして、
「終わったぁぁ――ッッ!!」
アリスの歓喜の叫び声が学校中に響き渡った。最後の1冊を冊子の山の頂上に置く。
高々と積まれた冊子の山をうっとりとした表情で見つめるアリス。
「はぁぁ…、やっと終わった。頑張ったよ私。……こうして見ると可愛く思えてくるよ…」
ある意味変態的な発言をする。そして、ひとりで頑張った努力の結晶を見て、自分を誉めちぎり出すアリス。
が、暫くすると不意に精神が現実に舞い戻ってきた。
「……私何やってんだろ」
自分に対して呆れの溜め息をつき、高級そうな椅子から立ち上がった。作った冊子をトントンと纏め、疲れた様子でお洒落な箱にホッチキスやら余った紙やらを片付けた。
「早いとこ先生に渡して、すぐに帰ろう…」
疲労の色を見せながら髪をかきあげ、下がりかけていたニーハイソックスを上にあげる。そしてホッチキスなどが入った箱を出来上がった大量の冊子の上に乗せ、両手に抱える。
「…ぅぐっ。重い…っ」
想像以上の重さと、積み上げられた冊子の高さで前が見えず、フラフラしながら歩き出す。両の手が使えない状態なので、横開きの扉の取っ手に足を引っかけ、やっとのことで扉を開けた。それだけでもかなりの体力を消耗してしまった。
「はぁっ、…最近体が訛ってるから、しんどい」
家に帰ったらすぐさま鍛錬をしなきゃな、と考えながら職員室へと向かう。会議室と職員室が同じ階なのが唯一の救いだ。もし階段があったならば間違いなく転んで怪我をするところだっただろう。
アリスは廊下をずんずん進む。職員室にこの束を届けることだけを考えて。
しかしそのとき、アリスの耳に声が響いてきた。女の人の声だ。
最初は空耳だと思って気にしなかった。だが、だんだんと大きくなってくるその声。そしてそれはよりハッキリと聞こえるようになってきた。
『ちょっと可哀そうだけど、』
何かエコーがかかっているように聞こえる、電話越しに話しているような、そんなおぼろげな声。
『…アンタ私の代わりに行ってくんない?』
しかし一言一言はきちんと聞こえるのだ。
まるで幽霊にでも会ったかのような感覚に陥る。
「だ、誰…?」
さすがに不安になり、弱気な声で尋ねる。今まででも不良に絡まれることはあったが、目に見えぬ相手と話すのは想像よりもはるかに恐ろしかった。
『私は――……そうねぇ、女王様とでも思っておいて』
「…は!?」
自己紹介に女王様発言をする相手にアリスは戸惑う。しかもそれは相手の頭を心配しての“戸惑う”だった。
『アンタと私は知らない仲でもないし、』
「いや、私はあなたのこと知りませんが」
『だから代わりに行ってきて欲しいのよ。できるならアンタみたいなチンチクリンじゃなくて、美人な奴がよかったんだけど』
「馬鹿にされた…」
『どうもアンタ以外じゃ駄目みたいだから』
女性の声は本当に残念でたまらないといったような感じで、
どうにも腹が立つ。自分だってこんな顔に産まれたかったわけじゃないのだ。
しかしそう言ってしまうと自分が不細工だと肯定することなるので決して口にはしないが。
そうこうしている間に、アリスは女性――もとい女王様に対しての警戒心は徐々に失われつつあった。彼女があまり悪い感じではなさそうなことと、毒舌ながらも憎めないしゃべり方だからかもしれないが。
『報酬はあげるわ。……そうねぇ』
考え出した女王。時々『う〜ん』やら『どうしようかしら』などといった声が聞こえてくる。
そんな女王のペースに呑まれていたアリスだったが、いったん冷静になりハッと我に返った。
「いや、行くって言われてもどこに行けばいいか分かんないし、ていうかまだ行くとも言ってないんですけどぉ!?」
聞いているのかいないのか、それすらも分からない見えない相手に精一杯の反抗する。こちらの声も相手には聞こえているはずなのに、まるで相手にされていない。どうやら最初から拒否権はないようだ。
それからも一言二言文句を言っていたのだが、思いついたかのような女王の短い叫び声に、思わず肩を揺らしてしまった。
『そうだ!! 私あっちで結婚してたんだけど、私がこっちで死んじゃったから、旦那に悪いと思ってたのよ』
アニメなどでよくある、頭の上に豆電球が光ったような効果音が似合いそうだ。
というか、『旦那に悪いと思ってた』というよりは『旦那に悪いことをしたのを思い出した』のほうが正しくないか、と心のなかでツッコミをいれるアリス。そうなればこの女王は以前の自分の夫の存在を忘れてしまう、とんだ悪女なのではないか。
そう呆れた苦笑いを浮かべるアリス。自分が結婚したら絶対にこの人のようにはなりたくないと思いながら。
だからこそ、アリスは聞き流していた。
そんな日常に近い現実の話にだけ気を取られて、気づいてはいなかった。
女性が『こっちで死んじゃった』と言っていたことに。
気づかないことにも気づけないまま、アリスの周りの時間は過ぎていく。女性はアリスを代理人として行かせる代わりに、こんな報酬を提示してきたのだ。
『私の旦那、――櫻っていうんだけど――、そいつと結婚してもいいわよ』
「……はい!?」
いきなり話が飛躍しすぎている。
アリスは彼女が死人だとは気づいていないが、夫婦のうちどちらかが死んだら、もう一方はフリー状態になるのだろう。そう考えれば彼女の夫は誰とも再婚をしてない限り誰のものでもない。つまりは結婚してもなんの問題もないのだが――、……いや、女王がこう言ってるってことはいいのか? でもその櫻さんって人はどうなるの? 私はまだ17だし……――あ、でも結婚できるのって16からだし――
そこまで考えてから自分が女王のペースに完全にのせられていたことに気づく。
「じゃなくて!! あなたが決められることじゃないですよ! いくら離婚してるからって相手の将来を勝手に決めるなんて!!」
そうだ、仮にこの人が櫻さんに“女王様”みたく扱ってもらってたとしても、一旦別れた人に自分のお嫁さんを決められるなんて――!
アリスは実際に会ったこともない“櫻さん”のことを思いながら――そして自分自身の身を案じながら――自称女王様に歯向かう。
『は? 離婚? ……うーん、まあそれはそれで有り…か』
ごにょごにょと言う女性。アリスはそんな女王に対して一歩を引かない。
「それに、代理人でどっかの国へ行ったとしても私は結婚しません! 親のこともあるし家のこともあるし。そんな勝手に決められちゃ困るんですよ。それ以前に私まだ承諾してないですからねっ」
『雰囲気的に拒否権なしってこと理解できないのかしら…』
ひとりごとのように呟く彼女。どうやらアリスには聞こえていないようだ。
『ま、時間もないしね。そろそろ5時だし、行かせちゃおう』
自分自身を納得させるような口ぶりだった。
そして彼女はまだ『絶対行かない』と叫んでいるアリスを強制連行することに決めた。
『じゃ、この世界ともおさらばね、アリス・ジュニア。言っとくけど、これはアンタのためなのよ? こうしなきゃアンタは東の女王に殺されちゃうんだから』
クスリと笑う女王。その声もアリスには聞こえていない。
そして、事態は急速に進む。
さんざん文句をつけていたアリスだったが、不意に体が軽くなったことに気づいた。まるで宇宙にでも出かけたような、そんな無重力感。
今まで持っていた冊子もすべて軽くなったかのように感じた。
「何…コレ…」
女性が言っていた『代理人』は、どこか別の地域か国に赴くことではなかったのだろうか。
まるでこの世界から自分という存在が消えてしまうような、そんな錯覚に陥った。
「ちょっと待って、…私どうなるの?」
そこでさっきまで聞こえていた女王の声が聞こえてこないことに気づく。
「ねぇってば!!」
もう居ない女王に助けを求める。
発した声は自分でも驚くくらいに震えている。こんな不可思議な体験をしているのだから、それなりの恐怖はあるのだろう。しかしアリスがこんなにも恐怖を抱いたのは、初めてのことだった。
だんだんと周りが白一色に染まっていく。大きな白い箱に入れられているような、言葉にできない恐怖が襲う。しかも上を向いているのか下を向いているのか分からなくなってしまった。完全に感覚が麻痺している。思わず抱えていた冊子の束を手から放してしまう。それでも冊子は宙を浮き続け、ここが無重力空間なのだと思い知らされた。
「やだ! ちょっと、……じょ、女王! どういうこと、これ!?」
さきほどまで話していた女性のことを呼ぶ。しかしすでに女性はいなくなってしまったようで気配がない。
広い宇宙の中、ひとりでぽつんと体育座りをしているような孤独感。世界から弊害された子供のような疎外感。
そんなアリスの心境などお構い無しに時間は平等に進む。
自分の全ての部位から重力が抜けきってから、ほんの少しした頃。また重力が体に戻ってくるではないか。
最初は微かだったのだが、後から後から体が重くなっていくのが分かる。それと同時に風を感じた。まるで空から落ちているような―――
「ん? 落ちてる?」
そう意識したときにはもう遅く―――
「おおおおっおお落ちてるぅぅぅ!!??」
体中に風を感じながら叫ぶ。そうしているうちに、自分は頭から落ちているのだと理解した。頭から落ちては十中八九死んでしまうだろう。アリスはできるだけ被害を最小限に抑えようと、空中で体制を変え背中を下に向けた。そうすれば致命傷は逃れるだろう。
かといって背中から落ちても無傷なわけがない。アリスはこれから来るであろう痛みに備え歯を食いしばる。
そして―――
「痛ったぁ!!」
アリスが作った大量の冊子と共に、あれだけのスピード・距離で落ちたなどとは微塵も想像させない軽い尻餅をつき、思わずずっこけてしまいそうな、そんなアリスの声が響いたのである。




