第一話
いきなりで申し訳ないが、無実の罪で警察に逮捕された経験はおありだろうか。
俺はある。それも、今日だ。
この男は初っ端からなにを言っているのだ、と思われるかもしれないが、まぎれもない事実なのだからしょうがない。まあ、順を追って説明していくから、興味があるなら黙って聞いていてほしい。
それは、よく晴れた五月下旬の朝。とくになんてことのない、ありふれた一日のはじまり。少なくともその時点ではそう思いながら、ベッドでうつらうつらしていた。
俺ん家の玄関をチャイムも鳴らさずに入ってきて階段を上がり、ノックすることもなく俺の部屋のドアを開けたのは、恋ヶ窪春乃。ごくふつうのサラリーマン家庭である、隣の家に住む幼なじみだ。
「おにーちゃん! 今日からおばさまいらっしゃらないんでしょ? 早く起きないとダメじゃない!」
一学年下である春乃は、今年から新入生として俺と同じ都立陣風高校に通っていた。今ではこうやって、毎日欠かさず俺を起こしにやってくる。そう、毎朝だ。
「ねえ、早く起きて! 起きて! 起きて! 起きて!」
そう繰り返しつつ、春乃は俺の布団をめくってもぐり込んでくる。そして、なにをするかというと
「こちょこちょこちょこちょこちょこちょこちょこ……」
そう言いながら俺の脇腹に手を伸ばし、全力でくすぐってくるのだ。たまらず俺が悲鳴を上げると
「起きた? おはよう! おにーちゃん」
いつものように、にっこり微笑む春乃。布団の中にふわっと漂う、女子高生特有の甘い香りが俺の鼻腔を刺激する。
六月を前に少し早い衣替えを済ませた彼女は、薄手のブラウスを着ていた。学校では見慣れた女子の夏服だが、春乃が着るとこうも魅力的に思えるものなのか。
「……ああ、おはよう春乃」
目をこすりながらそう答えるところまでが、毎朝の日課だ。正直今では、春乃にこれをしてもらわないと一日がはじまった気がしない。
「朝ごはん作ってきたから。食べるでしょ?」
「朝ごはんって、おむすびか?」
「うん」
「昼の弁当は?」
「おむすび」
「晩飯は?」
「おむすび」
「さすがに三食おむすびじゃ飽きるだろ」
「でもぉ私、おむすびしか作れないもん」
「じゃあいいや。夜はどっか食べに行くか、自分でなんか作るよ」
「わかった。じゃ、早く学校行こ。遅刻しちゃうよ」
そう言いながら春乃は、先に部屋を出て階段をトントン降りていった。
「え?」
ふと壁に掛かっている時計を見て、俺はびっくり仰天した。いつもより一時間も遅いではないか。
「――――ごめーん、おにーちゃん。今朝は私も、ちょっと寝坊しちゃったー」
階下から、申し訳なさそうな春乃の声が聞こえてくる。
「それを早く言えって!」
俺はあわてて制服を着ると、自室を飛び出したのだった。
「ねえ、昨日から美都子おばさま、ヨーロッパでしょ? 長いの?」
「ああ、今回の予定は三週間かな。フランスとドイツ、あとスウェーデンだっけ。ひょっとすると、さらに伸びるかもって言ってたけど」
春乃が握ってくれたおむすびをほおばりながら(いつものことだが、小さい手のくせに春乃のおむすびはやたらとデカい。そして、美味い!)、俺たちは通学路を駆け足気味に歩いていた。
「大変だね。ひとりで大丈夫?」
「もう慣れたよ」
俺んちは、母ひとり子ひとりの母子家庭だ。というか、最近そうなった。父親がどうなったかについては、後で話すことにする。
「でもすごいな、海外公演なんて。さすが、風光流華道の家元!」
「まあな」
俺の母親、駿河美都子は「風光流」という華道の創始者である。活け花の技法をライブ演奏とともに披露するという、ショー仕立ての舞台が注目を集め、ここ数年はテレビやネットなどでも名前が知られるようになった。今では百人以上の弟子もおり、実質的に駿河家の暮らしを支えている。
たしか今年で四十七歳になったと思うが、母親の美貌と若々しさは長男の俺から見てもかなりのものだ。昔からとにかく厳格で、愛想のない性格なのだが。
「おじさまも、もしいらっしゃれば、きっと――」
お喜びだったでしょうに、とでも言うつもりだったか。だが春乃は、俺の表情が曇ったのを見て早々に言葉を切った。くそっ。俺としたことが、クソ親父のことで春乃に要らぬ気づかいをさせてしまったではないか。
「――なあ春乃。最近、文芸部のほうはどうだ?」
「うん! 新しい小説、書きはじめたの。先生とか部員のみんなにも読んでもらってね、わりと評判いいんだよ」
俺は、話題を彼女の部活動に切り替えた。昔から超が付くほど本の虫で、読むことばかりだった春乃は、高校入学とともに文芸部に入部したのだ。
「そりゃいいな。どんな話なんだ?」
「んっとね、軽音楽部が舞台の学園モノ。ジャンルはラブコメかな」
「へー、すげえじゃん。俺にも読ませてくれよ」
「えー、恥ずかしいよ」
「なんだよ、ちょっとくらいイイだろ」
「じゃ、こんどサイトにアップするから、そのときにね」
春乃はそう言って、耳まで真っ赤になりながら笑った。本当に愛らしい娘だ。
恋ヶ窪春乃、三月生まれの十五歳。血液型はO。A型の俺とは、相性もバッチリである。少々天然入ってるが、明るく素直な性格で人懐っこく、友人も多い。なにより、この俺にベタ惚れだ。
物心つくまえから隣の家同士の俺たちは、どこへ行くにもなにをするにもずっと同じ。本物の兄妹と見まごうほど、一緒にいるのが当たり前に生きてきた。
ちなみに、俺が付けた恋ヶ窪春乃のキャッチフレーズは【天真爛漫眼鏡仔犬】である(なお、今後もこんな感じで独自に登場人物に付けた奇妙なキャッチフレーズが出てくるが、聞き流してほしい。他愛もない俺の趣味だ)。
身長は百四十一センチ(百四十ではない。そこは彼女も断固として譲らない)。同級生と比べるとだいぶ小柄だ。読書のせいで大幅に低下した視力を補うべくかけている大きな丸い眼鏡も、幼少時からずうーっと伸ばしっぱなしの柔らかくカールした栗色のロングヘアも、薄い桜色に彩られたぽちゃぽちゃほっぺたも、すべてが俺の好みだ。そして、なにより――――
「……ねえ、おにーちゃん、なあに?」
俺の視線に気づいた春乃が、すこしだけ唇を尖らせた。すまん春乃! 俺としては、どうしてもそっちに目が行ってしまうのだ。――――その貧乳に。
「もー、えっち……」
自慢ではないが、俺は大の「貧乳好き」だ。それもほんのちょっとだけ、申し訳ていどにふくらんでいる乳房が最高に好みである。
いちおう断っておくが、俺は別に少女趣味ではない。どちらかというと、子供はあまり好きではない。あくまで、熟れ切ってない青い果実に目がないというだけなのだ。そして春乃は、超ドストライクの体型なのだ。巨乳だのデカパイだのには、俺は一ミリも興味はない。
「悪かったよ春乃♡」
「べつにいいけど♡」
そう言いながら、春乃は満更でもないという表情になった。俺はゆっくりと彼女に肩を寄せ、柔らかい手をそっと握った。すると春乃は、そんな俺の指をぎゅっと握り返してくれた。
こんなにステキな美少女と相思相愛。幼少時からこの俺を、最愛の婚約者と公言しており、両家の親も快く認めてくれている。人生において、こんなに幸せなことがあるだろうか。
俺にとって春乃は、自分よりも大事な存在だ。ぶっちゃけ、今のところ俺はまだ童貞だが、そういう行為は一生涯、春乃としかしないと固く心に決めている。俺は春乃が十八歳になるのと同時に、彼女と籍を入れるつもりだ。俺たちの記念すべき初体験の日は、結婚初夜である。
――――おっと、少々脱線してしまった。そうこうしているうちに、高校の正門が近づいてきた。俺は春乃と別れ、自分の教室へと向かっていった。鞄の中に、春乃が握ってくれた大きなおむすびを入れて。
これから、この俺自身に何が起こるかも知らないままに。
続く




