6
◆
黒小灰蝶の蛹は、羽化の時を迎えるまで静かに眠り続ける。
あの騒動以来、蛹は空き部屋にて大切に寝かされている。そこへ訪れ、香りのいい蛹をそっと抱きしめるのはすっかり日課になっていたが、あの小生意気な声が懐かしくてしょうがない。そのくらいの時は経っていた。
女王陛下はあれ以来、わたしのことを放ってくれるようになった。わたしの方もいまだ病人扱いではあるが、今までのように働くことを許されている。ただちょっとだけ、こうして胡蝶に会いに来るくらいのものだ。
「おかしな人ね」
遠慮もなく言ったのは、奥の間にて私に首を絞められたあの姉妹だ。
見張り共々大したことはなく、女王陛下の言葉もあったので一応は許してくれたが、胡蝶恋しさに暴れた変人としてわたしを見るようになった。見張りの方はすっかり危険人物を見る目で見てくるし、その噂を聞いた者の一部もそうだ。
それは別にいい。わたしは胡蝶さえ守れたらそれでよかったのだから。
だが、首を絞められた姉妹の方は、遠慮ない言葉を向けてくるも、心の底から嫌ってはいないらしい。やはり、彼女は根っからの平和主義者なのだろう。今も、蛹を抱きしめに来た私について来ていた。
「たしかに可愛い胡蝶だったとは思うわ。でも、他人の首を絞めてまで守りたいなんて信じられない。女王陛下の一言で、あなたの首が飛んでいたかもしれないのに」
「……もう具合はいい? わたしのせいで首が痛いって言っていなかったっけ」
蛹の香りに包まれながら静かに訊ねると、姉妹はわざとらしくため息を吐いた。
「平気よ。平気だけれど、いまだにあの時の悪夢を見るわね。目覚めた時にあなたがいなくて心臓が止まるかと思ったわ。私たち皆、首を刎ねられるんじゃないかって」
「女王陛下はそんなことなさらないわ」
「ええ、そうみたいね。でも、そう思うくらいの失態だったのよ。ちゃんと捕まってくれてホッとしたんだから」
笑いながら言う姿は、やはりどこか能天気だ。わたしを見るなり睨みつけてくる屈強な姉妹たちとは全く違う。優しい、というよりも呑気なのだ。女王陛下が判断したように、彼女は戦闘向きではないのだろう。
「……それにしても、なかなか羽化しないのね。ちゃんと生きているのかしら」
「大丈夫よ。温もりを感じるもの」
「温もり? 温かいの?」
「ううん。こうして抱っこしているとね、あの子の心の温かさを感じるの。まるで蟻の子たちみたいに」
「なにそれ。変なの」
呆れた様子の彼女だが、邪魔をせずに見守ってくれるのなら何を言おうと構わない。
黙ったまま蛹の感触に浸っていると、ふと違和感を覚えた。
「これって……」
姉妹が慌ててひとを呼び行った。わたしの方は蛹を抱えたまま、呆然と見つめていた。ゆらゆらと揺れながら、何かが出てこようとしている。
同族の羽化とはまた違う神秘的な変化を前に、わたしはただただ目を奪われていた。ひとが集まってくるより先に、蛹は変化していく。亀裂が入り、中から出てこようとしているのが見えて、そっと地面に寝かせた。
しなやかな手足が、みずみずしい肌が、震えながら中から現れた。そしてその顔は、記憶の片隅にあるあの愛らしい顔によく似ていた。
似ているけれど、違う。
あの頃はただ可愛いだけだった彼女に、大人らしい魅力が宿っている。胡蝶の魔性という言葉通り、その見た目は立派なものだった。
香りはない。甘い香りは蛹に薄っすらと残っているだけ。それでも、彼女は間違いなく、わたしが守ろうとした胡蝶に違いなかった。
「ああ……」
無事に出てきた彼女を見つめていると、虚ろだった目に輝きが宿る。じっとこちらを見つめ、そして妖艶な笑みを浮かべる。もうあの頃の無邪気さはないのだろうか。大人びたその顔に見惚れていると、彼女の方から口を開いた。
「とっても久しぶりね」
間違いなく、彼女の声だ。
「あたし、薄っすらと夢を見ていたの。あなたが必死に守ってくれた夢。おぼろげな記憶だけれど、確かにあなただった」
蛹から出たばかりのしなやかな肢体。
あの香りはもうない。かつてわたしが愛した胡蝶の少女ではないのだ。それでも、微笑みかけてくる眼差しは、心がぞくぞくするほど美しいものであった。
蛹を抱くのと同じように、わたしは胡蝶の娘を抱きしめた。すると、彼女は微笑みながら囁いた。
「もう、蜜が出せないみたい。あなた達とイイコトも出来なくなっちゃったのね。そんなあたしでも、あなたは抱きしめてくれるの?」
「イイコトなんてどうでもいいの」
泣きそうになりながら、わたしは久々に触れられる胡蝶の温もりを味わっていた。
「あなたが無事に大人になって、無事に王国を飛び立っていく。その姿を見送ることが出来るのなら、わたしはそれで満足よ」
夢のような気持ちだった。こんな時が来るなんて。
一度は完全に諦めた。女王陛下の圧倒的な力を前に、絶望しかけたのだ。それでも、今はこうして抱きしめられている。情愛がここにある。イイコトなんて出来なくても、こうして抱きしめていると幸せだった。
胡蝶の顔を見てみれば、その顔はきょとんとしていた。イイコトだけが自分の価値だと思っていたのだろうか。ちやほやされたのだって、女王陛下に気に入られたのだって、イイコト出来るからだったのだから、そう思っていても不思議ではない。
でも、それだけじゃないわたしを前にして、彼女は不思議に思ったようだ。やっぱり、姉妹の言う通り、わたしはおかしな王国民なのかもしれない。
「やっぱり、正夢だったのかしら」
胡蝶は静かにそう言った。
「ここを去るのは寂しいけれど、あなたが見送ってくれるのなら何でも出来そうな気がするわ」
にこりと笑う彼女の表情は、かつて触れ合った胡蝶の少女とよく似たものだった。
もうすぐ別れの時が来る。けれどそれは、決して辛い別れではない。寂しいものであったとしても、希望がそこにある。全てを諦めた時のことを忘れてしまいそうなほどの光輝く未来がそこにある。
そんな幸福感を噛みしめながら、わたしはしばし胡蝶との二人きりを楽しんだ。
◆
普段は王国の奥に暮らしているわたしにとって、国外への門は異国同然と言ってもいいほど縁がないものだった。
一度か二度は見たことがあったかもしれない。女王陛下がまだ姫殿下であった時などには、王国にも外があるのだということをただの知識ではなく、もっと身近な真実として知っていたはずだった。
いつの間に、こんなに時が経っていたのだろう。久々に目にする国外への門は、あまりにも異質なものに見えてしまった。
光り輝く外の世界。あまりにも輝かしく、国外に働きに出ないわたしにとっては眩しすぎる世界だ。そんな世界の入り口を、王国民のほぼすべてが眺めていた。女王陛下も近くにいる。こんな式典めいたことは滅多にない。それこそ、王国統一の祝い以来のことだろう。
この場の主役は我々、黒大蟻の血を引く者ではなかった。
大勢の姉妹や旅立ちを控えた兄弟たちに見守られながら、美しい体をした精霊がひとりその姿を皆に見せつけるように立ち尽くしてた。
無事に羽化した胡蝶だ。
女王陛下と見つめ合い、そして、優雅に礼をする。その姿を、かつて彼女とイイコトをしたことがある者たちが、固唾を飲んで見守っていた。わたしもその一人だ。
甘い香りはもうしない。人々を惑わした香りの魔性は何処にもない。胡蝶の魅惑の力も、我々には通用しないものなのだろう。それでも、わたしや、かつてかの胡蝶に恋をした国民たちは、明らかに魔性にあてられていた。
蜜など関係ない。惚れていたのは、彼女の精霊としての人格だったのかもしれない。
いつでも無邪気で明るく、愛らしく笑っていたその姿を見たくて、イイコトをしていたのかもしれない。
女王陛下が本当はどんな気持であったかは分からない。
あんな計画を本気でやろうとしていたのならば、複雑な心境だろう。それでも、わたしの気のせいだろうか、平伏して育ててもらった感謝の言葉を述べる胡蝶を見守る女王陛下の美しい目は、初めて国外に働きに出る新成人たちの挨拶を見つめる母親の眼差しとよく似ている気がした。
「陛下ならびに国民の皆様のおかげで、とても楽しい毎日でした」
胡蝶の言葉に泣き出す者が現れた。きっとイイコトをしたうちの一人だろう。
「お別れは寂しいですが、いつまでもここでお世話になるわけにはまいりません。あたしは行かねばならないのです。もう二度と、皆様の前には現れないでしょう」
これで最後なのだ。本当に、もう会えなくなってしまう。
突き付けられれば、とても寂しくなった。同じように感じている姉妹も多いのだろう。泣き出す者が増えたようだ。わたしは涙を流すまいとこらえながら、胡蝶の姿を目に焼き付けていた。
「……でも、いつか、あたしの血を引く子が、またこの王国の温かい空気を求めてくるかもしれません。その時は、もしよろしければ、あたしの時のようにお世話していただければ助かります」
頭をしっかりと下げるその姿は、生意気な胡蝶の少女などではない。
女王陛下は彼女を見つめ、ため息交じりに頷いた。
「外は危険な精霊も多い。くれぐれも他者を信じ過ぎぬよう。だが、この王国でお前の命を守った情愛は確かなものだった。そんな真心を受けて無事に育ったことは忘れないで欲しい」
そう言って、陛下はわたしへと視線を向けた。
「行け。門まで手を引いてやれ」
思わぬ許しに狼狽えながら、わたしは押されるように胡蝶の傍へと向かった。
恐る恐るその手をとると、胡蝶は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
柔らかなその声に心まで震えそうだった。
泣かないように、泣かないように、そう思っていても、駄目な時は駄目なものだ。手を繋いで共に門まで歩くうちに、わたしは子どものように泣き出していた。
いろんなことがあった。胡蝶がここに来てから、いろんな思いが生まれた。自分の命をなげうってまで守ろうとした。王国が一番、女王陛下が一番だったわたしにとって、思いもよらぬ感情だった。女王陛下との関係に嫉妬したこともあったっけ。最初は生意気な小娘だと見下していたのだっけ。
いろんな感情が交差して、涙になって溢れていく。
これで、最後だ。
もう会うことはないかもしれない。
門の傍まで来ると、外の光がわたし達を射してきた。黒大蟻の王国には縁のない光。外に働きに出る王国民しか目にしない光だ。その光あふれる世界が、旅立つ胡蝶の羽ばたきを迎え入れようとしている。
手を繋いだまま向き合うと、胡蝶はわたしに抱き着いてきた。その背中にそっと手をまわすと、胡蝶は静かな声で囁いて来た。
「夢の中で感じたあなたの愛、決して忘れないわ」
言葉と、涙と、温もりが、わたし達を彩っている。
王国民たちが手を振り、声をあげる。胡蝶への別れの言葉を各々が思い思いに叫びだし、別れを惜しんでいた。女王陛下は黙ってじっと見守っている。
そんな大勢の愛に見送られながら、胡蝶はおもむろにわたしから離れていった。光あふれる外の世界の階段を登っていく。儚い姿と強い光が合わさって、とても綺麗だった。
「さようなら」
そして、駆けあがっていった。
妖艶な他種族の精霊が、真っ白な光に包まれていく。暗闇の中でこれからも暮らし続けるわたしは、その背中をいつまでも見送り続けた。
願わくは、彼女の未来が明るいものであるように。そして、いつの日か、彼女に何処か似た来客があること。そんな未来の可能性を胸に秘めながら、もう見えなくなった精霊の背中の幻影を求めて、真っ白な光をわたしは見上げ続けた。