第1話(前編)「17歳の元日」 1774年1月1日~1月10日
1774年1月1日。
ハートフォードシャーにあるグレイミア館では、夜明け前から雪が降っていた。
灰色の空から細かな雪が絶え間なく落ち、中央棟から左右へ伸びる翼棟の屋根を白く覆っている。正面の庭園では葉を落とした木々が風を受けて揺れ、遠くの農地も白い雪の下に沈んでいた。朝の冷気は重く、人の姿もほとんど見えない。
グレイミア館は、ヘイル家の先祖が何代にもわたって増築してきた大きな屋敷だった。石造りの外壁、広い玄関、長い廊下、高い天井を持つ部屋が、男爵家の長い歴史を今に伝えている。
ただし、西翼棟の半分は使われていなかった。冬場は部屋を閉め、暖炉にも火を入れない。石炭と薪を節約するためだ。
外から眺めれば堂々たる貴族の館である。しかし中へ入れば、暮らしが以前より少しずつ縮んでいることが分かった。
その朝、17歳になったエドワード・ヘイルは家族と朝食を取っていた。
食堂の暖炉では薪が燃え、湿った木が焦げる匂いがかすかに漂っている。窓ガラスの下には白い霜が付き、庭の景色をぼかしていた。食卓にはパン、卵、温かな飲み物、肉料理が並んでいる。ただ、肉の量は以前より明らかに減っていた。
母アンが息子を見て笑った。
「17歳、おめでとう。来年になれば、もう子供とは言わせないわね」
エドワードはパンをちぎりながら答えた。
「今年でも十分だと思いますが」
13歳の妹エリザベスが笑った。
「お兄様は昨日と何も変わっていないわ」
エドワードもすぐに返した。
「お前だって明日になって急に美人になるわけじゃない」
エリザベスは眉を上げた。
「失礼ね」
母が苦笑した。
食卓の上座では、父リチャード・ヘイル、第5代グレイミア男爵が新聞を読んでいた。
46歳である。肩幅が広く、若いころには乗馬と狩猟で名を知られた。今も背筋は伸び、服装にも隙がない。髪には少し白いものが混じり始めているが、身なりだけを見れば地方の名門貴族として何の不足もなかった。
しかしエドワードは、父ではなく食卓を見ていた。
ここ数年で、銀器が少しずつ減っている。幼いころには当然のように並んでいた銀の皿や匙の一部が消え、代わりに古びた食器が使われることも増えていた。
厩舎の馬も減った。以前は6頭いた乗用馬が、いまは3頭しかいない。庭師や使用人の人数も減っている。
エドワードは気付いていた。
だが父は何も説明しなかった。母も自分から話そうとはしない。
それでも、この朝だけは誕生日らしく静かに終わるものと思っていた。
午前10時を少し回ったころ、執事が食堂へ入ってきた。
顔にはいつもの落ち着きがあったが、歩き方がわずかに固い。父のそばまで進むと、声を落とした。
「閣下。ロンドンからブラッドリー氏がお見えです」
新聞をめくっていた父の手が止まった。
「今日は元日だぞ」
父が新聞越しに言った。
執事は姿勢を崩さなかった。
「承知しております。しかし、どうしても本日中にお話ししたいとのことでございます」
父はしばらく黙っていた。薪のはぜる音だけが食堂に響いた。
やがて新聞を畳んだ。
「書斎へ通せ」
それだけ言って立ち上がった。
母の顔から笑みが消えた。
エドワードは、その変化を見逃さなかった。
「ブラッドリーとは誰です?」
エドワードが尋ねると、母は皿へ視線を落としたまま答えた。
「お父様のお知り合いよ」
「どんな?」
母は顔を上げた。
「エドワード」
声が少し強くなった。
「今日はあなたの誕生日でしょう。余計なことを考えないの」
その答えで十分だった。
余計なことだからこそ、知る必要がある。
◇ ◇ ◇
午後になると、雪は小降りになった。
屋敷の長い廊下には冬の薄い光が差し込み、石床から冷気が上がっていた。
エドワードは書斎前の廊下でブラッドリーとすれ違った。
50歳ほどの男だった。上等だが地味な黒い服を着ている。装飾は少なく、指にも目立つ宝石はない。貴族には見えなかった。顔つきと手にした革鞄から、法律家か金融業者ではないかとエドワードは考えた。
男はエドワードを見ると足を止めた。
「ヘイル様ですな」
エドワードも立ち止まった。
「そうですが」
ブラッドリーは丁寧に頭を下げた。
「お誕生日と伺いました。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ブラッドリーは顔を上げると、廊下の奥、高い天井、壁に並ぶ先祖の肖像画へ順に目を向けた。
エドワードには、その視線が屋敷を値踏みしているように見えた。
「立派なお屋敷です」
「先祖が建てたものです」
ブラッドリーは小さくうなずいた。
「ええ。よく存じています」
それ以上は何も言わず、執事に案内されて玄関の方へ歩いていった。
エドワードは男の背中を見送ってから、書斎の扉を開けた。
室内は暖かかった。暖炉には薪が燃え、乾いた熱が頬に当たる。焦げた薪と紙の匂いが混じっていた。
父は机の前に立っていた。机上には数枚の紙が残されている。
エドワードが入ると、父は不機嫌そうに目を向けた。
「何だ」
エドワードは扉を閉めた。
「今の男は何者です?」
父は短く答えた。
「お前には関係ない」
「この家に関係する人間なら、いずれ僕にも関係します」
父が顔を上げた。
「まだ17歳だ」
エドワードは父から目をそらさなかった。
「だから今日聞いておきたいのです」
「聞いてどうする」
「それは聞いてから考えます」
父はしばらく息子を見ていた。
怒鳴られるかもしれないとエドワードは思った。
しかし父は怒鳴らなかった。
「座れ」
エドワードは父の向かい側へ座った。
父は机の上から紙を1枚取った。
「ブラッドリーは債権者の代理人だ」
エドワードはすぐに聞いた。
「借金ですか」
「そうだ」
「いくらです?」
父の顔が険しくなった。
「子供が聞く話ではない」
エドワードは静かに返した。
「父上が亡くなれば、僕がこの家を継ぎます」
父の眉が動いた。
「縁起でもないことを言うな」
「爵位だけ継いで、借金は知りませんでしたでは済まないでしょう」
部屋が静かになった。
暖炉で薪が崩れ、赤い火の粉が一瞬舞った。
やがて父は紙を机へ戻した。
「全部で1万5000ポンドほどだ」
エドワードは聞き間違えたと思った。
「1500ではなく?」
父は答えた。
「1万5000だ」
エドワードは声を出さなかった。
頭の中で数字だけを動かした。
この屋敷と領地が毎年どれほどの収入を生んでいるのか、正確には知らない。だが1万5000ポンドが途方もない金額であることは、17歳でも分かった。
「全部、父上が借りたのですか」
エドワードが尋ねると、父の声が低くなった。
「違う」
父は机へ手を置いた。
「領地には祖父の時代からの抵当がある。屋敷の改修にも金がかかった。お前の姉の結婚にも金が要った。私自身が作った借金もある」
エドワードは順番に聞いた。
「競馬ですか」
「少しはな」
「カード?」
「それもある」
「女性?」
父の声が鋭くなった。
「エドワード」
だがエドワードは引かなかった。
「責めているのではありません。内訳を知りたいだけです」
父は苦い顔をした。
「ずいぶん商人じみた聞き方をする」
エドワードは言った。
「借金に貴族の作法があるのですか」
今度こそ叱られると思った。
しかし父は突然笑った。楽しそうな笑いではない。自分自身を笑うような乾いた声だった。
「ないな。金を借りる時だけは、公爵も男爵も商人も同じだ」
エドワードは何も答えなかった。
ただ、その言葉だけは頭に残った。
◇ ◇ ◇
数日後、エドワードは領地管理人の部屋へ向かった。
母屋ほど立派ではない事務棟の一室で、古い帳簿と紙の匂いがこもっている。窓は小さく、冬の光が机の上だけを白く照らしていた。
管理人のジョン・ミラーは54歳だった。
先代男爵のころからグレイミア家に仕えている。背は高くないが体つきは頑丈で、農地や建物を歩き回るため、靴にはいつも乾いた泥が付いていた。
ミラーは突然現れたエドワードを見た。
「若旦那が帳簿を見るのですか」
エドワードは答えた。
「見せてくれ」
ミラーはすぐには動かなかった。
「閣下のお許しは?」
「ない」
「では見せられません」
エドワードは机へ近づいた。
「僕はいずれこの領地を継ぐ」
ミラーは平然としていた。
「その時には全部お見せします」
エドワードはポケットから銀貨を1枚取り出し、机の上へ置いた。
ミラーは銀貨を見てから、エドワードを見た。
「私を買収なさるおつもりで?」
エドワードは答えた。
「違う。見せてくれた礼だ」
「同じことでございます」
エドワードは少し考えた。
「では貸してくれ。返した時に礼をする」
ミラーは笑った。
「それなら、もっと悪い」
そう言いながらも、最後には帳簿を開いた。
厚い紙に細かな数字が並んでいる。長年使われてきた革表紙は角が丸くなり、紙にはインクと埃の匂いが染み込んでいた。
領地からの収入は年によって違うが、おおむね1500ポンド前後だった。そこから屋敷の維持費、使用人の給金、厩舎や庭園の管理費、税、領地の修繕費、借入金の利息などが差し引かれる。
帳簿を追っていくと、ここ数年は毎年赤字になっていた。
エドワードは数字から目を上げた。
「今年も、このままだと足りない?」
ミラーは答えた。
「その可能性が高いです」
「では借りる?」
「その可能性が高いです」
エドワードは帳簿の数字を指で追った。
「そして来年は利息が増える」
「そうなります」
話は簡単だった。
収入以上に金を使えば不足が出る。その不足を借金で埋めれば、翌年には従来の支出へ利息まで加わる。そこでまた金が足りなくなれば、さらに借りることになる。
爵位も祖先も関係なかった。
エドワードは帳簿を閉じた。
「ミラー」
管理人は顔を上げた。
「はい」
「この家は貧乏なのか?」
ミラーは少し考えてから答えた。
「いいえ」
エドワードは続けた。
「では金持ちか?」
「それも違います」
「どういう意味だ」
ミラーは帳簿の上へ手を置いた。
「財産はあります。現金がないのでございます」
エドワードはその言葉を繰り返した。
「財産はある。現金がない」
ミラーは窓の外へ目を向けた。
「土地も屋敷もございます。しかし土地を切ってパン屋へ持っていっても、パンは売ってくれません」
エドワードは思わず笑った。
「なるほど」
1月10日の夜、外では再び雪が降り始めていた。
エドワードは自室の机に座り、蝋燭の黄色い光の下で紙を広げた。室内には暖炉の弱い火が残り、溶けた蝋の匂いが漂っている。
紙には、グレイミア家が持っているものとして「土地、屋敷、爵位、信用」と書き、その横に「現金がない」と記した。
エドワードは2つの言葉を見比べた。
17歳になって10日。
自分の家は財産を持っている。それでも自由に使える金がなく、毎年のように借金を増やしている。
エドワードはようやく、グレイミア家が何を持ち、何を欠いているのかを理解し始めていた。




