第九節.月下の尾行劇
旅籠は夕食の刻限を迎えたようで、膳を持った女中達がせわしなく廊下を往復していた。鷹丸と茄蔵は運ばれた膳を見るなり歓声を漏らすと、「富士重が戻るまで待たぬか」という茜の制止も聞かず我先にと蒸し立ての玄米を口いっぱいにかき込んだ。
「なぁに、兄貴は考え事ばかりする癖があるから風呂は長いんだ。そんなのを待ってたらせっかくの夕食が冷めちまうよ」
「そうそう、翠扇様も富士兄ぃのことは気にせず食べたほうがいいよ」
「……全く、なんて弟どもだ」
呆れたようにつぶやきながらも茜の手は箸へと向かう。その直後、何の前触れもなく襖が開くと富士重が部屋の中へと入ってきた。
「あれ? 兄貴、随分早かったな。――あ、先にメシいただいてるよ」
「むぐむぐ、富士兄ぃ忘れ物でもしたのか?」
茜は伸ばした手を急いで膝の上に重ねると、悪びれる様子も無い二人を睨みつけた。
「富士重、お前弟達の躾がなっておらんぞ。私ですら箸に手も付けずこうしてお前の帰りをまっていたというのに、こいつらときたら……」
「――それは申し訳ありません。二人には後でよく言い聞かせておきますので私に構わず先に召し上がっていてください」
「ん? あ、ああ……」
茜は妙に抑揚の乏しい声に疑問を感じながら、そこに立つ人物を確かめるように富士重を見上げた。富士重は入り口付近で立ち尽くしたままそれ以上中に入ろうとはせず、まるで夢遊病患者のような虚ろな目で何かを探すように室内を見回している。
――なんだこいつは、寝ぼけておるのか?
茜が不審に思い見ていると、突然動き出した富士重は食事に集中する弟達の横を無言のまま通り過ぎ、茜達に背を向けながら部屋の奥でしゃがみ込んでしまった。富士重はその場でひとしきり何かを行っていたが、突如スッと立ち上がるなりやはり一言も無いまま部屋を出ていった。
「どうしたんだあいつは?」
一部始終を見ていた茜が心配そうにつぶやく。
「きっと湯屋の札でも忘れてったんだよ」
大根の漬物を噛みながら茄蔵が事も無げに言うと、「ははは、兄貴もそそっかしいな」と鷹丸が声を上げて笑った。
「――いや、違うな」
茜は富士重がしゃがんでいた辺りを見つめていた。そこには兄弟達の荷物が固めて置かれていたが、富士重の布包みだけが広げられ中身が近辺に散乱しているようだった。
「違うって何がですか?」汁物をすすりながら鷹丸が問う。
「富士重の包みが解かれておる。……どうやら荷物の中から何かを持っていったらしい」
「それじゃあ着替えですかね? まだ数日は着れると思いますけど、兄貴は綺麗好きなところがあるから――」
「失礼いたします」
茜達の返事を待たずに入り口の襖が開き、廊下で正座をする女中が一同に向かって声をかけた。
「お連れ様がお戻りのようでしたが、夕食の膳をお運びしてもよろしいでしょうか?」
「いやそれが、一旦は戻ったのだがまたすぐに出て行ってしまったのだ……」
茜が言い辛そうに言葉を返す。
「そうでございましたか。先程戻られる姿をお見かけしたものでとんだ早とちりを」
「いや気にしなくて良い。……しかし何か様子がおかしかったな。心ここにあらずといったような……」
茜は入り口から顔をそらすと深く考え込むようにつぶやいた。
「そうですか? 俺は気にならなかったけどな……なぁ茄蔵?」
「ん? どうした鷹兄ぃ?」
「……お前達はメシにばかり気を取られておったろうが」
「あの……」
入り口から声が聞こえ茜が振り向くと、そこにはまだ先程の女中の姿があった。
「差し出がましいようですが……まさかお連れさん、椿姫に騙されているのではないでしょうか?」
「椿姫?」聞き慣れない言葉に茜が聞き返す。
「はい。一年ほど前からでしょうか……この宿場では夜になるとときたま十七、八位の美しい娘が姿を現すようになりましてね、あ、私は見たことはないんですが……それで夜に外を歩いている旅人に声をかけてはその怪しい美しさで相手を骨抜きにしちまって金品を騙し取っちまうらしいんですよ」
余程話し好きな質なのか女中は正座のまま身を乗り出すようにして部屋の中へと入り込んできた。
「その娘、いつも椿の絵が入った白い小袖を着てるそうでしてね、宿場の衆は皆“椿姫”って呼んでるんですよ。それでこのまま野放しにしておいたら方々に悪いウワサが広まっちまうっていうんで宿場の自衛団も何とか捕まえようとしてたみたいなんですけど、いざ探してみるとどういう訳かちっとも見つけられないみたいで……。ここ最近は被害のウワサも聞かなくなったもんでてっきりどこかに雲隠れしちまったのかなぁ、なんて思ってたんですけど、今のお客さんの話しを聞いて、もしかして……と思いましてね」
話しの最中、茜は席を立つと富士重の荷物を調べ始めた。茄蔵は茶をすすりながら不審そうに女中のほうへと顔を向ける。
「娘に騙される? あはは、富士兄ぃに限ってそんなこと――」
「いや、その女中の言う通りかもしれんぞ。――銭束と巾着が見当たらぬ」
そう言うなり茜は不快そうな面持ちで立ち上がった。
「ええっ?」「嘘だろ?!」
「まぁ、大変……」
一同が驚く中、茜は部屋の外へと駆け出した。
「鷹丸、茄蔵、すぐに富士重を追うぞ!」
三人は宿で借りた提灯を手に外へと飛び出した。幸い月明かりのお陰である程度は視界が利く。茜は街道を見渡してみたが数人の人影の中に富士重らしい姿は見当たらなかった。
「念のため鷹丸は湯屋を見てきてくれ。茄蔵ついて来い!」
そう言うなり茜は薄暗い街道を北へと走り出した。とはいえここは土地勘も無い見知らぬ宿場町。その上いくら月明りがあるとはいえ人探しとなると容易なことではない。勢いだけで走り出したはいいものの茜の心中には早くも諦めの感情が頭をもたげ始めていた。
ところがそんな茜の思いを余所に事態はあっけないほどの好転を迎える。
「こっちだ茄蔵、明かりを消せ!」
茜は後に続く茄蔵に小声で告げるなり建物の陰へと飛び込む。茄蔵は茜のそばに近寄るとそそくさと提灯の火を吹き消した。
「姫さん?」
「翠扇だ。――あそこ、道の先だ」
そう言って茜が指をさす先には街道の脇を無気力に歩く富士重の後ろ姿があった。
「あ、富士兄ぃ」
「見ろ、あれはどう見ても普通じゃないぞ。やはり椿姫とやらに誑かされているに違いない」
「まさか富士兄ぃが娘っ子に騙されるなんて……」
「甘いぞ茄蔵。富士重だって立派な男だ。男である以上たとえ天子様であっても女の色香には勝てぬのだ! 現にお前ら兄弟にしても私の魅力に抗えずこうして旅の供をしておるではないか」
「え? だってそれは――」
「シッ! 気付かれぬように後を追うぞ」
茜は身を屈めながら壁伝いに富士重を追い始める。
「ここで連れ戻さねぇんですか?」
「ふふふ、色香を以て私の下僕を操りウマウマと金子を盗み出そうとは大した女狐だ。受け取りの現場をしっかりと押さえて二度とふざけた真似ができぬようにとっちめてやろうぞ」
茜は意地の悪そうな笑みを浮かべると、やや大げさに建物の陰から陰へと隠れながら富士重の後を追った。
――そんなワケねぇ、何かの間違いだ……
兄の姿を追いながらも茄蔵には富士重が女の色香に惑わされて銭を持ち出すなどやはり信じることができずにいた。
その後はしばらく街道に沿って歩いていた富士重だったが、宿場の外れ辺りで突然左に曲がったかと思うと、そのまま建物の脇へと姿を消してしまう。おのれ見失ってなるものかと茜は足を早めた。
富士重が曲がった場所には街道から枝分かれした細い小道が伸びているようだった。茜が建物の陰から恐る恐る覗き込むと富士重は相変わらずのそのそと道の先を歩いている。
――よしよし、まだ気付かれてはいないようだな。
茜は安堵の息を漏らすと富士重との距離を見計らいながら小道に入ろうとした。
「何してるんですか?」
背後からの声に茜達は慌てて振り返った。そこには手提げ提灯を掲げ不思議そうな顔で二人を見つめる鷹丸の姿があった。
「鷹丸か、驚かすでないわ!」
「え? あぁ、すいません……それで、湯屋を見てきたんですけどやっぱり兄貴の姿は見当たりませんでした」
「富士重ならこの角の先におる。明かりを消して覗いてみろ」
鷹丸は言われるままに提灯の明かりを消すと建物の角から小道の先を覗き見た。暗くて今一つ確証は持てなかったが確かにあの後ろ姿は富士重に見える。
「鷹兄ぃ、よく俺達の場所が分かったなぁ」
「あん? あぁ、湯屋を出てからとりあえずお前達が向かったほうに走ってたら、壁際を虫みたいに這い回る妙な人影が見えるじゃねぇか。ひょっとして、と思って近づいてみたら大当たりだったな」
「虫とはなんだ、失礼な。それより早く後を追うぞ」
「合点」「あいさ」
闇の中に響き渡る虫の声に囲まれながら、茜達は朧げに見える富士重の姿を追って田畑に囲まれた野道を進んでいく。どうやらこの道は先に見える小高い森の中へと繋がっているようだった。さらにその森の手前辺りには鳥居のようなものが見えることから、恐らくあの先にはこの地の産土様か何かを祭る神社でもあるのだろうと茜は予想していた。
富士重は鳥居を抜けると、そのまま丘の斜面に敷かれた石段を上り始めた。茜達は急いで鳥居の陰に身を潜め石段を上る富士重を見上げる。思えば尾行を開始してから富士重は一度も背後を心配するような素振りを見せていない。茜は富士重の様子に何か言い知れない違和感を感じ始めていた。
「翠扇様やっぱり変だよ。なんだか富士兄ぃじゃねぇみてぇだ」
「……確かに女に誑かされているのとは何か違う気がするな。むしろ妖術か何かで操られているような……」
「もしかして兄貴、物の怪にでも憑かれちまったのか?」
「物の怪が銭を欲しがるとは思えんが……何にせよ後を追っていけば分かるだろう」
富士重が頂上辺りまで達したことを確認すると茜達は静かに石段を上り始めた。




