終節
朋麻呂の言葉に動じる様子もなく、茜は色彩を欠いたままの表情で答える。
「あなた様は?」
「……なるほどなるほど、やはり黒姫か。その体、中州の姫はどうした?」
「茜様はおりません。体を私に預け、今は……」
「“預ける”? 異なことを申すヤツじゃのう。“奪われた”の間違いであろう?」
「姫様といい少将様といい、一体何の話でございますか?」
当惑気味に藤一郎が言葉を挟むも二人は意に介さず会話を続けた。
「そうですか、躑躅崎様の末裔の方でしたか。それに……その手に握られているのは、もしや斑尾兄様ではありませんか?」
茜の言葉に斑尾が応える。
――麻呂ちゃん、黒姫に“よー久しぶり、元気そうで何よりだ”って伝えてくれよ。
「そのような事はどうでもよい。どういった経緯で霊力を取り戻し中州の姫の体を奪ったのかは知らぬが、其方、これから何を成すつもりじゃ?」
――無視かよ。
斑尾の言葉に耳を貸すこともなく朋麻呂は言う。茜は僅かに言葉を詰まらせた。
「……それは申せません」
「申せぬ? ほっほっほ、言わずと知れたことよ。百八十年の昔同様、その気の赴くままに生者の魂を食い荒らすつもりであろうが? 伊喜の女狐には逃げられてしまったようじゃが、其方だけは断じて逃がすわけにはゆかぬぞ」
そう言って朋麻呂が岩壁の上へと目を向けるがそこに白妙の姿は無かった。朋麻呂はすぐに視線を落とすと、その存在を確かめるように両手の太刀を強く握りながら茜へと近づいた。
「……太平の世の為、其方には御剣神社の祭神として未来永劫鎮座していてもらわねばならぬでな」
――やめとけ麻呂ちゃん、今の黒姫はあの体がブッ潰れるまで力を使い放題だ。そこでおっ死んでる妖以上に勝ち目はねぇよ。それに下手に刃を重ねれば俺の魂まで喰われかねねぇ。
斑尾の言葉に朋麻呂は足を止める。茜は近づく朋麻呂に関心を示すことなく遠方の山影に視線を移すと、郷愁に誘われた旅人を思わせる眼差しを送りながら儚げにつぶやいた。
「私はあまりにも長い間この地に留まり過ぎました……もう行かないと」
「行く? どこへ向かうつもりじゃ? 無秩序に魂を食い散らかす化け物をむざむざと野に放つワケがなかろう。大人しく麻呂についてまいれ」
茜と朋麻呂が交わす会話に漠然と現状を悟り始める一同。藤一郎が表情を険しく歪め、明確な説明を朋麻呂に求めようとした刹那、茄蔵がたまりかねた様子で声を上げた。
「姫さん、富士兄ぃはどうしたんだ? 姫さんと一緒に神社へ行ったんだろ?」
茜はゆっくりと視線を茄蔵に向けると、伏目がちにその目を落とした。
「……あの方には気の毒なことをいたしました。茜様と共に私のために尽力していただきましたのに……ですがそれも仕方なきこと。気づかれてしまった以上、ああする他になかったのです……」
「“ああする”って……何だよ、姫さん? 富士兄ぃはどうしたんだよ?」
「姫様、まさか富士坊を……?」
言い淀む藤一郎の言葉に茄蔵は血相を変えて再び問う。
「姫さん! 富士兄ぃは……」
茜は目を伏せたまま答えなかった。一瞬、茜の握る黒姫に目を向けた茄蔵は、突如一同に背を向け走り出した。
「茄蔵様?!」
「おい、待て茄坊!」
藤一郎の呼び止める声も聞かぬまま茄蔵は炭焼き小屋のほうへと駆けてゆく。慈螺もすぐにその後を追った。走り去る茄蔵たちの姿を憂いを含んだ目で見送りながら、茜は再び語り出した。
「今更向かったところで、もう……ですが、成すべきことは果たしました。皆様とはここでお別れですね」
「逃がさぬと言ったはずじゃ黒姫! その両脚を斬り落としてでも行かせはせぬぞ」
朋麻呂は射るような眼光と共に斑尾の切っ先を茜に向けた。
「……斑尾兄様とは争いたくありません。そこをおどきください」
「斑尾も其方と争いたくはないようじゃ。……もっとも、麻呂に退くつもりは無いでおじゃるがの」
昼下がりの日差しが照り付ける中、強大な妖の死骸を前に二振の霊刀が相対する。猛々しく炎を吹き上げる斑尾に対して物静かに佇む黒姫の黒い刀身は、それでも寒夜に澄む月のように冷たい光を放ちながら、見る者の心に迫るような妖しさを漂わせていた。
茜と朋麻呂に動きはない。しかし目に映らずとも二人の間に交わされる濃密な意思の衝突は、傍らで見守る藤一郎に耐え難い緊張感を強いていた。一触即発の緊迫した空気が満ちる中、藤一郎はたまらず声を上げる。
「お待ちください少将様、姫様はどうなってしまわれたのですか?! それに“黒姫”とは一体……?!」
異形の山神を失い、静けさに沈む里山の一角に藤一郎の悲痛な声が響き渡る。草木は音を忘れ、鳥や獣も申し合わせたようにその声を潜めた。しばしの沈黙を経て朋麻呂は深く溜め息を吐き出すと、それでも目は茜を見据えたまま静かに語り始める。
「……姫君が手にしておるあの太刀こそ、二十年にわたり我が躑躅崎家が探し求めていた御剣神社のご神体にして、五岳の銘に列する霊刀黒姫じゃ」
「あの太刀が、五岳の……黒姫?」
「五岳が強大な力を持つ霊刀であることは広く世に知れ渡っておるようじゃが、その実、漠然としたウワサばかりが蔓延し、彼の太刀が実際にどのような力を持っておるのか具体的に知る者はそう多くはないはずじゃ。……姫宮殿といえども例外ではあるまい?」
「それは、確かにその通りです」
「五岳は各々が陰陽五行に基づく力をその刀身に宿しておるそうじゃ。つまり、この斑尾は“火”の力を、妙高は“水”の力、戸隠が“土”で飯縄が“金”といった具合じゃな。……ところが黒姫のそれだけは異質らしくてのぉ……元来持つはずの“木”の性質、つまり“生命”や“成長”とは真逆の“死”や“衰退”という力を持っておるらしいのじゃ。……のう? 黒姫」
茜は言葉を返すことも無く静かに朋麻呂を見つめるばかりであった。
「死や、衰退……」
つぶやく藤一郎の脳裏に富士重の姿がよぎる。朋麻呂は再び語り出した。
「人であれ妖であれ、それこそ同じ五岳であれ、斬りつけた相手の魂を瞬時に刈り取る力、魂食み……それこそが黒姫の持ち得る力なのでおじゃる。しかも黒姫は手にする者の魂をも食らい尽くし、その体を自らの意思で自在に操るという。……信じがたい力ではあるが、こうして目の当たりにする以上、信じぬわけにもゆくまいのう」
「少将様! それでは姫様の魂は?!」
「……其方らには気の毒じゃが、つまりは……そういうことなのであろう」
そう言うと朋麻呂は再び柄を握る手に力を込めた。言葉を失う藤一郎の前で変わることなく静然と立ち尽くす朋麻呂。しかし藤一郎が肌で感じ取れるほど周囲の空気は重みを増してゆき、朋麻呂の敵意は確実に先鋭化していった。
「ご安心ください。茜様の魂は消えてはおりません」
それまで押し黙っていた茜が突如口を開く。不意を突かれた言葉に朋麻呂は眉をひそめた。
「……どういうことじゃ?」
「言葉の通りです。茜様の魂は消えてなどおりません」
「戯れるな。そのような妄言を信じると思うてか?」
明らかな苛立ちが朋麻呂の声に表れる。もはや問答無用とばかりに斬りかかろうとする朋麻呂の前に藤一郎が立ち塞がった。
「お待ちください! まだ姫様は亡くなったわけではありません。どうか、刀をお収めください!」
「たわけ者め! 妖刀の言葉を鵜呑みにするか? 黒姫が過去に犯した所業も知らずまんまとたぶらかされおって……。今ここで黒姫を逃してしまえば今後、この東雲にどれほどの犠牲者が出ようか知れたものではない! 訳も分からず姫君を失った其方の心中は察するに余りあるが、食われてしまった魂はもう戻らぬのじゃ……そこをどけ、姫宮!」
「どけませぬ! 少将様、どうか、どうか……」
藤一郎はその場にひれ伏すと、深く頭を下げて懇願した。
「どかぬと申すならば……斬り捨ててでも推し通るまでじゃ」
斑尾の切っ先がひれ伏す藤一郎の頭を指し、突き刺さるような殺意がその身に向けられる。藤一郎は「どうか、どうか……」と繰り返すばかりであった。
「姫の亡骸を護るため我が身を犠牲に麻呂を止めようとするか……愚かではあるが、その忠義は見事でおじゃる。……ならば、その献身に報いるべく霊刀の一太刀にて姫君のもとへと送り届けてくれようぞ」
朋麻呂は藤一郎の頭上に斑尾を掲げると、眉ひとつ動かすこともないままにその刃を振り下ろした。
時は何者にもおもんぱかることなく等しく流れ続ける。振り下ろされた斑尾の刀身を見つめたまま、朋麻呂の表情は自らの判断を悔いるかのように深く歪んでいた。
「……争う意思が無いのであれば、もう行ってもよろしいでしょうか?」
茜は構えた刃をおろすと、藤一郎を逸れた斑尾に目を向けながら静かに問うた。
「……今はどこへなりと消えるがよい。だが、そう長くは其方の好きにはさせぬ。近い将来、必ずや麻呂が捕らえてみせようぞ」
「どうでしょうか? ……それでは、私はこれで」
茜は黒姫を鞘に収めると悠然と二人の横を通り過ぎ、茄蔵が走り去った炭焼き小屋のほうへと歩いてゆく。すれ違いざま、藤一郎は茜の横顔をじっと見上げていた。身を挺してまで守り抜いた姫君は藤一郎に視線を向けることもなく去っていった。
あのまま成り行きに任せていては朋麻呂か茜、もしくは双方に取り返しのつかぬ事態が生じていただろう。それに茜の魂は黒姫に食われてしまったと朋麻呂は言うが、目の前で動き喋り、確かに活動している本人の姿を認めながら、なぜその存在を諦めることができようか。ましてや黒姫自身も茜の魂はまだ消えてはいないと言っていたではないか。
――姫様、今しばらくご辛抱ください。この藤一郎が命に代えてもお救いいたします……。
存在するかも疑わしい魂の救済を拠り所とし、すがりつくように誓いを立てる藤一郎の横で朋麻呂は耐え難いもどかしさをこらえながらも去り行く茜を見送っていた。
盛夏を間近に控えながらも山野の瑞々しい涼気が、立ち尽くす二人の肌を撫でるように通り過ぎてゆく。岩壁の上に広がる欅の林から突如一匹のホトトギスが飛び立つと、直後に巨大なカラスのような黒い影が音も無く天へと舞い上がった。人にも似たその影は、山を下りる茜を追いかけるように飛び去っていった。




