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筺の鳥  作者: みなきら
籠の鳥、雲を恋う
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籠の鳥、雲を恋う

 加代子を現世に戻してから、この黄泉で十日弱が過ぎた。この常闇の御門(みかど)には、地獄にある浄玻璃の鏡のような現世を映し出す鏡があり、雅は日がな一日それを眺めるのが日課になり始めていた。


 愛おしい人――。


 月から地球を望んだ宇宙飛行士のように、遠く離れれば離れるほど会いたくなる。


「また見てるの――?」


 不意に首に回された伊邪那美命の細腕に雅は「ええ」と短く答えた。鏡の中では加代子が映し出され、なごみ屋で楽しそうに接客する様子が映し出されていた。


「あちらに戻れないのは分かっているのでしょう?」

「もちろん、分かっていますよ。」

「それでも見ていたいものかしら?」


 そう言うと伊邪那美命は加代子の姿に変じてみせる。


「どう? 似合う?」


 そして、雅の膝の上に座ると、強請るようにして口付けてくる。雅は眉間に皺を寄せてそれを拒んだ。


「お戯れはおよし下さい。」


 しかし、伊邪那美命に目をすっと細められると金縛りにあったように身体の自由は奪われ、口付けられる。舌を差し入れられ深く口づけられれば、身体中の唐草が熱を帯び、心とは裏腹に熱っぽい吐息が漏れた。


「お止めください、と・・・・・・。」


 雅が泣き叫んばかりにそう言うと「欲望のままに抱けば良いのに」と、加代子の顔のままで伊邪那美命が言う。


「それにこのまま貴方が拒むなら、貴方の愛する子は止まってしまうわよ?」


 そう、くすくすと笑う伊邪那美命に、雅は真っ赤な瞳を燃やした。


「どういう事です――?」

「あの子は貴方との記憶、それから貴方の血と気を媒介に、私の神威が動かしているものだもの。いずれかが不足すれば、貴方の加代子(愛し子)は止まるわ。」


 その言葉に雅はギリリと歯噛みをすると、怒りを露わにする。


「あの時、彼女を人質に取ったのですか?」

「ええ。だって、お人形を与えておかないと、貴方を縛っておけないでしょう?」


 伊邪那美命は「手に入れるなら全部手にしないと嫌な性分なの」と言い、雅の黒髪に手を伸ばす。


「貴方が私を拒んでも、あの子が貴方を思い出しても、あの子の心の臓は止まる。」


 その言葉に雅は嫌悪の表情から、憎悪の表情へと変わった。


「ああ、その表情。それが見たかったの――。」


 伊邪那美命は加代子の姿のままで、くすくす笑う。雅には伊邪那美命の思惑がどこに通じているのか読めなかったが、内から沸き起こる怒りを噛み殺せずに「醜悪な」と呟いた。


「醜悪とは言ってくれるわね? 加代子の姿を真似て上げているのに。」

「それが醜悪だと言っているんです。」

「あら? では、あの子を殺して(止めて)しまってもいいの?」


 そう言われると、雅は苦々しげな表情はしたものの、伊邪那美命を悦ばせるためにその身を捧げる事を決めた。


「私が彼女の見てくれで、彼女を恋うているとお思いか?」

「あら、これは優しさよ? 貴方の精気と血を啜る事に対しての。」


 そう目を細めた伊邪那美命は「啜られるなら好いている者の姿の方がいいでしょう?」と囁かれ、雅は唇を奪われた。


 悔しい、憎い、嫌だ――。


 そう思っているのに、加代子の顔をした伊邪那美命の、吐息混じりの口付けに、深く口付けられる程、脳髄が甘く痺れるような快感が襲ってきて、徐々に相反する気持ちに心を支配されていく。


 欲しい、狂おしい、抱き潰したい――。


 抑え込んでいた力が溢れ出て心の臓に早鐘を打たせる。すると、伊邪那美命はそれに気がついてか、雅の耳元で甘く囁いた。


「いらっしゃい。そして、私を喰らえばいい。私はそういう欲深な貴方が好きよ?」


 そんな事を加代子の顔で、加代子の声で言わないで欲しい。


《ねえ? 半分こにして。》


 少し冷たい手が肌に触れてきた感触も、闇と仄かな光の中で、いつもは明るい茶色の瞳が黒みがかり艶めいていたことも。


《辛いのも苦しいのも分けて――。》


 叶わないと分かっていても、伊邪那美命(こんな紛い物)ではなく、加代子(本物)に触れたい。


 そうした雅の心が伝わったのか、伊邪那美命は雅の首筋に唇を這わせると、その根元に深々と牙を立てる。


「・・・・・・ッ。」


 牙を突き立てられる痛みと共に、生温かくぬるりとした感触がして、血を啜られていく感覚に、言い様のない疼きを感じる。


 段々と頭に血流が回らなくて、クラクラと気が遠くなり始めると、雅は座っていられなくて、後ろへと倒れ込んだ。


「嫌悪、憎悪、恐怖。雅信からは本当に色んな味がするわね。そんなに私の事が嫌い?」


 流れ出た血を舐め取り、ふっと息を掛けられれば傷は癒える。それでも、喪った血は戻らない。


「過ぎた欲はね、身を滅ぼすのよ。」


 伊邪那美命はそういうと自虐的な笑みを浮かべて、浅い呼吸をする雅の胸に触れた。


「私は愛なんて信じない。信じたところで裏切られるのが関の山だわ。」


 そして、伊邪那美命は「そんなものより憎しみの方が信頼が出来る」と言う。


「今、貴方の目玉をくり抜いたら、その記憶に残るのは加代子か、私か、どちらでしょうね。」

「それは・・・・・・。」


 伊邪那岐命に問いたかった言葉なのかと聞こうとして、伊邪那美命に再び口を塞がられる。


「貴方の心がいつまでもつのか、楽しみにしているわ。」


 今にも泣き出しそうな加代子の姿を纏って、さっきまでとは違い、切なさが残る口付けをしてくる伊邪那美命に雅は困惑した。


 ◇


 時は容赦なく流れる。


 五月。


 六月。


 七月。


 星合の季節になる頃には、鏡に映る加代子は元気を取り戻したようで、家となごみ屋を往復しながらの生活をしていた。


 斎と恋仲なのか客が訊ねてくるのを笑って流したり、家族と食卓を囲んで楽しげにしていたり、幸せそうに見える一方、時折、月に帰る運命を知ってしまったかぐや姫のように、不安そうな顔で夜空に浮かぶ月を眺めていた。


 色々な加代子の姿を見る度に愛しさと寂しさが募る。


 お願いだから、思い出して欲しい――。


 初めの頃はそう思っていたのに、加代子が自分を思い出してしまえば、彼女の命を奪ってしまうと知ってからは、雅はそれまでのようには鏡を覗けなくなってきていた。


 過ぎた欲は、身を滅ぼす――。


 それは自分だけでなく彼女の身も滅ぼしてしまうだろう。


 この感情は抑え込まなければ――。


 身体に刻み込まれた唐草に触れるように、雅は両の腕をクロスして、肩を掴むとぎゅうと燃ゆるような思いを噛み殺した。


 たとえ彼女がほかの誰かと生きる道を選んでも、自分には何も言えない。何も手を出せない。


 そう分かっていても――。


 恋焦がれて鳴く蝉よりも、と言わんばかりに、熱は膨らみ、雅は身の内の焔に燃やし尽くされてしまいそうになっていた。


 加代子の姿を模した伊邪那美命に求められるままに過ごしている中で、加代子を想っていた心が、どこかへ消し去ってしまいそうで怖くなる。


 いっそ加代子を噛み殺して、自分も儚くなってしまおうか――。


 悲しげに自分を求める伊邪那美命(加代子)を見ていると、そんな物騒な考えが頭をもたげてきて、ゾッとする。


 雅は現世を映す鏡に覆いをかけた。


 そして、八月。


 九月。


 十月。


 ひと月に一度だった伊邪那美命との逢瀬は、二週に一度、週に一度と増えていき、この頃になると彼女は頻繁に雅の元を訪れていた。


 ただ、それは初めの頃のように精気や血を求めるものからは変わってきていた。


「私の姿は、未だ加代子に見えているの?」

「ええ、そうですね。」


 鏡を見なくなったはず雅がそう答えれば、伊邪那美命は「そう」と屈託ない笑みを見せる。


()を愛しているの――?」


 そう加代子の姿で問われると、会いたいのに会えない胸苦しさが込み上げてきて、雅は伊邪那美命(加代子)の腕を取ると引き寄せ、抱き締める。


加代子(貴女)が欲しい・・・・・・。」


 切羽詰まったような声で呟けば「可哀想な子」と優しく抱き締められる。


「まるで、得られない雲を恋うて、鳴いて血を吐く時鳥(ほととぎす)のよう。」


 そして、啄むような口付けと共に「私を欲すればいい」と囁かれると、苦しさに藁をも掴む心地になって伊邪那美命を抱きしめる。


「まだ私の姿は加代子に見えるかしら――?」


 そこにはありのままの伊邪那美命がいて、「私に忠誠を誓いなさい」と微笑んでいた。


 そして、寒い冬の日が続き、白く降り積もる雪のように、恋も愛も憎しみも執着も、全てが無に覆い尽くされていった。


 愛なんて信じない――。


 信じたところで移ろっていく――。


 あんなに熱を持ち、苦しめられた唐草の紋は、今は定着し、伊邪那美命に触れられると甘美な快楽を連れくる。


 季節は移ろい、現世では再び花開く日も来るだろう。それでも悲しいかな、自分はその中にはもう戻れないのだと、伊邪那美命と肌を重ねながら自覚した。


 そして、時は巡り、三月。


 その日、雅が大鏡の覆いを取り払ったのは、その日が加代子と出会った日だと思い出したからではなく、可哀想な伊邪那美命のために加代子から瑠璃色の魂を抜き取り、同じ眷属にしてもらおうと思ったからだった。

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