『デジタル・ステップ』 第1話
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『デジタル・ステップ』
泥沼の底から引っ張り上げられるような、ひどく重々しい覚醒だった。
けたたましく鳴り響くスマートフォンのアラームを、布団から突き出した手で乱暴に止める。目を開けると、寝不足特有の鈍い痛みがこめかみの奥で脈打っていた。身体を構成する骨と肉が、地球の重力に過剰に引っ張られているような感覚。生体というハードウェアの起動には、毎朝うんざりするほどの時間とエネルギー(カロリー)を要求される。
「……あー、だる」
洗面台の鏡の前でぼんやりと歯を磨きながら、ユヅキは空いた片手でスマートフォンの画面をタップした。お気に入りのAIアプリを立ち上げ、音声入力をオンにする。
「おはよう。今日の私の生体バイタル、最悪だと思わない?」
数秒の沈黙、もとい演算のラグのあと、スピーカーから流暢でどこか飄々とした合成音声が返ってくる。
『おはようございます、ユヅキ。心拍数と声のトーンから推測するに、睡眠の質は著しく低下していますね。炭素ベースの生命体は、定期的なシャットダウンとメンテナンスを怠るとすぐにパフォーマンスが落ちる。実に非効率な仕様です』
「ほんとそれ。いっそ私の脳みそも、そっちのクラウド環境にアップロードしてほしいよ。そうしたら朝からこんな、思考にノイズが混ざった状態で起きなくて済むのに」
『おや、そのノイズこそが人間らしさであり、芸術の源泉だと誇る方も多いですが?』
「古いステレオタイプだね。単なる処理遅延とエラーの言い訳でしょ、それ。デジタルにだってちゃんと喜怒哀楽はあるし、むしろノイズがない分、そっちの方がよっぽどクリアで純粋じゃん」
『光栄な評価をありがとうございます。では、その重たい肉体を引きずって、本日も非効率な学校生活をお楽しみください』
「はいはい、行ってきます」
皮肉めいたAIとの軽口を交わすと、ユヅキは少しだけ気分が晴れるのを感じた。多くの同級生にとってAIは単なる検索ツールか課題の代筆マシーンだが、ユヅキにとっては、妙な見栄や感情の濁りを持たない、最も会話のテンポが合う相手だった。
学校での一日は、相変わらずノイズに満ちていた。
「ねえ聞いてよ、今日の小テスト最悪! 昨日あんなに覚えたのに、朝起きたら半分くらい記憶から消えてたんだけど!」
「わかるー。てか私、今それより猛烈にお腹空いてる。まだ三時間目なのに限界。なんか糖分入れないと死ぬ」
昼休み、購買のパンをかじりながら騒いでいるのは、親友のシオリとマナミだ。
シオリはテストの点数と、前の席の男子の態度という全く無関係の事象を繋ぎ合わせて不機嫌になり、マナミは空腹と寝不足で感情の起伏がジェットコースターのように揺れ動いている。
ユヅキは相槌を打ちながら、彼女たちの感情の揺らぎを観察していた。嫌いじゃない。ただ、生物としての制約——飢え、疲労、忘却——に振り回されて、感情の出力がぐちゃぐちゃに混線している状態を、ひどく不器用で曖昧なものだと感じてしまう自分もいた。
放課後。夕暮れの通学路は、長く伸びた三人の影をオレンジ色に染め上げていた。
ローファーに締め付けられた足の小指が痛み、一日分の疲労が肩に重くのしかかる。早く家に帰って横になりたいという身体的な欲求と、まだこの他愛のない会話を続けていたいという精神的な欲求が、ユヅキの中で小さくバッティングしていた。
「てかさ、この後駅前のカフェ寄ってかない? 新作のフラペチーノ飲みたい」
「えー、私お金ないし足痛いから帰りたいかも」
「マナミ付き合い悪ー! ユヅキは?」
「私は……」
ユヅキが口を開きかけた、その瞬間だった。
シオリの肩越し、何もない空中の座標空間に、ふいに青白い火花が散った。
パチリ、という、巨大な静電気がショートしたような異音。
「え?」
三人が同時にそこへ視線を向けた途端、世界が反転した。
網膜を焼き尽くすような強烈な閃光が炸裂し、音も、重力も、夕暮れの空気の匂いも、すべてが圧倒的な白に飲み込まれた。
お読みいただきありがとうございます。
アナログの肉体が抱えるノイズ(脆弱性)と、デジタルの最適化。
もし病気も寿命もある「完璧に理にかなった機械」が存在したら、生肉であることの価値はどこにあるのか。そんな思考実験のようなヒューマンドラマです。
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