消えた書吏を、手袋だけでは裁けない
朝鐘が、まだ二度目を打ち終えていなかった。
白い封筒は、ヴァレリウス公爵邸の朝食室を通らず、夜薔薇の間の前へ届いた。ルネ・デュマの居室は空。机と残置品は封じた。本人の所在は未確認。急ぎ戻るつもりで離れた痕跡あり。
最後の一行を読んだ時、アルセーヌの目の奥に影が動いた。「急ぐか」
「急ぎます。決めつけません」
リゼットは昨夜封じた紙片の包みを抱え直した。黒蝋に二本線を入れた、小さな包みだ。中には、夜薔薇の間の壁布下から出た火入れ継続命令の端と、青絹の細い毛が入っている。
「同じ名だから、同じ罪とは限りません」
アルセーヌは短くうなずいた。「なら、君の順で行く」
馬車の中で、彼は向かいに座らなかった。昨日と同じように、呼び紐をリゼット側へ寄せ、自分は斜め前の席へ腰を下ろした。紙片の包みと、リゼットの手がぶつからない距離だった。
王宮香薬局へ戻ると、廊下の長机はさらに混んでいた。
香聖女名義品の封印箱が、昨日より二列増えている。薄桃色の札は外され、代わりに白い紙が貼られていた。王宮再検中。返銀保留。納入停止。
受付脇では、薬種商の代理人が小声で抗議していた。「南区の小売は、もう三軒が棚を空けています。うちはラングレー家から卸を受けただけで」
「再検完了まで、香聖女名義の札は戻せません」
受付係の返答は変わらない。代理人は帽子の縁を握りしめ、箱の列を見た。華やかな名で売った品が、今は一つずつ白い封で息を止められている。
セラフィナは記録室の入口に立っていた。白い外套の裾には、細かな紙粉がついている。徹夜したのだろう。それでも声は乱れていない。
「ルネの居室を開けるわ。拘束令は出さず、所在確認と保護のための検分として」
若い書記が後ろでうつむいた。昨夜からずっと、ルネの名が出るたびに肩を固くしている。ベルナールが杖を一度だけ床へ置いた。
「その子は下級書吏だ。弱い立場の名を、都合よく黒く塗るのは簡単だよ」
「はい」
リゼットは答えた。
「だから、手袋だけでは裁きません」
ルネ・デュマの机は、昨日と同じ窓際にあった。
椅子は押し込まれている。墨壺には蓋があり、羽根ペンは洗われていた。端に置かれた日次控えは、午前の欄まで記されている。午の刻の欄には、小さく線だけが引かれていた。
逃亡者の机には見えない。
そう言い切る前に、リゼットは机の下を見た。足元の籠には、丸めた紙が三つ。どれも失敗した清書で、受領札の書式練習だった。字は細く、最初の縦線に少しだけ力が入る。018で見た日次控えと同じ癖だ。
若い書記が唇を噛んだ。「ルネは、字が固いんです。緊張すると、縦線だけ深くなる」
「見てもよいですか」
リゼットは丸め紙を一枚ずつ白磁の皿へ置いた。紙の端には、普通の墨と指先の塩気がある。焦げた蜜は薄い。夜薔薇の間に似た冷えは、ない。
「これは、普段の練習紙です」
セラフィナが記録へ目をやる。若い書記はすぐに書いた。普段の練習紙。冷えなし。
リゼットは机上の無香手袋へ移った。昨日封じたものとは別に、引き出しの奥に片方だけ残っている。外側には乾いた糊の粉。内側には、汗の塩気と紙粉が濃い。
「こちらは、使っています」
「逃げる者が、手袋を片方置いていくこともあるだろう」
ベルナールの問いに、責める響きはなかった。
「あります。内側の湿りがまだ残っています。長く置かれた形とは違います。急に片方だけ外したか、外されたか」
リゼットは縫い目へ顔を近づけすぎないよう、無香紙を当てた。
「手首の皺が内側へ寄っています。引き抜かれた皺と形が違います。本人が急いで外しています」
アルセーヌが低く言った。
「急いで、戻るつもりで」
リゼットはうなずいた。説明は足さない。
机の右端に、食事札があった。下級職員が昼食を受け取るための小さな木札だ。午の刻の穴はまだ開いていない。隣には、薄いパンを包んだ布が置かれていた。端が一口だけ千切られている。
パンには、焦げた蜜の匂いはない。安い麦と、少し乾いた塩だけだ。
「昼までに戻るつもりだったのですね」
若い書記の声がかすれた。セラフィナは彼を見ずに言った。「記録」
「はい」
書記は筆を取った。今度は、字の太さを抑えた。
居室は記録室のさらに奥、下級書吏用の細い廊下にあった。部屋というより、寝台と小机を入れた小さな区画だ。窓はない。灯皿の油は半分残り、寝台の毛布は畳まれている。
水差しには水が入っていた。
リゼットはそこへ一番長く目を置いた。水面にほこりはない。朝に注がれたまま、まだ誰も口をつけていない。杯の縁も乾いている。急いで逃げるなら、水を飲む。支度して去るなら、外套を持つ。
壁の釘には、灰色の外套が掛かっていた。袖口に白い粉がついている。紙粉ではない。石粉だ。局の中庭から南荷捌き門へ抜ける通路で、雨の日に滑り止めとして撒く粉だった。
「この外套で外へ出た痕跡がありません」
リゼットは袖の内側を確認した。
「外側だけに石粉があります。誰かが、外套を部屋へ戻したか、袖だけを何かへ触れさせた可能性があります」
ベルナールの眉が動いた。
「では、本人は外套なしで出た」
「少なくとも、この外套で南荷捌き門へ出た痕跡はありません」
寝台脇の小机には、呼び出し札が一枚、伏せて置かれていた。
セラフィナが手を伸ばしかけ、止める。リゼットを見る。
「開ける順は」
「先に周囲を見ます。札そのものは最後に」
札の角から、青い繊維が一本出ていた。昨夜の紙片に絡んでいた青絹の毛より少し太い。染めは同じ系統で、絹より包み布のほつれに近い。
リゼットは白い作業用のものを替えた。
「アルセーヌ様」
「ここにいる」
「この色に、見覚えはありますか」
彼は札へ近づかなかった。扉の脇で、距離を保ったまま目を細める。
「母の小書斎の抽斗に敷かれていた布は、もっと暗い青だ。古くなれば近い色になる」
声は短い。喉の奥だけが少し乾いていた。
リゼットは札を裏返した。
文字は、局の正式な呼び出し書式に似ている。封はない。宛名はルネ・デュマ。持参物は、再検予定表。行き先は南荷捌き門。
差出欄は空白だった。
「正式な呼び出しの形ではありません」
セラフィナの声が低くなる。
「書式は似せています。差出印も時刻欄もない」
リゼットは札の端を無香紙へ当てた。焦げた蜜がある。濃い。さらに、白花香で上から隠そうとした甘さがわずかに残っている。
「ルネ様の机の練習紙より、旧工房側の返答封筒に近いです」
若い書記が顔を上げた。
「では、ラングレー家が」
「まだです」
リゼットはその言葉を止めた。
「近い匂いです。誰が持ち込んだかは、別です」
廊下の方で足音がした。局の門番が、帽子を胸に抱えて立っている。名乗らない。実務の者らしく、セラフィナへだけ一礼した。
「南荷捌き門の番から報告です。夜明け前、下級書吏の制服の男が一名、再検予定表を持って来ました。外套なし。白い手袋は片方だけ。正門を通らず、薬種商の戻り荷の列へ呼ばれていました」
「本人か」
セラフィナが問う。
「顔は見ておりません。うつむいていました。ただ、名札はルネ・デュマでした」
リゼットは札から目を離さなかった。名札。名前は、本人より先に歩ける。
「その者は、どこへ」
「南区薬種商組合の臨時詰所へ。戻り荷の再検予定表を出すよう言われたと。すぐに王宮側へ戻ると言っていましたが、戻っていません」
セラフィナは短く指示を出した。
「南荷捌き門を封鎖しない。騒ぎにすると、本人がいるなら隠される。臨時詰所へ保護確認の使者を。薬種商組合の返銀停止議事も押さえて」
ベルナールが若い書記を見る。
「書きなさい。逃亡ではなく、呼び出し後所在不明」
若い書記の筆先が一瞬止まった。
それから、はっきり書いた。
逃亡ではなく、呼び出し後所在不明。
リゼットは胸の奥で息を吐いた。誰かを救ったとはまだ言えない。ルネ・デュマが無関係だとも言えない。少なくとも、空いた欄へ罪名だけを書き込む手順は止まった。
アルセーヌが低く言った。「君の線は、疑われた者にも引けるのだな」
リゼットは包み布へ札を置いた。「守るための線ですから」
彼はそれ以上、言わなかった。黒手袋の指先が、包み布の端より手前で止まっている。リゼットが次の線を選ぶまで、手を伸ばさず待った。
呼び出し札、片方の手袋、外套袖の石粉、水差しの水、食事札。リゼットは同じ皿に置かず、順に分けた。黒蝋が落ちる。一本目。二本目。
封じ終える頃、セラフィナが別の紙を差し出した。
「南区薬種商組合の臨時議事予定よ。香聖女名義品の返銀、納入停止、旧工房への戻り荷処分。そこに、ラングレー家代理人の出席欄がある」
リゼットは紙を受け取った。出席欄には、ジラール・ラングレーの名。その横に、小さく追記があった。再検予定表持参者、ルネ・デュマ。
セラフィナの指が、さらに下を示す。
「そして、議事後確認物」
リゼットはそこを読んだ。青絹包み一件。小書斎第二抽斗原紙写し。
狭い居室で、灯皿の火が小さく揺れた。
夜薔薇の間で剥がれた紙片は、消えた書吏の名だけでは終わらなかった。旧工房の戻り荷と、先代公爵夫人の小書斎へ、同じ青い糸が続いている。
リゼットは議事予定表を封じた。
次の二本線は、南荷捌き門で引くことになる。




