目覚め
七篠祐樹はごくごく普通の高校男児だったはずだ。毎日面倒がりながら学校に通い、友達と昨日見たテレビの話をする傍らに勉強をして、そんな毎日を当たり前のように過ごしていたはずだった。友達からはよく変わっている等と言われることもあったが、それも所詮は常識の範囲内であり、決して狂人ではなかった。
だからこそ普通の高校生たる自分はここでみっともなく取り乱すべきなのだろうと、七篠祐樹は血まみれの教室と同級生の死体の山を見て、そう思った。
「う、うわあああああああああ」
情けなくうわずった声をあげながら祐樹は後ずさる。しかしすぐに後ろには教室の壁があり、これ以上さがることはできなくなった。
祐樹の目に映るのは血だまりだった。大量の血。まるで教室の床を全て飲み込まんとする血の池のようだ。そしてその血の池には三人ほどの見覚えのある顔の男たちが倒れていた。祐樹もどうやら先程まで男たちと同じように血の中に倒れ込んでいたようで、体中に誰のものかもわからない血液がこれでもかと塗り込まれていた。
状況が理解できない。自分はさっきまで授業を受けていたはずだ。それがつまらなくて寝てしまった。つまらない授業だから、数学だったと思う。寝てしまっていたので授業の記憶はこれっぽっちもないが、しかし自分が普通に学校に来て普通に授業を受けていたことは確かだ。それは七篠祐樹にとっての日常で、間違ってもこんな血だまりが祐樹の日常に溶け込んでいいわけがない。
「……」
何か言おうとしたが声が出なかった。いやそもそも自分は何を言おうとしたのだろう。困惑している。自身にさえわからない感情が混ざり合って吐き気さえも覚えた。
とにかく何か情報が欲しかった祐樹はとりあえず倒れていた同級生たちに目を向ける。全員顔も体も青白く、とてもじゃないが生きているという感じはしない。彼らは全員もれなく何か切り刻まれたかのような傷を体のいたるところに残していた。その中の一人はカッターナイフが腹部に深々と突き刺さったまま絶命している。その顔は苦痛にゆがんだまま固定されてしまったようだ。今にも男の絶叫が聞こえてきそうである。
「……殺人?」
ようやくでてきた言葉は誰に向けている訳でもない疑問。この惨状を見るに、これはカッターを使った殺人だと直感的に祐樹は予想したが、しかしカッター一つでこの数の人間を殺すことができるのだろうか。凶器がまだ別にあったとして、そして複数犯の可能性もあるならば話は別になってくるが……。
祐樹が探偵の真似事を始めた時、その声は不意に響いた。
「祐樹……?」
正面から聞こえた声に祐樹は血だまりから目を離して顔を上げる。するとそこには祐樹のよく知る少女がいた。
名前を双葉えいり。祐樹とは小学からの友達だった。彼女はその特徴的な長いツインテールを揺らしながら、祐樹の名前を呼んでいた。
「…………」
見知った顔の呼ぶ声に祐樹はまたしても言葉を失う。何故なら彼女もまた祐樹と同じように血まみれであり、そしてなにより彼女の手に握られていた鋏が祐樹の言葉を奪ったのだ。
「どうしちゃったのよ。ようやく起きたと思ったら変な行動ばっかり……あんたが変なのはいつものことだけれど、ちょっと今日はおかしいわよ」
今日は? 今日というのはどの今日だというんだろう。この理解しがたい惨状を今日だというのなら、七篠祐樹の平和な今日はどこに行ってしまったのだ。
「変、なのはこの状況だろ」
絞り出した言葉は震えていた。それも含めて双葉が首を捻っているのを見て祐樹は畳み掛ける。
「なんだよ、これ。なんでみんな死んでるんだ。どうして俺は、お前も血まみれなんだよ。それにその鋏……これ、お前が殺したのか……?」
祐樹の言葉に何か癪に障るものでもあったのか、双葉は大きな声で「はぁ?」とはっきりと不満をあらわにした。
「ついに完璧に狂っちゃった? こいつらはあんたが殺したんでしょうに……あ、でも最後の一人は私が殺したのか」
あまりにも唐突に告げられた真実に祐樹は固まった。思考も、体も全く動いてくれない。そんな祐樹の様子を見て双葉はため息をついていたが、しかし直後何か思い至ったかのような顔をする。そしてその表情を見る見る強張らせていく。
「あんたまさか……!」
途端に青い顔になった双葉は血の池を飛び越えて祐樹の目の前にやって来た。祐樹が怖がるのもよそに祐樹の頭を調べるように触りだす。双葉の手が後頭部に回った時、祐樹は鈍い痛みを感じた。
「いたっ!」
思わず双葉の手を払いのける。彼女はそれを怒ることもせず、ただ祐樹の頭に触れていた手を見つめていた。
「……嘘でしょ、こんなマンガみたいな……」
驚愕を隠せないというように渋い顔をして双葉は言った。
「記憶喪失なんて本当にあるんだ」
******
双葉えいりによれば七篠祐樹は記憶喪失らしい。
「あんた、本当に覚えてないの? さっきまでのこととか……もっと前のことも」
双葉の質問に祐樹は首を横に振った。
「覚えていないというか……俺はさっきまで授業を受けていて、でもつまんなくなって寝ちまったんじゃないのか?」
「違うわよ! そんなのありえない。だって私たちは今朝からずっと〝こう〟なんだから」
双葉の言う『こう』の意味がわからず祐樹が首を傾げると、双葉は大仰なため息をついた。
「私のことを忘れてないってことは、この戦いに関する記憶だけを丸々失くしたってこと……? また器用な失くし方だこと。それに記憶がないっていうなら、そこから話さなくちゃいけないのね……ああ、もう面倒だわ本当に」
心底面倒だと言わんばかりに双葉は頭を軽く振った。彼女の特徴的な長いツインテールが揺れる。いつも触覚みたいだな、と俺は思っていたんだよなぁと祐樹が関係ないことに思考を割いている間に双葉はさっさと説明を始めた。
それは七篠祐樹、双葉えいり――二人を含めたこの海棠高校の全校生徒に関係することだった。
「始まりは今朝の全校集会……いえその前からね。今日は登校してくると、どの教室にも同じような文字で『今朝は全校集会があります。体育館に集合してください』って書いてあったわ」
昨日から知らされていた集会ではないので臨時の集会のはずだった。にも関わらず先生からの説明はない。そもそもHRに現れるはずの担任がいなかったのだ。双葉のクラスだけでなく、海棠高校の全クラスの全担任が何故かHRに姿を現さなかった。不思議に思い職員室に行った生徒が誰もいなかったと証言していたので、つまるところ今朝の海棠高校には教師が誰一人としていなかったことになる。
「さすがにみんなおかしいって思っていた。警察に連絡しようって子もいた。でもまずはとりあえず体育館に行ってみないかって、結果的にはそうなったのよ。ご丁寧に黒板でお知らせしてくれているんだから、行ってみようって」
そこで目にしたのは体育館のステージにマイクを持って立っていた校長先生の姿だった。生徒たちはひとまず安心する。校長が無事いるということは、何か妙な事件が起こっているだとか、そんなことではないのだとそう思ったからだ。
だがみんなはすぐに思い知る。これがただの事件だった方が何倍もマシだったのだと。
「そこで校長は言ったわ。『この中に一人だけ、タグトロムを持った生徒がいます』ってね」
「タグトロム……? なんだよそれ。新手のゲームソフトか何かか?」
祐樹の質問。双葉は何故か祐樹をキッと睨みつけた。
「ゲームなんかと一緒にしないで! タグトロムはそんなものじゃないわ!」
「じゃあ一体なんなんだよ」
「…………」
双葉は難しい顔をして黙り込んでしまう。可愛い顔をしているだけに、黙った時の迫力も強い。考えこむ双葉の言葉を祐樹はじっと待つ。
「言葉ではどうとも言えないわ」
しばらく待って発せられた言葉は酷く曖昧なものだった。祐樹はがっかりと肩を落とす。その様子を双葉はがっつり見ていたので何か言われるのではないかと思ったが、意外にも彼女は素直にごめんなさいと謝った。
変だ、と祐樹は思った。この気の強い女なら小言の一つや二つ言ってのけるはずなのに。
「でも、あれは本当に言葉では表せないものなのよ。あの素晴らしさは、きっと人類の言葉なんかじゃ再現不可能なものなのね」
そういう彼女の顔は恍惚を表したようにうっとりとしていた。どこかで見たことのある表情だと祐樹は記憶を探る。そう確か、一ヶ月ほど前に双葉に好きな人がいるのだと恋の相談とやらを受けた時、その時の彼女の顔にそっくりなのだ。しかし今の双葉の表情にはその時とは比べ物にならない激しい恋慕が見て取れる。こちらが息をのむほどのその恋慕は祐樹の中の不信感を刺激した。
「タグトロムっていうのは、人なのか?」
「人ではないわ。多分」
「多分って、そんな曖昧な……」
「仕方ないじゃない。本当に、あれは言葉にできないものなんだから」
言葉にできない、無理な物は無理だと繰り返す双葉。仕方なく祐樹もタグトロムについてこれ以上双葉から聞き出すことを諦め、話を次に進めた。
「それで、この中にタグトロムを持っているやつがいる。そのあとはどうしたんだよ」
「決まってるじゃない。奪い合いよ」
当たり前のように双葉は言い放った。祐樹の頭に浮かんだのはどうしようもない違和感。
「決まってるって、そんな馬鹿なことがあるか!」
思わず声を大にして反論した。否定した。気づいてしまったからだ。今現在、この惨状が表す意味を祐樹はなんとなく勘付いてしまった。
この血だまりは、死体たちはつまり…………。
「馬鹿なことなんかじゃない。むしろこうなって当たり前よ。校長のお膳立てがあったのは確かだけど、それがなかったところで結局私たちはこうして互いに殺し合うことになっていた。それだけの魅力がタグトロムにはあった」
校長が全校生徒に告げたこと。
一つは全校生徒の中でただ一人だけタグトロムを所有している者がいること。
そしてタグトロムは複数人で分け合えるようなものではなく、最終的に手にすることができるのは一人だけだということ。
最後に欲しければ力づくで奪えと、校長はそれだけ言って懐から鋏を取り出し、自らの首を掻っ切って死んだ。
「そのあとはどうしたんだ……」
恐る恐る問う。双葉はなんでもなさそうに血だまりの中の死体を指さして言った。
「こうなったのよ。タグトロムの奪い合い。ま、誰が持っているか未だにわかっていないから、奪い合いというよりはタグトロムを持っている奴を探すための殺し合いね」
「なんで持ってる奴を探すのに殺す必要があるんだよ!」
「タグトロムを持っているやつが私持ってますって言うと思う? 殺して調べるのが一番手っ取り早いのよ」
確かにそうかもしれない。しかしそうすると、タグトロムを持っているただ一人のためにその他全員の命が危機に扮しているということになる。それはあまりに逸脱した状況。異常を通り越して滑稽にも思えてくるような現状だった。
「ま、最初は殺し合いをしようとしていた奴は少数派だったわ。みんな命惜しさに逃げ惑っていた。でも誰も学校から出て行こうとか、警察に連絡しようとかする奴はいなかった。みんな心のどっかではタグトロムを欲しがっていたのよ。警察が介入したら、きっとタグトロムは彼らの手に渡ってしまうと思ったんでしょうね。だから最初は戦いたくないと言いながら逃げる人ばかりだった。その反対に積極的にタグトロム争奪戦に参加しようとしていた奴らはまず逃げる奴から殺し始めた。もしタグトロムを持っているとしたら、争奪戦に参加する意味がないから、だから逃げ隠れる奴の中にタグトロムの所有者がいると思ったんでしょうね。結果的にはいなかったのだけれど」
「俺もお前も、殺したのか……? その逃げてたやつらを」
「あんたのことは知らないわ。私があんたと会ったのは臆病者があらかた死んだ争奪戦中盤の話だから。それに、私は臆病者を殺していない。むしろ臆病者だったのよ」
怖かった。と双葉は柄にもない弱音を吐いた。タグトロムには魅かれていた。でも戦うのは怖かった。だからずっと隠れていた。争奪戦が中盤に差し掛かったころ、双葉は見つかった。双葉を見つけたのはクラスの女子だった。別段仲が良かったわけでもなかったが、仲たがいしていたわけでもなかった女子。彼女はここから逃げようといった。一緒に逃げようと。タグトロムを置いて逃げるのは辛かったけど、双葉は一緒に逃げることにした。後ろ髪を引かれながら彼女を行動をともにすると、罠にかけられた。彼女の提案で入った教室には十数人の男女が待ち構えていたのだ。
「ああ死んだなぁ、って思ったの。でも別にそれはよかった。私はそれ以上に死ぬことでもう二度とタグトロムを手に入れられないことの方が怖かった。死ぬのは嫌だ。私はタグトロムが欲しいって、そう思った。その時、あんたが私を助けてくれたのよ」
「俺が……?」
勿論記憶にない。自慢ではないが祐樹は別に正義漢ではない。不良に絡まれている女の子を見たら見て見ぬふりをする程度には薄情な男だ。そんな自分が双葉を助けたことに心底驚く。
なんだそれは、まるで俺じゃないみたいじゃないか。
「驚いちゃったわ。突然どこからともなく現れて、十人以上いた奴らを殆ど一瞬で八つ裂きにしちゃったんだもの。そのあと、私たちは同盟を組んだの」
「同盟? 手を組んだのか俺たちは」
「そうよ、とりあえず争奪戦の人数が減るまでの同盟。あんた強すぎて勝てる気がしなかったからお願いして同盟組ませてもらったのよ」
随分とあけすけな物言いだった。そんなことも忘れちゃったの? と続けるあたり彼女の中ではどれだけ強かろうと七篠祐樹は七篠祐樹でしかないようだった。自分からお願いしたらしいのに上から目線というのはどういうことなんだろう。
「その後は二人で色々殺しまわったわ。私も純粋にタグトロムを求めるようになっていた。で、今は争奪戦の終盤。もう生徒の数も二十人といないわ。そろそろ同盟も潮時かなぁって思ってたところこの男たちに襲われて……それでこれだものね……」
双葉は困ったように苦笑いをした。タグトロムを追い求める彼女からすれば、祐樹は一時的に味方になっただけの存在。さらに記憶も失くしたというなら足手まといにしかならない。
もしかしたら殺されるかもしれない。祐樹はごく自然にそう思った。足手まといにしかならない自分。状況をまだ上手く飲み込めていない自分。殺すなら今だ。双葉の言う通り祐樹が本当に強かったのだとしたら、尚更殺すなら今を置いて他にない。
だが双葉はそうしなかった。彼女が発した言葉は祐樹の想像を超えていた。
「仕方ない。とりあえず行くわよ。これ以上一か所にとどまるべきじゃないわ」
「……殺さないのか?」
聞いてしまった。思わず口に出してしまった。双葉は少し不愉快そうに顔をしかめる。
「あんたは覚えていないかもしれないけど、これでも私たちは二人で結構な死線を乗り越えてきたのよ。今ここで、記憶を失ったあんたを殺すのはあたしの流儀に反するわ。それに……あんたが記憶を失った理由だと思うその頭の傷はあたしの落ち度でもあるのよ。それはあんたがあたしを庇ってできた傷なんだから」
だから最後まで面倒みてあげる。
小悪魔めいた微笑みを見せて、双葉はそのまま教室を出て行こうとした。祐樹も置いて行かれないようにと立ち上がる。
様々な疑問や腑に落ちない点を残しつつも、祐樹は双葉の言葉を概ね信じていた。彼女は嘘をつけるような人物ではない。
ただ一つどうしてもわからないことといえば、タグトロムが一体どういうものなのか――それをどうしても知りたいと思っている自分の存在だった。この激しい興味こそが、双葉の言うタグトロムの魅力なのだろうかと祐樹はふとそんな風に考えた。