表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新世界へ  作者: 戸雨 のる
誤-5-
22/36

サクラ

 生暖かい風が、廊下を吹き抜ける。私は樹の温もりが残る手に、少しだけ力を込めた。

 樹は優しい。私の罪を認めないほどに、優しい。

 樹が家族を失ったあの日。桜の開花はまだ遠く、春にしては涼しかったのを覚えている。

 はじめに連絡が入ったのは、我が家の電話だった。あの日は珍しく父が家にいて、私は浮き足立っていて。進めようと思って広げていた宿題が、手に付かなかったのも仕方がない。久々に、樹が遊びに来る予定だったのだ。

 だから、最初は樹からの電話だろうと思っていた。予定より早く着きそうな日は、律儀に電話をかけてくる。いつもそう。樹は几帳面なところがあった。悪く言えば、私たちの顔色を窺う癖があった、と言えるのかもしれない。

 十回に満たない呼び出し音が止み、室内に父の声が響く。最初は朗らかに。けれど徐々に、声色が変わっていった。沈むように、落ちるように。理由は判らない。ただ、電話に出たのが私でなくて良かったとは、思った。卑怯者らしく。

 この頃までの樹は、今よりも笑うことが多かった。ずっとにこにこと微笑んでいて、私はその柔らかな笑顔が好きで。

 今はもう、見ることは適わないけれど。

 樹には年の離れた妹が出来るはずだった。まだ見ぬ妹を想像し、街中で赤ちゃんを見かけては顔を綻ばせ。会うたび眩しく感じていた、穏やかな優しい笑顔。あの日に失われた、樹の本当の笑顔。

 だから私は嫉妬していた。今まで樹の一番近くにいたのは、樹の笑顔が向けられる相手は。私、だったのだから。

 妹なんて生まれなければ良い。そんな風に願ってしまった。嫉妬に取り付かれた最低な私の、悪意に満ちた最低な願い。

 そしてその願いは、叶ってしまったのだ。別の犠牲を払うことによって。対価はあまりにも大きく、私の罪はあまりにも大きく。私が樹から家族を奪ったのだ。願わなければ、望まなければ。私が、罪を犯さなければ。

 失わずに済んだのかもしれない。失わせずに済んだのかもしれない。

 感情には力がある。負の感情の塊、私の悪意の塊は、樹の家族に襲いかかってしまった。本当は無関係なのかもしれない。けれど、私にはそうは思えない。私の罪だとしか、思えない。

 電話を受けた父は、急いで出かける準備をするよう私に告げた。何か良からぬ事態が待っている。それだけは、その時の私にも判った。このまま待っていても樹は来ないだろうことも、判った。

 私は出掛ける準備をしながら、どこに向かうのか訊ねた。父の答えは私の予感を肯定するようで、残るべきか戸惑うには充分で。

 病院には、良い思い出がない。私が母を失った場所。原罪の在処。けれどそこに、樹がいる。私を照らす太陽がいる。

 見たくないものを見るのは嫌だ。知りたくないことを知るのは嫌だ。私の罪に気付くのは嫌だ。けれど光を失うのは。樹の笑顔を失うのは。もっとずっと、嫌だった。

 マンションを出てすぐにタクシーを拾い、私たちは病院に向かった。窓の外は薄曇り。今にも雨が降り出しそうな、陰鬱な空模様。街中を歩く人は疎らで、喧噪からは程遠く。私も、父も喋らない。車の駆動音しか覚えていない。

 病院に着きタクシーから降りると、じっとりとした雨の気配が待っていた。生温い風が素肌を撫でる。覗いていたはずの太陽が、完全に姿を隠していた。

 父は受付に寄ってから行くと言うので、私は先に病院内へと足を踏み入れた。廊下に響くのは、落ち着かない足音のみで。広く清潔な廊下を進み、指定された部屋へと向かう。走ったせいか、予感に蝕まれているせいか。私の心臓は激しい鼓動を響かせていた。確かな絶望と、仄かな歓喜によって。

 僅かであれ、否定は出来ない。暗い、悪意に満ちた感情。まだ生まれていない樹の妹に対する嫉妬心。人の死を願うという、罪。

 それがどれほど醜いものなのか、今なら判る。

 私の記憶は、ここまでだ。この後、全てが崩壊したのは知っている。けれど、前後の記憶は曖昧でしかない。

 私は自分の罪を封印する代わりに、自らの記憶を差し出したのだ。

 樹を手に入れるために樹の家族を差し出し、自らの罪を無に帰すために前後の記憶を手放した。私はひどく、罪深い。だから。樹と並ぶこと自体が、私には赦されていない。

 階段を昇る樹を、じっと見つめた。私には、資格がない。立つことも進むことも、樹の側にいることも。

「……ごめん、なさい」

 今更懺悔を乞うてもどうしようもない。今更悪意をなかったことになんて出来やしない。今更、樹の家族を生き返らせることなんて、出来やしない。

 樹は足を止め、私を見下ろす。困ったようなはにかんだような、曖昧な笑顔を浮かべて。

 思わず目を逸らしていた。曖昧な風が頬を撫でる。湿り気を撒き散らし、廊下を吹き抜けていく。

「何でサクラが謝るの?」

 踊場で、人影が踊っている。

「私のせいで、イツキが……」

 ゆらゆらと揺らめき、徐々に近付いてくる。私に。

「……だからもう、構わないで」

 私を、迎えに来たのだろう。罪を償わなければいけないと、伝えに来たのだろう。風が溜まり、形を成す。影になり、陰になり。

 私の犯した罪を咎める。

 ゆっくりと、まるで蜃気楼のように形を成すそれは、私のよく知っている姿で。

「サクラ、一緒に逃げよう」

 にっこりとほほ笑むその顔は、樹によく似ていて。

「……何で?」

 手には小さな子供の姿。生まれ出でることの叶わなかった、妹の姿。

「サクラと一緒にいたいから」

 子供をあやしながら徐々に近付いてくる影は、私の罪に気付いているのだろう。瞳はまっすぐ私を射抜き、迷いのない動きで寄ってくる。樹の存在には目もくれず。正の感情と負の感情。どうしても、負の感情の方が大きい。愛しい息子より、憎い私の方が、きっと。

 私の視線に気付いたのか、樹が階段の上を向く。背後に迫る影を見て、身体を震わせた。失ったはずの家族の面影に、樹はなぜか後退さる。

「おばさん……」

 ここは、混沌だ。死が溢れ、生を駆逐する。

「母さん」

 境目に立つ私たちは、死の世界に迷い込んでいるのかもしれない。目の前に迫る樹の母親から、私は目を背けた。

 直視なんて出来るはずがない。私の罪は、重いのだから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ