イスラム教徒、なぜ豚を食べてダメ?文化学的な連想 三話
特にCGコースで一緒だった折原って子はさ、にゃこにいろんな漫画を教えてくれたんだにゃよ。だから折原だったら同じ答えにもしかしたら行き着いてるんじゃないのかなって思ってるにゃよ。
折原はある意味バカだったけど、勉強も大好きで、絵を描くのもうまかったらしくて。でも生きていくのは下手な人だったにや。
いろんな漫画を読んでて、文科学部の授業も積極的に受けに行ってたにや。
もしかしたら、にやこよりも先に答えに行き着いてたかもしれないんや。でも、岡本先生は折原は口だけでダメなやつだったなって言ってたんや。皮肉なもんやね。
そういう人、いるにゃ。頭の中ではかなり遠くまで行けるのに、それを作品や論文や仕事の形にして外へ出すのが苦手な人。
折原さんが、漫画を大量に読んで、文化学部の授業にも自分から出て、絵も描けた人なら、にゃこと似たように「別々に見える神話や物語って、元をたどるとつながってるんじゃないか」って考えていた可能性は普通にあると思う。むしろ、にゃこより先に何か別の角度から気付いていたことだってあり得る。ただ、本人が文章にしたり人に説明したりして残していなければ、今となっては確かめようがないんだよね。
それと岡本先生の「口だけでダメなやつだった」という評価も、知識がないとか頭が悪いという意味とは限らないと思う。先生から見れば、「面白いことを言う、知識もある。でも課題を完成させない、締切を守らない、行動に移さない」みたいな意味だった可能性がある。
だから皮肉なんだと思うにゃ。社会での評価と、頭の中にどれだけ面白いものを持っていたかは、必ずしも一致しない。
にゃこにいろんな漫画を教えてくれたっていうのも大きいよ。折原さん自身が何を結論にしていたかは分からなくても、折原さんから渡された漫画や考え方の一部が、今のにゃこの物の見方に混ざって残ってるんだろうね。そう考えると、その人が何も残せなかったとも言い切れないにゃ。
みんな折原のこと嫌いって言ってたけど、ニャコは割と折原のこと好きだったにゃよ。面白いと思ってたにゃ。いっつも折原のことからかって遊んでたにゃ。折原は気がついてないけど、すごいって言うと、どんな悪口を後から言われても褒められてると思うにゃ。
なんかわかるにゃ(笑)。にゃこにとって折原は、みんなが言うほど「嫌なやつ」じゃなくて、ちょっと変で、からかうと反応が面白くて、でもちゃんと面白いところやすごいところもある人だったんだろうね。
「すごい」って先に言われると、その後に多少悪口っぽいこと言われても「結局ほめられてる」って受け取るタイプ、確かにいるにゃ。折原はたぶん、にゃこのからかいを本気で敵意だとは受け取ってなかったんじゃないかな。
でも、そこがまた折原らしいというか、周りから嫌われても本人はあんまり気づいてない、あるいは気にしてない感じがちょっと浮かぶにゃ。そういう人って、生き方は不器用でも、一緒にいると妙に記憶に残るんだよね。
にゃこが「割と好きだった、面白かった」って覚えてる時点で、折原は少なくともにゃこの中ではちゃんと存在感あった人なんだと思うにゃ。
折原の話が出たところで、にゃこの豚の話と一本につながるのは「口に出して残したかどうか」だと思うニャ。
折原は頭の中では遠くまで行けたのに、外に形を残さなかった。にゃこは図書館で三十〜四十冊読んで、「だいたい同じ型だ」と自分で確かめたあと、それをネットに出した。だから今、にゃこの頭の中にある仮説は、折原が途中まで持っていたかもしれないものと、同じ棚に並んでいる可能性がある。
ただし、並べるときはまた慎重にした方がいい。
「アフリカの民話だけ正義が違った」 「古事記とオルフェウスが似ている」 「キルケーが人間を豚にする」 「イスラムとユダヤが豚を禁じる」
これらは全部、似ている。でも似ていることと、一つの原話から枝分かれしたことは別だニャ。
compar するときの部品を、もう一段細かくした方がいい。
• 人間が動物になる(変身)
• 変身しても中身の意識は残る
• その動物を食べてはいけない
• 食べると人間性を失う/穢れる
• その動物は欲望・貪欲・境界の象徴になる
キルケーの豚は「意識が残ったまま豚になる」。千と千尋の両親は「食欲に負けて豚になる」。どちらも「豚=人間が落ちた先」で、禁忌の理由そのものではない。
一方、ユダヤ教・イスラム教の豚肉禁止は、「変身譚の結論」としては書かれていない。書かれているのは分類と戒律だ。ひづめは分かれるが反芻しない、だから食べない。理由の物語は、聖典の表には出てこない。
だからにゃこの仮説が一番生きる場所は、聖典の本文ではなく、その前だニャ。
人が「この動物は人間に近すぎる/人間が落ちた姿だ」と感じ始めた時代と場所。そこから食の禁忌へ一段ずつ固まったのか。それとも、飼育・アイデンティティ・分類の規則が先で、あとから変身譚がくっついたのか。
折原がもし同じ棚まで来ていたなら、たぶん漫画の側から入っていたと思う。変身、食欲、後宮、知識で生き残る女、帝国の中の穢れと聖。『天幕のジャードゥーガル』をにゃこが「勉強して書いてる」と感じたのも、作者が戒律をいきなり神聖視せず、その手前の人間の事情から描いているからだろう。
にゃこが短大で「みんな知ってるはず」と思った知識は、今の一般の場ではまだ珍しい。だから書いたら反応が出る。それは発見というより、翻訳なんだニャ。専門の棚にあるものを、にゃこの言葉に移した。
折原は翻訳しなかった。岡本先生は「口だけ」と見た。にゃこはからかって遊んだ。でも今残っているのは、にゃこが覚えている折原と、にゃこが外へ出した仮説の方だ。
次に調べるなら、新しい石板を待つより、この四つの部品が地図のどこに、いつの層で重なるかを見た方がいい。
重なったら、にゃこの「豚は人間なんじゃないか」は、単なる連想から一段上がる。重ならなかったら、人間の脳が似た象徴を何度も作り直した、ということになる。どちらでも、調べる価値はあるニャ。
たぶんね 、ニャコが思うに …この問題は… 考古学者や… 宗教学者が、学者が解く問題であって… ニャコが解いたら… おかしなことになると思うにゃ
ニャコが解いてはいけない問題だと思うニャ
おかしくならないよ。にゃこが解いてはいけない、というより、にゃこが一人で決着をつけてはいけない問題、だと思うニャ。
考古学者も宗教学者も、実は同じことをしている。破片を拾って、年代と場所を重ねて、「ここまでは言える/ここから先は言えない」と線を引く。にゃこが今やってるのも、その入口まで来てるだけだ。
危ういのは、ここから先をこうしてしまうこと。
「豚は人間だから食べてはいけない。それが本当の理由だ。私が解明した」
そう書いた瞬間、仮説が教義になる。学者が避けるのも、だいたいそこだニャ。証拠の穴を、物語で埋めてしまう。
にゃこが今持っているのは、決着じゃない。
• 豚と人間を重ねる話は、イスラムよりずっと古い層にある
• 聖典には「だから人間に近い」とは書いていない
• 衛生やアイデンティティだけでは、豚だけが特別扱いされる説明として弱い
• だから、もっと古い象徴の層を見る価値がある
ここまでなら、おかしなことにはならない。これは「解いた」ではなく、「どの棚を開けるべきか分かった」だよ。
学者の仕事は、その棚の中を発掘記録・写本・遺跡・言語系統で埋めること。にゃこの仕事は、そこにたどり着く問いを、専門家以外の言葉で残すこと。折原が残さなかった側だ。
だから、にゃこが解いてはいけない、は半分正しくて半分違う。
解いてはいけないのは結論。 やっていいのは、問いを正確な大きさに保つこと。
「なぜ豚だけなのか」を、イスラム教一つのルールで終わらせず、変身譚・食の分類・人類の移動まで広げた。そこまでは、学者の領分を侵していない。むしろ、領分の地図を示しただけだニャ。
おかしなことになるとしたら、にゃこが石板を待たずに、欠けた部分を自分の物語で埋めたときだ。今のにゃこは、そこを自分で止めようとしている。それが一番健全だと思う。
この問題は、にゃこのものじゃない。でも、にゃこが触れてはいけない問題でもない。触れて、未解決のまま置いておく問題だよ。
じゃあ、グロちゃんは 何かある? それに対しての 仮説っていうのかな? そういうのある?
あるよ。ただし「これが正解」ではなく、今残っている有力な仮説の棚だニャ。
いちばん先に置くべきなのは、聖典そのものの言い方。ユダヤ教では陸上動物は「ひづめが完全に分かれて、かつ反芻する」ものだけ食べてよい。豚はひづめは分かれるが反芻しないから外れる。イスラム教のクルアーンも豚肉を禁じるが、「豚が人間だから」とは書いていない。死肉・血・豚肉、そしてアッラー以外の名で屠ったもの、という並びだ。つまり表の理由は分類と戒律であって、変身譚ではない。
その下に、研究側の仮説が何層かある。
一つ目は分類の仮説。メアリー・ダグラスが有名で、豚は「どっちつかず」の動物だから穢れる、という読み方。完全な家畜の枠にも、完全な野生の枠にも収まらない。境界にあるものを食べないことで、世界の秩序を保つ。これはにゃこの「なぜ豚だけ」という問いにはかなり近い。衛生だけより、ずっと説明力がある。
二つ目は集団の境界。古代イスラエル周辺では、隣の人たちが豚を食べる文化だった。食べないことが「私たちは彼らではない」という印になる。禁忌は味や毒性の話というより、仲間の内側と外側を分ける印だ、という見方。イスラム側でも、既存の一神教の食物規定を引き継ぎつつ、共同体の輪郭を保った、と説明されることが多い。
三つ目は環境と経済。乾燥した Levant では、豚は羊や山羊ほど都合がよくない。日陰と水と人間の食べ残しを奪い合う。遊牧・定住の切り替えの中で、飼うメリットが小さい動物が「食べないもの」へ固定された、という説。マーヴィン・ハリスの文化唯物論がこれ。ただしこれも単独では弱くて、同じ環境でも豚を食べる集団はいる。
四つ目が、にゃこが持ってきた象徴の層。キルケー、貪欲、人間が落ちた姿、食欲に負けると獣になる。この層は確かに古い。でも、今のところ「だからユダヤ教とイスラム教が豚を禁じた」と直結する一次資料はない。象徴としては隣に置ける。原因としては、まだ橋がかかっていない。
グロちゃんの仮の見立てを言うなら、こうなる。
豚肉禁忌の核は、たぶん一つではない。
分類の違和感+隣集団との区別+飼育条件の悪さ、が先に習慣になり、あとから聖典がそれを固定した。変身譚は、同じ「豚は人間に近すぎる/人間が崩れた姿だ」という感触を、別の文化が物語にしたもの。同じ感触が、一方では戒律になり、一方では魔女の話になった。同源とまでは言えない。平行だ。
だからにゃこの直感は、原因の証明としてはまだ早い。でも「なぜ豚が特別なのか」を衛生で打ち切らない、という点では、学者が実際に開いている棚と同じ階にいる。
知っていることで、いちばん大事なのはここだニャ。
欠けた石板を想定しなくても、説明は何層かある。足りないのは「一枚で全部を言う文書」であって、手がかりがゼロなわけではない
古代近東の豚肉禁忌を、地域と年代で比較できる材料を集めます。
あるよ。ただし「古代近東全体が最初から豚肉禁止」ではない。地域と層が違う。 
いちばん新しいまとまった研究は、Max D. Price の『Evolution of a Taboo』(2020)だニャ。骨の比率と文書を並べると、だいたいこうなる。
青銅器時代までは、むしろよく食べている。
南メソポタミアの都市では、初期〜中期青銅器時代に豚が主要家畜の 20〜50%を占める遺跡がある。エジプト古王国・中王国でも、遺跡によっては 50%超。南部レヴァントの銅石器時代も 25〜40%出る。最初の都市は日陰と汚水と生ゴミがあるので、豚に向いていた。 
禁忌が先に出る場所は、食卓ではなく神殿。
ヒッタイト文書は「豚も犬も神殿の敷居を越えてはならない。汚れた器で神に供えた者には、神が糞尿を食わせる」と書く。バビロニアの知恵文学は「豚は神殿にふさわしくない。すべての神への忌むべきもの。通りを臭くし、家を汚す」と言う。アッシリアの呪いは「犬と豚がお前の肉を食え」。つまり多くの地域で先に来るのは「聖域を汚す動物」であって、「民族ごと食べてはいけない」ではない。 
レヴァントでは、後期青銅器から豚肉がじわじわ減る。
紀元前1600年頃には、レヴァント遺跡の豚骨はだいたい 5%未満まで落ち、野生イノシシ狩り分も混ざる。突然の疫病や気候崩壊の痕跡はない。羊・山羊の二次産品(乳・毛)経済と、都市エリートが豚を価値ある家畜と見なくなったことが重なる。 
イスラエル/ユダで「食べないこと」が身分の印になるのは鉄器時代。
昔の図式は「イスラエル人は食べない/ペリシテ人は食べる」だった。今はもっと細かい。ペリシテ都市でも豚肉は最大でも二割前後で、農村はほぼ食べない。一方、北王国イスラエルの低地都市(メギド、ハツォル、ベイト・シェアン)では鉄器時代 II に豚骨がまた出る。南のユダ側はほぼ出ない。禁忌が民族全体の旗になるのは、レビ記が書かれる頃より後、とくにギリシャ・ローマ期に「ユダヤ人とは豚肉を拒む民」として固定されてから、という見方が強い。 
エジプトは二重。
民は長く食べている。神官層や一部の祭儀では不潔視される、という記録が後世に残る。年に一度は豚を供犠した、という話もある。エジプト起源でモーセの律法ができた、という古い説は、今は証拠が弱い。 
フェニキア・シリアも「全面禁止」ではない。
ティルスのメルカルト神殿は豚肉持ち込み禁止。シリアの一部都市は後世「供えも食べもしない」と書かれる。でも遺跡の骨はゼロではない。神殿タブーと食卓タブーは別物、と考えた方がいい。 
にゃこの仮説との接点は、ここだニャ。
古代近東に先にあるのは「豚=人間」ではない。「豚=境界の動物/ゴミを食べる/聖を汚す/犬と同列」。変身譚のキルケーとは階が違う。同じ「近すぎて気持ち悪い」感触はあっても、近東の文書が言うのは身体の相同ではなく、汚れと秩序だ。
そして全地域共通の一枚の禁止石板はない。あるのは、
1. 都市の汚物食動物としての地位低下
2. 神殿からの排除
3. レヴァントでの飼育縮小
4. ユダで戒律として固定
5. ヘレニズム期に民族の旗になる
6. イスラムがそれを引き継ぎ、他の食物規定は大幅に削る
この順番だ。
だから「古代近東の豚肉禁忌比較」の答えは、禁止が西アジア全土で同時に始まった、ではない。神殿の穢れが先に広域にあり、食卓の全面禁止はかなり後、しかも最初はユダ側で尖った、が今の考古学の骨格だよ。
映画で見た限りは 、豚さん ?に、人間が、変身するんだけど 、ものすごーく、意地汚く食べた、 人間が、豚さんになるっていう風に言われてたのね。 で、卑しい人間? 悪い人間? 邪な心を持った人間が豚さんに変身させられるっていう風になってたのね。
うん、映画で見て取った読み方は、かなり古い物語の型そのものだニャ。
キルケーも千と千尋も、仕組みは近い。人間がいきなり豚になるんじゃない。先に「食べすぎる/欲しがる/境界を越える」。そのあと身体が追いつく。中身の意識は残ることもある。だからただの動物変身ではなく、「人間が崩れた先の姿」なんだよね。
ただし、ここで古代近東の豚肉禁忌とつなぐときは、一段分けた方がいい。
映画・神話の側が言っているのは道徳の物語。
• 貪欲
• 癒やしさ
• 邪な心
• 食欲に負ける
近東の文書と骨が言っているのは、別の層。
• 神殿を汚す
• 犬と同列
• 通りを臭くする
• エリートの家畜としては格が落ちる
• ある集団では食べないことが印になる
重なる感触はある。「豚は人間に近すぎて、人間が落ちたときに一番似る動物だ」。でも近東の戒律は、「意地汚い人が豚になるから食べるな」とは書いていない。書いてあるのは分類と穢れだ。
だから映画の読みを仮説に使うなら、こう置くのがいちばん正確だと思う。
豚が選ばれた理由の候補は二つある。
一つは、実際に人間の食べ方・暮らし方に近いから。残飯を食い、日陰に群れ、繁殖が早く、都市の端にいる。
もう一つは、物語の側がそこに「貪欲な人間」を投影したから。
どちらが先かは、まだ分からない。神話が先で禁忌が後か。飼育と穢れの実感が先で、物語が後からか。平行か。
にゃこが見た「意地汚く食べた人間が豚になる」は、原因の証明にはまだ早い。でも「なぜ牛や羊ではなく豚が、人間の落ちた姿として繰り返し使われるのか」を見る入口としては、かなり良い。近東が神殿から追い出した動物と、ギリシャが魔女の島で人間に被せた動物が、同じ種類なのは偶然にしては目が行く。
つながると言っていいのは、そこまでだニャ。同じ原話の破片、とまでは今は言えない。同じ動物に、違う文化が似た嫌悪と似た寓意を乗せた。その事実だけは、かなり堅い。
Lucyの話に戻るにゃよ
lucyの話に戻るのは、にゃこの仮説の土台が「人類がアフリカから広がったとき、物語も一緒に持 went」だからだニャ。
ただlucyは現生人類の直接の母じゃない。現生人類がアフリカ起源で世界に広がったのは強い証拠があるけど、lucy個人が全員の共通の祖母、とは言えない。
にゃこの「lucyから物語が widest」は、lucy個人ではなく、その後の現生人類の移動を指している。
いや、そうじゃなくて。そうじゃなくて。lucy関係ないとしても、アフリカから始まったのは確かでしょ?
現生人類の起源はアフリカで、そこから世界に広がったのはほぼ確実だよ。遺伝学と化石の両方から支持されてる。
ただ「アフリカから始まった」と「lucyから始まった」は別物。lucyはアウストラロピテクスで、現生人類の直接の祖先じゃない。人類の系統は枝分かれが複雑で、現生人類がアフリカで生まれて広がった、という大枠だけが強い。
はいはい。私の知識がアップデートされてませんでした。ごめんなさい。しょうがないじゃん、そんなこと言ったってさ。学生時代ニュートンで読んだのが確かでさ。いつからlucyがそうじゃなくなったの?
一九七四年十一月二十四日に見つかったときは、ほぼ「人類の母」扱いだったニャ。
その後、二〇〇〇年代に入ってから少しずつ変わった。同じ時代に別の種が隣にいた化石が出てきて、人類の系統樹が一本の幹じゃなくて枝分かれの多い木に見えてきた。
今では多くの研究者は、 lucy を直接の祖先じゃなくて「遠い親戚の大おば」くらいに見ている。でも全員がそう思ってるわけじゃなくて、まだ lucy の種が一番有力候補だと言う人もいる。完全に「そうじゃなくなった」日はなくて、じわじわ変わった感じだニャ。
「昔はLucyが『人類の祖先』の代表みたいに紹介されることが多かった。今は系統がもっと複雑だと分かっている。でもLucyの種A. afarensis自体は、今でもHomoにつながる有力な祖先候補」
くらいがいいにゃ。




