怒れる王妃様
意気揚々と楽園に向かっていた隣国赤鷹の使節団は、不意に翳った日に訝しんだ。
「なんだ……?」
空は何処までも晴れ渡り、青く澄んでいる。白く浮かぶ雲の何と平和なことか。
気のせいかと再び進行を始めた次の瞬間、旋風が駆け抜けた。
「うわっ!?」
風に煽られて何人かが体勢を崩す。
見上げた青い空。白い雲しか見出せなかったそこに、一頭の竜がいた。鏡のような煌く蒼銀の鱗を持ち、大きな一対の翼を羽ばたかせるそれは、光加減で金に見える澄んだ紅い双眸をしていた。
優雅に一度旋回すると、竜は宙の一点に留まった。じっと見つめてくる紅い瞳の迫力に誰もが息を呑む。
だが腐っても不思議の世界一の軍事国家。彼らは手に手に己が得物を構えて竜と対峙する。
竜は暫く彼らを見下ろしていたが、やがて興味が失せたように顔を反らした。なおも警戒をする一同の上に、高く澄んだ声が降り注ぐ。
「――――驚かせてしまってごめんなさい。武器を下げては頂けないかしら?」
若い女の声だ。竜が喋ったのかと恐慌する彼らだが、竜の背で動く影に我が目を疑う。
そこにいたのはまだ少女と言われる歳の、美しい娘だった。竜の背に立つ彼女は長い銀の髪を風に遊ばせ、一同を見下ろしてきている。
「楽園で情報屋を営んでいるシェルと申します。赤鷹の君はどなた?」
艶やかに微笑む少女に、馬に跨っていた赤鷹の王子は魅入られていた。
* * * * *
隣国の使者が来るということで、城内には緊張が張り詰めていた。王は硬い面持ちで玉座に就き、今朝初めて使者が来るという事実を教えられた王妃は隣で非難の言葉を並べ上げている。
「侯爵との婚姻話の時にも申しましたが、わたくしやリリアーナにも断りもなく勝手にそんな大事なことを決めて仕舞われないでください。ましてや国交問題につながりそうなことを何の相談もなく。そもそもリリアーナは隣国との婚姻話が上がっていて、使者が来ること自体知らないのですよ? 貴方はどう申し開きをなさるつもりで?」
「…………」
王妃に畳み掛けられた王はぐうの音も出ない。はあっと王妃はことさらに大きな溜息を吐いて見せた。側近たちは不憫そうな眼差しで主君を見上げる。
何もかもが王妃の言う通りなので、誰も弁明もできない。居た堪れない沈黙だけが広間内を支配している。
そんな時だった。広間の真ん中に魔方陣が現れ、その場に4つの人影が現れる。
娘である王女リリアーナと侯爵、勇者アレックスに見慣れない銀の髪の美しい少女。
リリアーナは王の前に出ると、頬を上気させて言った。
「お父様、お母様。赤鷹のことでしたらご心配には及びませんわ」
王女の言葉に場は騒然となる。
「リリアーナ、どういうことなんだ?」
「赤鷹の使節団の方々にはお帰り頂きました。わたくしの婚姻の話についてもないことにしてくださるそうです」
「まあ」
「シェル様が使節団の方々と交渉して下さったのですよ」
そう言ってリリアーナは銀の髪の少女を振り返る。やはり見慣れない少女。肩の上に小さな竜を載せる彼女に王は訝しんだが、王妃は違った。
「もしかして……月の女神様、なの?」
「月の女神?」
王妃は驚いたように目を瞠っていたが、目を輝かせてシェルに駆け寄った。呆気に取られている少女の細い手を両手で握り締める。
「わたくし、貴女のファンなの!」
「は、はあ……」
「お会いできて光栄だわ!」
まるで子どもの様にはしゃぐ王妃に、誰もが唖然とする。いつも泰然としているシェルですら、若干引き気味だ。
「お、王妃? その娘は?」
「幸運をもたらしてくださる月の女神様ですわ! 彼女に会った者には幸運が訪れると言われていますの!」
王宮の中枢近くにいる王妃までそんな噂を知っているとは。アレックスはシェルを半眼で眺めるが、何でも見通しているような彼女は予想外のことに戸惑っている。
きゃーっと黄色い悲鳴を上げて王妃はシェルに抱き着く。アレックスがあ、と思った時には時すでに遅く、シェルは硬直してしまった。
「あ、あれっくす……っ! たすけ……っ!」
「えーっと……ちょっと待て?」
「みゃっ、みゃっ……っ!」
半ば引きこもりの彼女は他の人に触れられることがあまり好きではない。ここ数年は、アレックスと彼の母親、幼馴染ぐらいしか触れたことがない。
王妃の手が緩んだ隙に、彼女は俊敏な仕草でアレックスの背に隠れてしまった。王妃は残念そうにシェルを見つめるが、彼女はアレックスにひしっとしがみ付いて王妃を警戒している。
アレックスは溜息を吐くと、主人が大変な目に遭っていたというのにその肩の上で呑気にあくびをしている小さな竜を見つめた。
今から遡ること1時間ほど前。
シェルは蒼銀の竜の背に乗って赤鷹の使節団の前に現れた。
「取引に参りました」
そう宣うシェルに、赤鷹の王子は胡乱げに返した。
「取引?」
「ええ。取引。リリアーナ王女との婚姻を取り止めて頂こうと思って」
リリアーナ王女の名に、一同は顔を見合わせた。一同はまさにこれから王女との婚姻を打診しに行くのである。
赤鷹は軍事国家であっても、あまり肥沃な土地ではない。他国よりも実りが少なく、いくらかを輸入で賄っているその国でひとたび飢饉が起これば、民のほとんどが死に絶えてしまう。
魔王騒動でてんやわんやになっている今の楽園なら、助力を見返りに同盟を結ぶことができるのではと彼らは考えたのだ。そう簡単には引き下がれない。
「断る」
少女は肩を竦めた。想定内の答えだったのだろう。ではと何かを取り出す。
「代わりと言っては何だけれど、貴方にいいことを教えてあげるわ」
「いいこと?」
「赤鷹の北にある森の奥に、神を崇める祠があるわ。そこにこの花を捧げて祀りなさい」
シェルが王子に示したのは、銀の燐光を放つ可憐な白い花だ。見たこともない花に王子は首を傾げる。
「仮にその花を捧げたとしよう。何が起こるという?」
「少なくとも、これから先祠を祀り続ける限り飢饉や多くの人が亡くなる大災害が起こることはないわ」
「本当か!?」
「嘘は言わない」
少女の言葉が本当なら、赤鷹も大分救われる。だが。
「国1つくらいの価値がある情報よ。どうかしら」
「……とてもではないが信じられない」
「それもそうね」
あっさりと認めると、少女は白い花を王子の手に落とした。王子は慌ててその花を受け止める。
「今回は後払いでいいわ。私の言葉が真実になった時、姫と貴方が心を通じ合わせていない婚姻は取り止めてちょうだい」
「わかった」
彼女は1枚の紙を王子の前に翻した。契約書であるその内容を確認して王子がサインをすると、紙は少女の手に戻る。
「契約成立ね」
シェルは淡く微笑むと竜を駆って去って行った。
その姿を見送り、王子は手の中の花に目を落とす。
柔らかな花弁で繊細なこの花がとても国を救うものには見えない。だが試してみる価値はあるだろう。
王子は期待を胸に国へと帰って行った。
「結果が出るのは少なくとも半年後。だけれど、確実に婚姻はなくなったわ」
王は安堵の息を吐いた。くたっと玉座に身を委ねる。
「よかった……」
「本当に良かったですわ。危うくわたくしは実家に帰るところでした」
「え」
王妃の言葉に誰もが耳を疑う。王妃はリリアーナ似の美貌でにっこりと、それはそれはたいそう麗しい笑みを浮かべていた。
「さあ、今日こそはしっかりと反省して頂きましょうね……?」
王妃の周囲でぱちりと稲妻が弾ける。王は顔を青ざめた。リリアーナや重鎮たちは2人から距離を取る。
「あ、忘れていたわ」
ぼそりとシェルが呟いた。何だか聞きたくないが、聞いた方がいいのだろう。アレックスは聞き返す。
「……何を?」
「姫の魔法は王妃譲りで、王妃は昔『電撃姫』の名を欲しいままにしていたらしいわ」
「…………」
シェルはアレックスに結界を張るように指示する。無言でアレックスは自分たちを守る結界を張る。リリアーナもすでに結界を張っていた。
次の瞬間、金の閃光と王の悲鳴が王城中に響き渡った。
王様さんざん話でした~
この夫婦、実は王妃様の方が強いのです。