サクラ
保健室には誰もいない。いるはずだと思っていた樹の姿は見当たらず、窓が大きく開いていた。吹き込む風によってカーテンが揺れている。揺らめく隙間から校庭が見える。見えてしまう。
校庭の様子は目に入れたくない。どうしても現実だと思いたくない。受け止めたくない。私は、ひどく弱い。
「……イツキ」
もしもこのまま樹まで失うことになってしまったら、私はどうすればいいのだろう。対価を支払えないほどに大きなものを望んでしまったから、私は罰を受けたのだろうか。
私はどうなっても構わない。樹は、樹だけは。
かたん、と、扉が音を立てた。私はびくりと身体を強張らせ、薬品棚の方へと目を向ける。もしも殺意に取り憑かれた何者かが入ってくるのであれば、棚の中にある適当な薬瓶を投げつけよう。
私なんかが助かろうと足掻くのは、罪でしかない。けれど。ここに来たからには。せめてもう一度だけでも、樹に会いたいと願う。
私の意志とは相反しまともに動いてくれない足を、強引に動かした。ゆっくりと、薬品棚に近付く。棚に手が届く距離に移動してきたのとほぼ同時に、保健室の扉が開かれた。
「サクラ……?」
聞きなれた優しい声。聞きたいと願っていた声。私が今一番会いたかった人が、そこには立っていた。
「イ、イツキ」
先程まで動きの鈍かった足が勝手に動く。樹に近寄り飛びつこうとして、そのまま止まってしまった。樹の制服が血で濡れていたのだ。何があったのかは、私には判らないけれど。
私の怪訝な表情から何かを察したらしい。樹が目を伏せ、呟いた。
「……仕方が、なかったんだ。僕はまだ、死ねないから」
殺意が充満する校舎内での自己防衛。それは、誰にも咎めることの出来ない罪。樹の手が血に染まったのは、私の欲張りな望みのせいなのだから。
樹を傷付けないことが、私の望み。手に入れることではなく、奪われないことではなく。
もしも願いが叶うのなら。私のせいで樹を傷付けることは、もう。
「イツキは、悪くないよ」
もうこれ以上、死を経験させるのは。
「悪いのは、私なんだよ」
もう樹から、何も奪わないで欲しい。悪いのは全て私なのだから。もうこれ以上触れようとしないから。不相応な望みは捨てるから。
「私なの……」
私なんかのせいで、樹を、苦しめないでください。
頬を伝うのは涙か、血液か。生暖かい液体が私の頬を濡らしている。困ったように手を伸ばす樹を振り払い、私は自分の手で拭った。
手の甲が、赤く染まる。
「……サクラ、大丈夫だよ」
樹の身体を濡らす液体が、滴っている。
「僕が付いてるから」
ぽたり、ぽたり。床に染み。
「僕たち以外にも無事な人、きっと、まだいるから」
上履きを赤く染め。
「サクラを探してたんだ。良かった、見付かって」
広がっていくのは、罪の意識。私の存在が樹を不幸にしているという、罪悪感。私は首を横に振り、樹の言葉を遮った。
これ以上、高望みなんてしてはいけない。樹がいる。樹が生きている。それ以上のことを、何故、私は望んでしまったのだろう。家族を失った弱みに付け込んで。恋人という肩書を手に入れて。家族という免罪符を手に入れて。
あの事件だって、本当は。
「私に構わないで」
私のせいだ。私が、あんな我儘を言わなければ。樹から家族を奪ったのは私だ。全てを奪ったのは私だ。
今のこの状況だって、きっと。私のせいなのだ。




