愛宕神社
翌日、雅と加代子は愛宕神社の大鳥居の前にいた。
愛宕神社は全国各地にあり、一番のお社は京都の右京区にあるもので「愛宕さん」の愛称で火伏せの神様と知られているが、今日来たのは東京都港区ある愛宕神社だ。
この愛宕神社も、他の末社と同じく火産霊命が祀られている。江戸の町を災害と大火から護る神社として建立され、今も昔も愛されている神社だ。
そして、その参道にある長い「立身出世の階段」を前にして、加代子は「うわあ・・・・・・」と声を上げていた。
「もしかして、これ、登るの・・・・・・?」
げんなりとした声の加代子の前には、傾斜四十度、八十六段の階段は途中で踊り場もなく、梯子のように、目の前に立ちはだかる石段だった。
「登りたいですか?」
「登りたくないです。」
「そうでしょうねえ。」
即答する加代子に雅は「裏技があるんですよ」と言い、加代子の手をとる。雅は階段をそのまま過ぎて、交差点を曲がった。
「これで行くと近いですよ。」
そう言って五~六人も乗ったらいっぱいになりそうなエレベータを指す。
「エレベーターあるの?」
「ええ、便利ですよね。」
着いたのは愛宕神社のすぐ裏手で、NHKの放送博物館前の広場だった。
「昔はあの階段を登るのに本当に苦労しましたが、今は良い時代になりましたねえ。賽銭もICカードで出来ますし、なんならバーチャル参拝できますから。」
「それなんて、ハイテクな神社。」
「火産霊命が新しもの好きだからでしょうかね?」
立派な梅の脇を抜け、手水舎に向かうと、雅は「神門を潜ったらしばらく《良い》と言うまで口を利かないでください」と注意する。
丹塗の神門へと足を踏み入れると、辺りが急に静かになった。さっきまで確かにいたはずの他の参拝客の姿が消えてしまい、加代子は周りをキョロキョロする。
「おや、珍しい。雅信だ。」
不意にお社の中から声を掛けられて、加代子が振り返ったが、目の前は庇うように立つ雅の背中だった。
「お邪魔しております。先日は護符でお助け下さり、ありがとうございました。本日はそのお礼参りと、恐縮ではございますが、十枚ほど頂きに参りました。」
雅の肩越しに覗くと、オレンジ色の髪をみずらに結って、淡い梔子色の水干を着た、齢十一、二の男の子がニコニコとしている。
「護符くらい構わないよ。雅信の頼みだもの。ああ、でも、何か演奏してくれるっていうなら、おまけで何枚か余計に護符を渡すけど。」
「ありがとうございます。今日は演奏に加えて舞も一差し奉納しますので、彼女についても相談に乗っていただけませんか?」
それを聞くと火産霊命は夕陽のようなみずらをゆらゆらとさせて、赤い目をキラキラと輝かせた。しかし、加代子と目が合うと、コホンと目を逸らし、「そうさねえ。他ならぬ雅信の言う事だから、話くらいは聞いてもいいよ」と答える。
玉砂利の上に音もさせずにふわりと降り立った火産霊命は、雅と加代子の周りを一周しながら、オレンジ色の両の眼でしげしげと見た。
「それにしても、風変わりな娘を連れて来たもんだね。」
そして、加代子の手を取って裏表ひっくり返しながら見る。
「この子は淤加美神の愛子みたいじゃないか。珍しいこともあるものだ。淤加美神に引き渡すのが筋な気もするが・・・・・・。」
それに対して雅は静かに首を横に振ると、自らの手も火産霊命に見せる。火産霊命はそれを見ると「やれやれ」と言った顔をした。
「私とも縁のある方と思ってきたのですが。せっかく結んでいただいた縁ですので、こちらに娶って大切にしたいと思っています。」
雅がどこまで本気で言っているのか分からなかったが、加代子は約束通り無言を通す。
「なるほど、護符はついでで、そっちが本題か。まあ、怒れる淤加美神が目に浮かぶけれど、力づくでとりなすことは出来るだろう。だが、その《呪》は難しいな。」
果たしてそれは「とりなす」なのかと端で聞いていた加代子は思ったが、まだ口を利いて良いと言われてなかったから、口に手をあてがい我慢する。
「その娘の《呪》を祓おうとなると、おもうさまが太古の昔に入られた《禊の池》に頭まで浸れば幾ばくか薄れるかもしれないけれど、それでは対症療法だ。根本的な解決ならおたあさまにお願いする事案だよ。」
「伊邪那美命でいらっしゃいますか・・・・・・。」
「そう。おたあさまはそういう《呪》に精通していらっしゃるから、何処に故のある《呪》かもお教えくださる。《根の国》を通って行けばいい。」
火産霊命は簡単だと言ったが、険しい表情になると雅は首を横に降った。
「それは異な事を仰る。《根の国》を通れば、人神であるこの身ですら無事では済まないでしょう? ましてや彼女は一本の葦に過ぎません。まだ生者である彼女も含めて、行き帰りについても保証していただかないと。櫛に転じられてそのままというのは困りますから。」
すると、火産霊命はむうっと口を突き出した。
「ほんに雅信は賢しいのう。そういうところは嫌いじゃ。」
拗ねたように口を尖らせながらも、「こっちに参れ」と二人を社の中へ招き入れる。
雅は加代子が本殿の中に入ったのを確認してから、「もう話してもいいですよ」と言った。
「雅信、何をしている。早う。」
「はいはい、承知しました。」
口を利いていいと言われたものの、火産霊命の後ろについて進む廊下は、厳かな雰囲気だったから言葉を発する気になれない。
やがて榊の飾られた祭壇がある部屋に通されると、「もっと近う」と火産霊命は加代子を手招いた。
「それで、そなたは何という?」
本名か、字名か。どちらを答えればいいか分からずに雅にちらりと視線を送ると「本名でいいですよ」と言われる。
「島崎 加代子です。」
恐る恐る名乗れば、火産霊命は人懐っこい笑顔で加代子の手を引いた。
「加代子、か。代々加わり栄えるようにとは、随分野心家な名付け親だのう。」
そう言いながら、漢字でどう書くのか教えたわけでもないのに、すらすらと護符に名を記す。
「字名もあるのか?」
「華世と申します。」
「華の世とは。ははあん、雅信、お前がつけたのだな?」
火産霊命はそう言って笑うと、それも護符に字名も認める。
「ほれ、これを持っておれ。」
加代子が受け取ると護符はひとりでに折り畳まり転じて蝶となる。
「三回まではそれがそなたの身代わりになる。最後は我が炎で浄化される。そしたら、身代わりの護符の役目は仕舞いじゃ。」
そう言いながら、今度は雅のために護符を作り手渡す。そちらは蟷螂に転じた。
「蝶を喰らうし、大鎌持ちだし、お前にぴったりじゃ。」
悪戯っ子ぽくにやりと笑う火産霊命に雅は苦笑いを浮かべながらも「ありがたく頂戴します」と答える。
「さて、今日は仕事もしたし、一体、何を弾いてもらおうかの。加代子も何か出来るかえ?」
加代子が首を横に振ると、「そうか、それは残念だの。雅信は大抵の芸事はできるから習うと良い。」と言う。
「春を寿ぐ候に、一曲、聴かせてもらいたいのう。」
雅は「御心のままに」と返す。加代子は驚いて雅を見たが、視線をそらされた。どうやら楽器を習うことは決定事項みたいだ。
加代子は憤然としつつ、出かける前に言われていたようにネックレスを外すとやや乱暴に雅に腕を突き出す。雅は器用に目だけで笑うと、それを受け取り、青竹を横笛の姿にさせる。
その様子に火産霊命は目を輝かせた。雅は口を笛にあてがい、ひょうと試し吹きする。
「相変わらず、良い音じゃ。」
音楽は五段階評価で四だから褒められたものではないし、上手く評することなど出来ないが、澄んだ音はなるほど字名を「凛」と付けるわけである。
火産霊命も相好を崩して、「早う、早う」と急かす。
雅は調子を整えると、そのまま青海波を独奏した。
静けな水面に小石をひとつ投じて波紋が次々広がるような青海波の調べが辺りに広がる。加代子はその調べに不思議と懐かしさを覚えた。
暗い部屋の中、月明かりに照らされて、雅の笛を奏でる姿が脳裏に浮かぶ。
そんなものは見た覚えはないのに――。
それどころか、どうしてか胸がきゅうっと引き絞られるように苦しくなって、ほろほろと涙がこぼれてきた。
なぜ、こんなにも哀しいのだろう――。
演奏が終わると、火産霊命は「その笛は博雅の《葉二つ》に引けを取らぬ魂振りの笛に育ったのう」と、言った。
「今一度、博雅が《青竹》を吹いたなら、その成長を喜ぶだろうよ。音楽馬鹿とは言え、一千年も語られる大馬鹿はなかなかおらんしの。」
雅もくすくす笑い「そうですね」と相槌を打つ。加代子は零れてくる涙を拭うので精一杯だ。
「加代子さん、大丈夫ですか?」
「だべびだい・・・・・・。」
酷い顔をしていると自覚しているが、涙が止まらない。
「なんじゃ、共鳴率が異様に高いのう。」
そう言うと火産霊命は指先にほわんと小さな光を灯して、泣き顔の加代子に触れた。
すると、加代子の目はトロンとしはじめる。
「加代子は人の身であろ? しばし休め。」
火産霊命の声に加代子はすっと意識を手放す。雅は眠ってしまった加代子の身体を抱き抱えるようにして支えた。すうすうと寝息を立てる加代子を抱えながら、雅はその顔にかかった髪を払う。
「余程、大事と見える。」
ひんやりと冷たい声に変わった火産霊神に、雅は「ええ、大事ですよ」と答えた。
ふとした表情や仕草が、記憶に残る琴子と被る。
火産霊命は雅の手を指差した。
「加代子の手に結ばれておるのは二つある。」
ひとつは《淤加美神》との縁。
ひとつは《二世の契り》の縁。
「二世の契りの方のは、かなり古く、雅信、お主に繋がっておる。お主が二世の契りを結んだのが、ただ一人なら、加代子は琴子で間違いなかろう。」
火産霊命の言葉に雅は目を見開いた。
人から転じた雅に読み解けるのは、今の世の加代子の事だけ。前の世や来たる世の事は見えない。しかし、漠然と感じていた感覚が本物であると知ると、雅は感無量になった。
「そうですか、琴子ですか・・・・・・。」
そんな事は加代子は知らなくていい。それでも雅は再びこうして会えた事が嬉しくて堪らなかった。
「《彼女についての相談》はこれで全部か? 舞を見たいのだが。」
主張のぶれない火産霊命に雅はふっと笑ったが、「もう一つだけ」と言う。
火産霊命は口を尖らせて、「今日はもう嫌だ」とごねる。
「今日じゃなくていいですよ。祝言の際にでも場所をお貸しいただければ。」
その言葉に火産霊命は呆気に取られ、それから「これまた難儀な男に好かれたのう」と、すうすう眠っている加代子を不憫そうな目で見た。
◇
「え、もう、夕方?」
愛宕神社に入ったのは朝だったのに、ぐっすり眠っていたようで、丹塗の神門を出たら夕方だった。それに、まだ疲れが残っているのか、どうも足元が覚束無い。
「加代子さん、大丈夫ですか?」
「んー、なんかフラフラしちゃって。」
「あの門から奥は神域ですから、内と外では時の流れが違うんですよ。おそらくあれから三日ぐらい経ってるはずです。」
その言葉に、お腹の虫がぐうと鳴いて返事する。
「三日も飲まず食わずの状態ってこと?」
「ええ、そうです。なんなら、睡眠時間も不足気味ですから、無理はしないでください。」
そういうと雅はなんでもない事のように、加代子をお姫様抱っこする。そして、「しっかり捕まっててくださいね」と言うとトトンと反動を付けて空へと駆け出した。
あんなに聳えて見えた「出世の階段」をひとっ飛びに降りる。そして、トトン、トトンとビルの壁を伝って、屋上を伝っていく。その度に加代子はバンジージャンプにでもしてるような心地だった。
そうだった、この男、死神なんだっけ。
確かにこの調子なら、家までひとっ飛びなのだろうが、物凄く寿命が縮む気がしてならない。
一方の雅は火産霊命との交渉が上手くいった事が上機嫌なようで、「今度は東京タワーに行きましょうか。ガラス越しで見るよりも、夜景もずっと迫力がありますよ」と、愛宕ヒルズの天辺に立つと加代子に微笑んだ。
これは吊り橋効果なのだろうか。
雅の屈託ない笑顔に、加代子の心臓は余計に跳ねる。
加代子は雅の首に回した腕に力を入れると
しっかりと抱きつき、「また今度ね」と呟いた。
夕陽はビルの合間に沈み、空は藍色に染まっていく。それなのに加代子の頬は夕焼け色に染まったままだった。
次の更新は私用のため、
5月25日を予定しています。




