歯磨き騒動
晩ご飯が終わり、お腹いっぱいになった3人の娘たちがリビングで思い思いに過ごしている。
みんな3歳。この世界の充実した環境のおかげで、すくすくと、本当にすくすくと育ってくれている。
だが、育児の義務に「前世」も「今世」もない。
「はーい、みんな。ご飯が終わったら何する時間だ?」
俺が声をかけると、リビングの空気がピキッと凍りついた。
手には、この世界の魔導素材で作られた、実になじみ深い形状の歯ブラシが3本。
真っ先に反応したのは長女のケイトだ。
お気に入りの「こどものためのモンスターズ図鑑」を両手で抱え込み、あからさまに嫌そうな顔をして僕を睨んでくる。
「えー……おとーさん、今じゃないとダメなの? あたし、この本を読みたいんだけど……」
すると、その隣にいた次女のリリィが、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
少し大人びた仕草でケイトを諭し始める。
「ちょっとケイト、おとーさんを困らせちゃダメよ。ご飯の後はちゃんと綺麗にしないと、お口の中が汚れちゃうんだから」
お、さすがリリィ。少しおませでしっかり者なところがある。
父親としては実に頼もしい……と、感心したのも束の間だった。
リリィはケイトの手元にある図鑑をチラリと盗み見ると、人差し指を顎に当てて小首を傾げた。
「だけど……、その本は気になるわね。歯磨きは後でもいいんじゃないかしら」
おい。結局そっちに流されるんかい。
二人は並んで床に座り込み、図鑑を広げて完全に「動かないモード」に突入してしまった。
こういう時は息が合っているんだよな。普段は喧嘩してばっかなのに。
やれやれ、と苦笑しながら、俺はもう一人の問題児へと視線を向けた。
三女のアリス。1日違いで生まれた、我が家で一番マイペースな末っ子だ。
アリスはソファの上で不自然なほどピーンと体を硬直させ、ぎゅっと目を瞑っていた。
……いや、寝たふりである。狸寝入りならぬ、3歳児寝入り。
薄皮一枚分くらい、うっすら目が開いてこちらを覗いているのが丸見えだ。
「アリスー、寝たふりしても歯磨きは免除されませーん」
声をかけるが本人は至って真面目に寝たふりを継続している。
「むにゃぁ……もう食べられないよぉ」
何てベタな……。
とはいえ、娘たちがここまで歯磨きを嫌がるのには、単に「面倒くさいから」というだけではない明確な理由がある。
原因は、歯ブラシではなく「歯磨き粉」の方だ。
この世界では、幸いにも魔導素材の歯ブラシというものが普及しており、毛先の柔らかさや使い心地自体は決して悪くはない。
ただし、問題はその上に乗せる歯磨き粉だ。現代日本のような、子供が喜ぶイチゴ味やブドウ味のついたジェルなんてものは存在しない。
この国で一般的なのは、ハーブのすり潰しに塩を混ぜただけ代物。
これがまた、大人の俺でも顔を顰めたくなるような、何とも言えない渋みと塩辛さなのだ。
敏感な3歳児の舌に、あれを毎日乗せられるのだから、嫌がるのも当然といえば当然だった。
それならば、俺が持つ現代日本の知識で「子供用歯磨き粉」を発明してやればいいじゃないか、と最初は思ったのだが……。
(……いや、どうすればいいか全く見当がつかないぞ)
いざ作ろうとして、己の知識の浅さに愕然とする。
フッ素だのキシリトールだの単語としては知っていても、それをどうやって調達し、何をどう混ぜればあの甘くて安全なペースト状になるのか、一般人だった俺に分かるはずもなかった。
知識があるからといって、ゼロから何でも生み出せるわけではないのだ。
足元では、まだケイトとリリィが絵本に没頭し、ソファではアリスが狸寝入りを続けている。
「……よし、今日はおとーさんが特別に、塩ハーブをすっごく薄くして、お水多めで磨いてあげるから。な?」
俺はそう言って腰を落とし、まずは一番ベタな寝たふりをしているアリスの元へ歩み寄った。
アリスは一瞬だけ薄目を開けて俺を窺ったものの、やはりあの塩ハーブは嫌なようで、すぐにまたぎゅっと固く目を瞑ってしまった。完全な拒絶である。
ならばと、作戦を変更して長女と次女の方へ目を向けるが――。
「すごいわ、このダースラビットってかわいいわね」
「本当だわ、ケイト。目がくりくりしてる」
二人は一瞬だけこちらをチラリと見たものの、すぐにまた手元の『モンスターズ図鑑』に視線を戻してしまった。
歯磨きから目を逸らすための、見事な連携プレーである。
それにしても、と俺は二人の覗き込むページを盗み見て思う。何で『ダーク』ではなく『ダース』ラビットなんだろうか。
前世のレトロゲームみたいに、容量不足のせいでカタカナの使用制限があったとか、そういうわけでもあるまいし。この世界の人間は他国の文化を妙にガラパゴス化させて吸収する癖があるから、ネーミングの響きもどこかでねじ曲がったのかもしれない。
ちなみにそのダースラビット、図鑑のイラストではあんなに愛くるしく描かれているが、成長すると3メートル近くにまで巨大化する。
おまけに肉がすこぶる美味いモンスターだ。
今は目を輝かせて「かわいい」なんて言っている娘たちだが、いずれこれが我が家の食卓に上る美味い肉の正体だと知る日が来るのだろう。
そんなシュールな未来を想像しながら、俺は完全に長期戦の構えに入った娘たちを前に、小さく息を吐いた。
説得も通じず、完全に図鑑の世界に入り込んでしまっている。
ならば、最終手段しかない。
俺はわざとらしく、ちょっと深刻そうな声を張り上げてみた。
「そういえば……ハミガキをしないと、お口の中にモンスターが沸くんだよなぁ」
その言葉に、図鑑に夢中だったケイトの肩がピクリと反応した。
さすがはあらゆる事象をモンスターに結びつける長女だ。食いつきが違う。
ケイトは図鑑から顔を上げると、少し引きつった笑みを浮かべて強がってみせた。
「き、聞いたことがあるわ。ムシバーキンとかいうモンスターよね。でも……スピリット系のモンスターなら、魔法で倒せばいいだけよ」
「そ、そうよね。お口の中に魔法をかければ一撃よ」
リリィもケイトの言葉に乗っかって、うんうんと必死に頷いている。
二人とも、何とかしてハミガキを回避しようと、3歳児なりの論理で武装しようとしているのが微笑ましい。
一方、ソファの上のアリスはというと、完全に恐怖モードに入ったらしい。
寝たふりをして目を瞑ったままだが、怖くてたまらないのか、小さな口元がムニュムニュと不器用に動いている。
可愛い我が子たちよ、甘いな。
転生者である俺の脅し文句、そんなファンタジーな生易しいものじゃない。
「いや、実はあまり知られていないんだがな……」
俺はわざと声を潜め、おどろおどろしいトーンで続けた。
「歯を磨かないでおくと……お口の中に、黒くてネバネバした『ナメクジ型モンスター』がうにょッと沸くんだ」
ナメクジ。
スピリット系のように魔法でパッと消せる綺麗なものではない、あの生々しく不快な存在。
その瞬間、リビングに張り詰めていた空気が一気に爆発した。
「「「ぎゃーーーっ!?」」」
さっきまで絵本にしがみついていたケイトとリリィが、弾かれたように飛び起きた。
ソファでカチコチに固まっていたアリスにいたっては、目を見開いて「うにょっと! うにょっとおる!」と半べそをかいている。
「ナメクジいやだぁぁぁ!」
「おとーさん、ブラシ! はやくブラシちょうだい!」
三者三様に悲鳴を上げながら、3人の娘たちは手に持っていた図鑑も寝たふりも投げ出し、猛烈な勢いで洗面所へとドタドタ走っていった。
「よし、待て待て、今行くからな」
慌てふためく後ろ姿を見送りながら、俺は手の中の3本の歯ブラシを握り直し、勝利の笑みを浮かべて後を追った。
不味い塩ハーブへの嫌悪感よりも、口の中のナメクジへの恐怖が完全に勝った瞬間だった。
「……うにょ、っと……?」
しかし、そこで背後から、ひどく怯えた掠れた声が聞こえた。
振り返ると、そこには2番目の妻であるメイシーが立っていた。
彼女は顔を完全に青く引きつらせ、幽霊でも見たかのように両肩を小刻みに震わせている。
「な、ナメクジ……お口の中に、うにょっと……いや、いやぁぁぁ!」
いや、メイシー、お前もかよ。
どうやら大人の彼女にとっても『ハミガキを怠ると沸く新種の未確認モンスター』として脳内にダイレクトアタックしてしまったらしい。
メイシーは涙目でリビングを飛び出すと、猛烈な勢いで洗面所へと突っ込んでいった。
狭い洗面所からは、今や「ナメクジいやだ!」と泣き叫ぶ3歳児たちに混じって、ガシガシと、それはもう恐ろしい勢いで一心不乱に歯を磨くメイシーの姿が見える。
母親がそこまで必死に怯えているものだから、娘たちのハミガキ速度もさらに加速している。
あの不味い塩ハーブの歯磨き粉を、大人子供が一緒になって狂ったように口へ放り込んでいる光景は、なかなかにシュールだ。
想定外のパニックに頭を抱えつつも、結果的に全員が自主的に、しかも完璧に口の中を綺麗にしようとしている。
「……まあ、いいか」
俺は手の中に残った自分の分の歯ブラシを見つめながら、ぽつりと溢した。
子供用ハミガキ粉の開発への道はまだまだ遠そうだが、ひとまずは我が家の夜の平穏(?)は守られたのだった。
ダースラビット
分類:初級モンスター / 哺乳魔獣属 魔ウサギ科
サイズ:幼体:約20cm / 成体:約3m
市場価格:100g 120ゴルト(一般家庭の食卓にも上る普及価格帯の高級食肉)
【生態・特徴】
外見とギャップ
幼体・成体ともに、一見すると目がくりくりとした非常に愛らしいウサギの姿をしている。しかし、その愛くるしさに反して気性は極めて荒く、人間に懐くことは決してない。3mに達した成体は、巨体に見合った強靭な脚力を持ち、突進や蹴りの威力は一般的な野生動物を遥かに凌駕する。
「初級」に分類される理由
成体は3mという巨躯でありながら「初級」に分類されているのは、その行動パターンの単純さと、魔力を用いた特殊攻撃(ブレスや魔法)を持たないためである。
基本的には物理的な突進と警戒心の強さ(逃亡癖)がメインであるため、罠の設置や、突進をいなせるだけの基本技術があ冒険者や現地の猟師であれば、比較的安全に狩獲が可能。そのため、危険度の割にリターンの大きい「お買い得な魔物」として扱われている。
繁殖
人里に近い森に生息し、驚異的な繁殖力を持つ。現地の人々はその繁殖力と肉の美味さに目をつけ、過去に何度も家畜化(品種改良)を試みた。しかし、前述の「絶対に人に懐かない」という頑なな魔獣性により適応させることができず、結果として「人里の近くで半放牧状態にし、増えた分を定期的に狩る」という、共生・管理スタイルとなった。
【食肉としての価値】
肉質
初級モンスターの肉としては高水準の品質を誇る。3mの巨体から想像されるような大雑把な味ではなく、筋肉質でありながらも繊維が非常に細かく、驚くほど柔らかい。
味
臭みは一切なく、鶏肉をさらに濃厚にしたような上品な旨味がある。あっさりとした味付けから、煮込み料理、豪快なステーキまで幅広く適応するため、一般家庭から商業ギルドの食堂まで広く愛されている。100gが120ゴルトという価格は、日常のちょっとした贅沢や、お祝い事のメインディッシュに最適な「馴染み深いご馳走」としてのポジションを確立している。




