098 影王
「では――始めるとしようか」
自らを影王と名乗ったその男は、真っ二つに両断され、地に伏した怪物の亡骸へ手を添えながらそう呟く。
何のつもりかと警戒するエルナたちの眼前で、その異変は起きた。
巨大な亡骸が、端からゆっくりと崩れ始めたのだ。
かと思えば、崩壊の中心――男の手元に何かが浮かび上がった。
禍々しい、漆黒の何か。
物質と呼んでいいのかすら怪しい、濃密な魔力が極限まで凝縮され、形を成したかのような塊だった。
「――ッ」
ぶるりと、エルナの体が震えた。
アレが何なのかは分からない。
だが、一つだけ分かることがある。
アレは、決して触れてはならないものだ。
理屈ではなく、全身の血がそう警鐘を鳴らしていた。
誰もが動けずにいる中、男は手元の塊を眺めながら口を開く。
「イルマリアの影響もあるのだろうが……生まれた時点から二つ分を有しているほどの潜在能力こそあれど、知性の獲得に至らなければ所詮この程度か」
(……何の話だ?)
二つ分。知性の獲得。
言葉の意味は何一つ掴めない。イルマリアという響きにも聞き覚えはなかった。
ただ、男が興味を向けているのが自分たちではなく、倒したはずの怪物の残滓であることだけは確かだった。
「まあ、いい。ここまでは想定内だ」
「っ!」
小さく息を吐き、男が空いた手を軽く振るう。
瞬間、彼の眼前の空間がぐにゃりと歪んだ。
男が漆黒の塊をその歪みの中へ無造作に収めると、空間は何事もなかったかのように元へと戻る。
やがて男は、思い出したかのようにエルナたちへと視線を戻した。
「必要最低限ではあるが、魔物の生成を続けさせた甲斐はあった……貴様たちのおかげでな」
「私たちのおかげ……だと?」
まだ状況を呑み込めた訳ではないが、剣を構え、最大限に警戒したままエルナは問い返す。
対する男は、泰然自若のまま頷いた。
「ああ、そうだ。俺は貴様たちのような存在が来ることを期待していた。そして、貴様たちの尽力の甲斐もありコレに見切りをつけることができた。二つの目的のうち、一つ目は無事に果たせたというわけだ」
コレ、というのは十中八九、たった今討伐した異形の怪物のことだろう。
見切りをつける――その言葉が何を示しているのかまでは分からない。
ただ一つはっきりしているのは、自分たちの死闘すら、初めからこの男の計画に組み込まれていたということだ。
背筋を伝う怖気を抑え込み、エルナはさらに問いを重ねる。
「ならば、二つ目とは……?」
男はじっとエルナたちを一瞥した。
やがて彼は、心底興味がなさそうに口を開く。
「コレに苦戦する程度の貴様らに、知る資格はない」
「――――は? くぅっ!」
反射的に、エルナは剣を振り上げていた。
思考よりも先に体が動いたのは、長年の実戦で培われた勘ゆえだろう。
直後、剣越しに尋常ではない衝撃が叩き込まれる。
卓越した技量で威力を受け流し、殺し――それでもなお、エルナの体は10メートル近くも後方へと押し流された。
ダメージ自体は軽い。
だが、自身の無事を喜んでいる余裕などなかった。
「皆、無事か!? ……っ!」
顔を上げたエルナの目に映ったのは、地面に叩きつけられたレイヴンと、王城の外壁にめり込むようにして崩れ落ちるトールの姿。
二人とも、ぴくりとも動かない。気を失っているのだ。
一瞬。
一瞬だった。
肉薄した影王の拳によって、エルナ、レイヴン、トールの三人はまとめて吹き飛ばされていた。
防御が間に合ったのはエルナただ一人。
倒れた二人から辛うじて命の気配が感じ取れるのが、せめてもの救いだろうか。
(何だ、今の動きは……)
エルナは驚愕を禁じ得なかった。
何も、敵は特別な動作をしたわけではない。
ただ三人に近づき、拳を振るった。
たったそれだけで、歴戦の猛者であるSランク冒険者たちが、為す術なく沈黙させられたのだ。
「次だ」
困惑するエルナなど眼中にないと言わんばかりに、影王は後方へと視線を移す。
その先にいるのは、ジュードとフィーネの二人。
「くっ――フレイムバースト!」
ジュードが叫ぶ。
前衛の三人が吹き飛ばされ、狙いが移るまでの僅かな時間。
その間に構築を済ませていたのだろう、炎属性の上級魔法が影王へと放たれた。
紅蓮の奔流は違わず標的を呑み込み、大爆発を巻き起こす。
並の魔族であれば、跡形も残らない威力。
いかにあの男といえど、大ダメージは免れない――
そう思われた直後、吹き荒れる砂塵の中から現れたのは、無傷の影王だった。
「馬鹿な……」
「ぬるいな」
「がっ!」
応酬は、それで終わりだった。
影王から放たれた魔力の砲撃がジュードを呑み込み、その体を軽々と吹き飛ばす。
まるで全身を鈍器で叩きつけられたかのように、ジュードは地面を転がり、そのまま動かなくなった。
(まずい、あの傷は……!)
遠目にも分かる。負傷の度合いは、先の二人よりも遥かに重い。
このまま放置すれば、命を落としかねないほどだ。
とはいえ今、そちらに意識を割いている余裕はなかった。
影王は倒れ伏すジュードに視線すらやらず、音速の足捌きによってフィーネに接近を試み――
「させるものか!」
「――――」
寸前、辛うじて間に割り込むことに成功したエルナは、その踏み込みを利用するように今繰り出せる全力の一振りを放った。
刃は、剥き出しになった影王の右腕に命中する――直前、突如として渦を巻くように生じた漆黒の魔力がその右腕を覆う。
恐らくは魔力障壁による疑似的な鎧。構わずエルナは剣を振り切った。
――――轟音。
魔力鎧は咄嗟に生み出したとは思えぬ強度を誇り、刃を受け止めていた。
常識離れした光景にエルナは眉をひそめつつ、それでも諦めることなく力を籠める。
「ハアッ!」
数瞬の均衡の末、押し勝ったのはエルナだった。
刃は魔力鎧を突破し、その切っ先を男の右腕に届かせる。
さすがの影王であっても、この一撃の全ては受け止めきれなかったようで、彼の体は後方へと吹き飛んでいった。
そして数メートル先。
着地した男の右腕には、浅くはあるものの確かな切り傷が刻まれていた。
「……ほう」
男は自身の腕へと視線を落とし、僅かに感心したような声を漏らした。
初めて与えた有効打。
だが、エルナの胸中に喜びは欠片もなかった。
流れの中で放った一撃に過ぎないとはいえ、全力の一振りを浴びせてこの程度しかダメージを与えられなかったのだから。
「今すぐ皆を治さないと……」
すると、背後でフィーネの声がした。
倒れた三人を救うべく、治癒魔法の構築に入ったのだろう。彼女の魔力が練り上げられていく気配が伝わってくる。
しかし、
「無駄だ」
影王が冷たくそう告げた。
次の瞬間、男から放たれた圧倒的な魔力の圧が大気を軋ませ――練り上げられていたフィーネの魔力が、形を成す前に霧散した。
「そんな……!」
フィーネの絶望の声が響く。
(魔族にとって弱点である聖属性の構築すら、許してもらえないのか……!)
一連のやり取りを目の当たりにし、エルナは否が応でも思い知らされた。
近距離戦でも、魔法戦でも、この男は自分たちを完全に凌駕している。
先ほどフィーネへの援護が間に合ったのは、ただの偶然に過ぎない。男が本気で後衛を狙えば、次は決して止められないだろう。
仮に何らかの奇跡でフィーネが治癒魔法を使う隙を作り出し、全員が戦線に復帰して仕切り直せたとして――それでも、勝てる見込みはまず存在しない。
それほどまでに、隔絶した力量差がそこにはあった。
(もう、取れる手段はこれしかないか……)
逡巡の末、エルナは決断する。
勝ち目がない今、選ぶべきは次善の策。
否――最悪の中から、僅かな希望だけでも残すための選択だ。
エルナは剣を構え直し、静かに告げた。
「――フィーネ、君は逃げろ。私が時間を稼ぐ」




