第9話 頼られる人可愛い人
朝。共有エントランスホール。
大きなガラス窓の向こうでは、中庭の植栽が風に揺れている。
コーヒーメーカーの音。
トースターの電子音。
誰かが淹れたスープの香り。
住人たちにとって、いつもの朝だった。
そして。
上杉京子にとっては、少しだけ慣れ始めた朝でもあった。
「お・おはようございます!」
「おはようございます」
「おはよう~」
「Good Morning~」
「おはよう・ございます」
「おっは~♪」
ミックス全員から返事が返ってくる。
京子は一瞬固まった。
だが。
前日のように逃げ出したりはしない。
少しだけ成長した。
たぶん。
きっと。
おそらく。
「よし」
小さく頷く。
大丈夫。
平常心。
私はただの住人。
相手もただの住人。
そう言い聞かせる。
すると大地が笑った。
「京子さん、今日の自己暗示何回目です?」
「聞かないでください」
「やっぱりしてたんだ」
朝から笑い声が広がった。
コーヒーをボトル淹れる。
そしてドアへ向かう。
「行ってきます」
元気よく出ていった。
数秒後。
戻ってきた。
「どうしたんですか?」
健斗が聞く。
京子は真顔だった。
「スマホが無かったです…。」
全員笑う。
再び出ていく。
数秒後。
また戻ってきた。
「今度は何ですか?」
蘭が聞く。
「定期券……が…無かった。」
全員爆笑。
三回目。
出ていく。
五分後。
また戻る。
「まさか」
学が言う。
京子は静かに答えた。
「……会社のパソコンと自宅のパソコン間違えていました…。」
「仕事できる人ですよね?」
「仕事はできます」
即答だった。
「生活能力と仕事能力は別です」
大地が腹を抱えて笑う。
★
会社。
大型案件は本格的に動き始めていた。
会議。
レビュー。
資料作成。
ベンダー調整。
利用部門との折衝。
京子の一日は分刻みだった。
昼過ぎ。
鉄雄がコーヒーとパンを手にやってくる。
「京さん」
「何」
「昼飯食べました?」
京子は止まった。
「あ」
鉄雄がため息をつく。
「またですか」
「忘れてた」
「案件始まると毎回ですよね…これ食べて下さい!」
京子は苦笑した。
気が付けば午後二時を過ぎている。
画面の隅には未読メール六十八件。
Teams通知三十四件。
頭の中はシステム構成とスケジュールで埋まっていた。
「鉄」
「はい」
「お母さんみたい」
「知ってます」
即答だった。
「…ありがと」
★
その日の午後。
会社。
大型案件レビュー。
利用部門。
ベンダー。
システム部。
全員が集まる。
京子は淡々と説明していた。
「想定障害は三十二パターン」
「こちらが回避策です」
「運用負荷増加はありません」
質問が飛ぶ。
すべて即回答。
誰も反論できない。
会議終了後。
利用部門の担当者が呟いた。
「上杉さん本当に凄いですね」
鉄雄が苦笑する。
「そう見えるでしょう?」
「見える?」
「凄く忘れ物しますよ?」
担当者が固まった。
夜。
美都乃荘。
帰宅した京子は管理人のゆきさんに呼び止められた。
「京子ちゃん」
「はい」
「プリンターおかしいの」
「見ます」
当然のように引き受ける。
数分後。
復旧。
「ありがとう!凄く助かったわぁ~」
「いえいえ大した事じゃないんで(笑)」
あまりスマホを手にしないゆきさんがスマホを見ていたので声を掛けた。
「どうしたんですか?」
京子が聞く。
「あのねぇ」
ゆきはスマホを見せた。
「孫から写真が送られてきたんだけど開けないの」
「ああ」
京子は笑った。
「見せてください」
椅子に座る。
スマホを受け取る。
画面を確認する。
原因はすぐ分かった。
容量不足だった。
「少し整理しますね」
数分後。
「はい」
写真が表示された。
そこには運動会で笑う男の子。
ゆきの顔がぱっと明るくなる。
「見れた!」
「よかったですね」
周囲も笑顔になる。
学はその様子を見ていた。
自然だった。
誰かが困っていた。
だから助ける。
それだけ。
特別な顔でもない。
褒めてほしそうでもない。
本当に当たり前のようだった。
本当にそれだけ。
俺達の困り事。
管理人の困り事。
京子はいつも自然に手を貸す。
見返りも求めない。
自慢もしない。
当然のようにやる。
学はゆきさんの笑顔を見ていた。
写真を見られたことが、そんなに嬉しかったのかと思うほど嬉しそうだった。
京子はそれを見て微笑んでいる。
それだけ。
本当にそれだけだった。
自分が感謝されることよりも。
相手が喜んでいることの方が嬉しそうだった。
学は不思議な気持ちになる。
芸能界にいると、
「ありがとう」
と言われることは多い。
でも。
見返りを求めず当然のように人を助ける人は意外と少ない。
だからこそ。
京子はみんなに頼られているのだろう。
「本当に頼られてるな」
学が呟いた。
すると青木も頷く。
「本人、自覚ないんでしょうね」
「ないだろうな」
「絶対ないですね」
そんな話をしていると。
京子がエントランスホールへ入ってきた。
「帰りました~」
「お疲れ様です」
学が言う。
「ありがとうございます学君達もお疲れ様です~」
そう言いながら机の間を通った瞬間。
ガタン。
椅子の脚につまずいた。
「あっ」
バランスを崩す。
学が慌てて支える。
「大丈夫ですか?」
「いたた……」
本人は普通。
だが。
学。
蘭。
大地。
健斗。
青木。
全員同じことを思った。
仕事は完璧。
青木は苦笑した。
会議で見た京子は別人だった。
大勢の前で堂々と説明し。
誰よりも先に問題点を見つけ。
誰よりも早く解決策を出す。
仕事をしている時は本当に格好いい。
だが。
朝はスマホを忘れ。
電車の定期券を忘れ。
パソコンまで間違えた。
今は椅子につまずいている。
その落差が凄かった。
「なんかさ」
大地が笑う。
「完璧な人だと思ってた」
「分かる」
健斗も頷いた。
「でも違うよね」
「うん」
蘭が笑う。
「親近感あるよねぇ~」
学も苦笑した。
「可愛い人だな」
その瞬間。
「京子さん」
「はい?」
「可愛いですよね」
健斗がぽろっと言った。
京子停止。
完全停止。
「今なんて?」
「可愛いって」
「違います」
即答。
「違わないです」
蘭が笑う。
「そんなこと言われたの何年ぶりだろう……」
京子は遠い目をした。
その反応に。
全員吹き出した。
「そこ否定しないんだ」
大地が笑う。
「いや否定しましたよ!?」
「何年ぶりって考えてたじゃん」
「違う違う違う!」
京子は必死だった。
顔は真っ赤だった。
耳まで赤い。
学は思わず笑う。
こういうところだ。
仕事中は格好いい。
住人から頼られている。
困っている人を助ける。
なのに。
褒められると途端に弱い。
そのギャップが。
とても可愛いと思った。
「でも本当ですよ」
学がそう言うと。
京子は完全に固まった。
再停止。
顔が真っ赤になる。
「やめてください」
「本心です」
大地まで頷く。
「頼れて可愛い人って最強ですよ」
「やめてぇぇぇぇ!」
エントランスホールに笑い声が響く。
その後。
部屋へ戻った京子はベッドへ倒れ込んだ。
「可愛いって言われた……」
枕へ顔を埋める。
「推しに……」
さらに埋まる。
「推しに可愛いって言われた……」
限界だった。
壁の向こうでは。
「あははは!」
いつもの笑い声。
京子は天井を見上げた。
少し前まで。
推しは遠い存在だった。
画面の向こう。
ステージの上。
雲の上の人。
けれど今は違う。
同じアパートに住んでいて。
同じ朝を過ごして。
同じ場所で笑っている。
京子は小さく笑った。
「変なの」
そして布団を頭まで被る。
顔はまだ真っ赤だった。
「やっぱり今日も寝られない……」
壁の向こうから聞こえる笑い声。
少し前までは。
ただの推しだった。
ライブ会場で見上げる人達だった。
遠くて。
眩しくて。
手の届かない存在だった。
でも今は。
「おはようございます」
と挨拶をして。
「行ってきます」
と言って出掛けて。
「お疲れ様です」
と言葉を交わす。
同じ場所で暮らす人達になった。
京子はそっと笑った。
推し。
だけどそれだけじゃない。
大切な隣人。
そんな存在になり始めていた。
そして。
「やっぱり今日も寝られない……って眠るんだけど(笑)」
布団の中から聞こえた声に。
壁の向こうの笑い声が重なった。
美都乃荘の夜は今日も賑やかだった。




