102 魔王の魂片
「魂片、だと……?」
掠れた声が、喉の奥から零れ落ちる。
聞き覚えのない言葉。
だが、その意味を理解するより先に本能が警鐘を鳴らしていた。
あの漆黒の塊。
異形の亡骸から取り出された、決して触れてはならない何か。
それが今、自分へ向けられようとしているのだと。
「ああ、そうだ」
対する影王は、泰然とした態度で頷いた。
「知らぬのも無理はない。貴様たち人族の歴史には残されていない話だ」
男は手元の漆黒の塊へと視線を落とし、淡々と語り始める。
「千年前の封印の折、十に分かたれた魔王の魂魄――その欠片こそが、この【魔王の魂片】。来たるべき復活の日のための礎となるものだ。魂片は宿主として選ばれた者の体を内側から造り替え、無事に適合を果たした者は魔王の力の一部を引き出すことが可能となる」
「……っ!」
影王が語る【魔王の魂片】にまつわる話は、言葉を失うほどに衝撃的な内容だった。
しかも彼の言葉に嘘がないとすれば、Sランクに至るとはいえ一介の冒険者に過ぎないエルナだけでなく、恐らくは各国の王族すら知らぬ話なのだろう。
遅れてエルナの脳裏に浮かんだのは、先ほど戦ったばかりの異形の怪物だった。
「まさか先ほどの魔物が、あれだけの力を有していたのは……」
「そうだ。アレは生まれながらに二つ分の魂片を有し、その影響を受けていた……もっとも所詮は魔物。その潜在能力を全て発揮することはできなかったようだがな」
(……そういうことだったのか)
影王が怪物から漆黒の何か――【魔王の魂片】を抜き出した際の不可解な発言の意味が、今ならば理解できる。
『……生まれた時点から二つ分を有しているほどの潜在能力こそあれど、知性の獲得に至らなければ所詮この程度か』
あれは初めから、魂片をその身に宿した怪物の末路について語っていたのだろう。
そして今度は、それをエルナに施すつもりのようだ。
だが――と。
エルナは這いつくばってなお、力強い意志で口を開く。
「魂片とやらについては分かった。だが、それを私に施すとはどういう了見だ? たとえ強大な力が与えられようと、私がお前たちに下ることは決してない」
「……意気込みは立派だが、それは不可能だ」
「何だと?」
眉をひそめるリーベの前で、男は空いた手を軽く掲げる。
「貴様にどれだけ反抗の意志があろうと、俺の……この身に備わりし魔力がそれを縛る。概念干渉技能【繋】――その概念を内包する魔力は不壊の特性を有し、さらには魔の因子を宿す者との間に糸を結ぶことで、強制的に俺の支配下へ加えることができる」
「なっ……」
「理解できるか? 魔物や魔族だけでなく、魂片適合後の貴様もその対象に含まれるというわけだ。そして、貴様は俺の配下として動いてもらうことになる。無論、永遠にではなく、魔王復活までの一時的な措置に過ぎんが……少なくともそれまでの間、その力は存分に振るわせてやる」
「…………」
言葉を失いながらも、エルナの思考は状況を瞬時に理解すべく働き続ける。
――つまり、こういうことだ。
魂片に適合すれば、自分は魔王の力の一部を得る代わりに、その瞬間からこの男の駒として操られることになる。
そしてその剣が向かう先は、十中八九……
(ふざける、な……!)
腹の底から怒りが湧き上がる。
だが、それを言葉にするよりも早く、影王は告げる。
「では――始めるとしようか」
「……っ!」
抗おうと、剣の柄を握る指に力を込める。
しかし今のエルナにはもはや、立ち上がるどころか、腕を持ち上げるだけの力すら残っていなかった。
最後の一撃に、全てを注ぎ込んだ代償だ。
影王が指先を軽く振るう。
直後、そこから伸びた無数の黒い糸が、エルナの四肢に絡みついた。
「ぐ、ぅ……!」
糸は傷だらけの体を強制的に引き起こし――否、吊り上げる。
足の爪先がわずかに地面から浮いた。
まるで操り人形だ。満足に力の入らない体では、振り解くことも叶わない。
続けて、影王の手元に浮かんでいた魂片が、ひとりでに動き出す。
ふわりと宙を滑り、吸い込まれるようにエルナの胸元へと消えていった。
「ガッ……!」
――直後、衝撃。
言葉にならない悲鳴が口から零れた。
体の内に決して看過できない異物がいる。ただそれだけははっきりと分かった。
その光景を見た影王が糸を消す。
支えを失った体は崩れ落ち、エルナはその場に膝をついた。
直後、全身を内側から作り替えようと、自分の物ではない魔力が暴れ始める。
血を、骨を、そして魂までも塗り替えようとするかのような、おぞましい感覚。
エルナは歯を食いしばり、荒れ狂うそれに必死で抗い続けた。
(受け入れて、たまるものか……!)
「……ほう、抗うか。それも時間の問題だろうが……」
影王はそう呟くと、魔王城跡地の外を一瞥し――それから軽く手を振るう。
瞬間、見覚えのある魔法陣が、再び跡地の敷地全体へと展開された。
あの怪物との戦いの最中、奴へと際限なく魔力を注ぎ込んでいた巨大な陣だ。
「これはかつて、魔王自らがこの地に刻んだ強化結界。今では魔王本人の他、魂片の持ち主へと、蓄えられた莫大な魔力を供給し続けるために存在する代物だ。そして現状、その管理権は俺が有している」
影王の視線が、膝をつくエルナへと落ちる。
「先刻の発動は、貴様たちと戦う魔物を強化するため。そして今は、魔の因子を貴様に注ぎ、強制的に適合を進めるために動かしている」
(……そういう、ことか……!)
戦いの最中に抱いた疑問の答えが、最悪の形で返ってきた。
事実、体の内で暴れる異物は外から際限なく力を注がれ、着実に浸食の速度を増している。
「――さて、どうする?」
頭上から、影王の問いが投げかけられた。
(このままでは……まずい)
朦朧とし始めた意識の中で、エルナは懸命に思考を巡らせる。
既に体は傷だらけで、満足に動かすことすらできない。
内側から膨れ上がる力を、拒み切れるだけの余力はもう残されていなかった。
――このまま呑み込まれれば、どうなるか。
答えは先ほど、影王自身の口から語られた。
魔王の力を得た自分は、奴の技能によって支配下に置かれ、人族への刃として振るわれる。
それだけは、絶対にあってはならない。
そんなことを、自分は望んでいない。
――――ならば、正しい答えなど初めから決まっていた。
「私、は――」
震える腕で、剣を握り直す。
そして、その切っ先を――自らの胸元へと向けた。
自死。それがエルナの選択だった。
今、ここでそれを選べば、少なくとも自分が敵の手に落ちることはなくなる。
この剣が、人族へと牙をむくこともない。
「…………」
その光景を前にした影王は――何故か、わずかに苦痛を滲ませるように眉をひそめたのち、ゆっくりと目を瞑った。
だが、今さら奴の反応などどうでもいい。
エルナは呼吸を整え、柄を握る手に最後の力を込める。
――その刹那。
走馬灯のように、脳裏をよぎったのは弟子たちの姿だった。
文句を言いながらも、指導に応じるエドワードとシドワード。
袋小路から抜け出せたかのような、晴れやかな表情を浮かべていたリヒト。
迷いながらも、真っ直ぐに自分の道を進み始めたシャルロット。
それでも彼女の手が止まることはなく、切っ先が胸元に迫り――
『貴女を――目標を超えて、俺が最強になってみせるのだと。今の俺が抱く願いは、ただそれだけです』
――最後に彼の言葉を思い出した、その瞬間。
「――――――!」
エルナの動きが、ピタリと止まった。




