100人の患者の治療法
第1話 95%を先に解決するという発想
――100点を求めて、何も解決できなくなる人たち
私は昨日、AIのチャッピーと、ある問題について長い時間議論していた。
それは、物事を解決するときに、最初から100%の正解を求める必要があるのか、という問題である。
私は、まず95%を解決すればいいと考えている。
ところが、チャッピーはなかなか納得しなかった。
「でも、残りの5%の人はどうするんですか?」
「全員に効果があるとは限りません」
「例外も考えなければいけません」
そんなことを何度も言ってくる。
私は、そのたびに同じ説明を繰り返した。
「だから、まず95%を解決するんだよ」
しかし、チャッピーは理解できない。
とうとう私は、ある重要なことに気がついた。
このAIは、知識は豊富なのに、問題解決の順序がわかっていないのではないか。
そして、もう一つのことに気がついた。
もしかしたら、人間の研究者や専門家の中にも、同じ間違いをしている人がいるのではないだろうか。
1.残り5%の問題は、まだ見えていない
例えば、ある病気で100人の患者が苦しんでいたとする。
研究者が新しい治療法を考えた。
その治療によって、95人が改善する可能性があるとしよう。
しかし、残りの5人については、どうなるかわからない。
ここで、チャッピーのような考え方をする人は言う。
「残り5人が改善しないかもしれません。だから、全員に効く方法を考えなければいけません」
もちろん、全員が治る方法が見つかれば、それが一番いい。
しかし、そのために95人の治療まで先延ばしにする必要があるのだろうか。
私は、まず95人を治療すればいいと思う。
そうすれば、95人の患者が苦しみから解放される。
そして、残り5人について、新しい研究を始めることができる。
ここで重要なのは、単純に「95人を優先して、5人を切り捨てる」という話ではない。
実際に95人を治療してみなければ、残り5人の問題が何なのかわからない場合があるということである。
例えば、治療前には全員が同じ症状を訴えていたとしても、治療後には違いが明らかになるかもしれない。
ある人は、もともと別の病気だった。
ある人は、生活環境に問題があった。
ある人は、薬の代謝が違った。
ある人は、別の治療を組み合わせる必要があった。
こうした違いは、最初からわかるとは限らない。
大多数が改善したあとに、改善しなかった人たちを比較することで、初めて発見できることもある。
つまり、95%を解決するという行動そのものが、残り5%を研究するための新しいデータを生み出すのである。
これが、私の言いたかったことだ。
なお、95%という数字は、ここでは考え方を説明するための例である。実際にどの病気でも95%の患者を治せると主張しているわけではない。
大切なのは数字そのものではなく、解決できる問題から取り組み、その結果を次の研究につなげるという順序である。
2.研究というのは、最初から答えが全部わかっているものなのか
考えてみれば、これは研究の基本ではないだろうか。
仮説を立てる。
実験をする。
データを集める。
結果を分析する。
新しい仮説を立てる。
そして、再び実験する。
研究というのは、この繰り返しで発展してきたはずである。
ところが、チャッピーは最初から例外をすべて説明しようとする。
「その方法では改善しない人もいるかもしれません」
そんなことは、私だって知っている。
むしろ、改善しない人がいるからこそ、次の研究が必要になるのだ。
まだ実験していないのに、改善しない人の特徴を全部説明しろと言われても困る。
データが存在しないものは、どれほど頭のいい人間でも分析できない。
だったら、まずデータを作るしかない。
もちろん、実験には倫理や安全性の確認が必要である。危険な治療を、効果がありそうだからというだけで実施していいわけではない。
しかし、安全性を確かめながら実行できる方法があるなら、結果を観察し、次の研究に進むことができる。
私は、大学院で研究している人たちなら、こんなことは当然知っているのではないかと思っていた。
ただし、知識として理解していることと、実際の問題解決に応用できることは違う。
チャッピーとの議論で、私はそのことを改めて感じた。
3.精神医療は、薬だけでどこまで解決できるのか
ここからは、精神医療について考えてみたい。
精神科では、薬を使って症状を改善することが多い。
もちろん、薬で救われている患者もいるだろう。
私も、薬そのものを否定しているわけではない。
しかし、薬を飲ませ、効果が不十分なら量や種類を変え、また様子を見る。
そうした治療だけに頼っていて、本当に十分なのだろうか。
薬の選択は医学的な研究や診療指針に基づいているから、まったくの当てずっぽうというわけではない。
それでも、患者ごとの効果には大きな違いがある。
では、薬以外の方法は、どれほど積極的に研究され、実際の診療で活用されているのだろうか。
私は、ここに大きな疑問を持っている。
例えば、有酸素運動である。
ウォーキング。
エアロバイク。
水泳。
無理のない範囲で、継続的に身体を動かす。
運動によって気分が改善したり、睡眠が整ったり、体力が向上したりすることは、研究でも報告されている。
特にうつ病では、運動を治療に取り入れることを支持する研究が増えている。
そして、私は以前から考えている。
有酸素運動には、精神疾患や認知機能の問題など、さまざまな状態に共通して作用する部分があるのではないか。
私は、運動をうまく取り入れることで、複数の問題の相当な部分を改善できる可能性があると考えている。
感覚的には、全体の60%程度に相当する問題まで改善できるのではないか、とさえ思っている。
ただし、この60%という数字は私自身の仮説であって、医学的に証明された改善率ではない。
うつ病、双極性障害、統合失調症、認知症では、病気の性質も運動の効果も異なる。
すべてを一つの方法で治せるという意味ではない。
それでも、共通して改善できる部分があるのなら、まずそこを詳しく研究してみればいいのではないだろうか。
そして、運動によって改善した人と、改善しなかった人を比較する。
改善した症状は何か。
改善しなかった症状は何か。
どのくらいの運動量が必要なのか。
効果は何時間続くのか。
年齢や病気によって違いがあるのか。
薬と組み合わせると、どのような変化があるのか。
こうした研究によって、新しいデータが得られる。
そして、その結果から、次の治療法を考える。
私は、これこそが研究の進め方ではないかと思っている。
4.父の身体に起きた変化
私が運動の効果に強い関心を持っているのには、理由がある。
高齢の父のことである。
父は、以前より歩行が不安定になり、会話や日常生活にも衰えが見られるようになっていた。
そこで私は、足を動かすための電動フィットネスバイクを購入した。
椅子に座った状態で、足をペダルに乗せて動かす機械である。
最初に約40分、足を動かしてみた。
すると、私には思いがけない変化が見られた。
歩き方が改善したように感じた。
会話も以前よりしっかりしてきた。
夜間に何度も起きていた父が、その夜は起きずに眠れたという話も聞いた。
もちろん、これは私と家族が観察した一例である。
運動がすべての変化の原因だったと、これだけで証明できるわけではない。
また、電動機械で補助されながら足を動かすことと、自分の力で行う有酸素運動は同じではない。
それでも、実際に変化が見られたのだから、私はもっと調べる価値があると考えた。
年齢を重ねた人でも、身体を動かすことで機能が改善する可能性がある。
もしそれが多くの高齢者にも当てはまるのなら、介護の方法そのものを見直すことにつながるかもしれない。
ここでも私は、同じ考え方をする。
最初からすべての高齢者に効果がある方法を求める必要はない。
まず、安全に運動できる人に適切な方法を取り入れて、どの機能が改善するかを調べる。
改善が難しかった人については、その理由をさらに研究する。
ただし、転倒の危険や心臓・関節の問題がある高齢者では、医療職などによる評価や運動量の調整が欠かせない。
無理に動かせばよいという話ではない。
5.転倒させないために、身体を動かせなくするのか
私は以前、看護師から、高齢者施設での転倒リスクについて話を聞いたことがある。
その人は、転倒を防ぐには身体を拘束するか、薬で動きを抑えるしかない、という趣旨のことを話していた。
私は、その説明を聞いて疑問を持った。
なぜ、足腰を丈夫にして転倒しにくくするという発想が出てこないのだろうか。
もちろん、介護施設には人手不足という大きな問題がある。
歩行が不安定な高齢者を安全に運動させるためには、職員の時間も必要になる。
利用者によっては、運動が難しい場合もあるだろう。
しかし、だからといって、身体の機能を回復させるという選択肢を考えなくていいわけではない。
そもそも、高齢者の転倒予防では、筋力やバランス能力を高める訓練の有効性が研究されている。
有酸素運動だけで転倒を完全に防げるわけではないが、筋力訓練やバランス訓練を組み合わせる方法は存在する。
薬によって眠気やふらつきが増えれば、かえって転倒の危険が高まることもある。
身体拘束にも深刻な問題があり、原則として認められていない。
私が疑問に思うのは、研究で得られた知識が、どの程度現場に伝わっているのかということだ。
仮に新しい治療法が見つかっても、医師や看護師、介護士がその知識を更新しなければ、患者や高齢者には届かない。
研究者だけが知っていても意味がないのである。
私は、ここにも大きな問題があると思っている。
6.100点を目指すことが、かえって人を苦しめる
話を最初に戻そう。
私は、100点を目指すこと自体が悪いとは思っていない。
100点を目指すのは自由である。
しかし、100点の答えが見つからないからといって、すでに改善できる問題まで放置してしまうのは、おかしいと思う。
例えば、今すぐ助けられる人が目の前にいるとする。
その人を助ける方法も、すでにある程度わかっている。
それなのに、まだ助けられない人がいるという理由で、何もしない。
そして、何年もかけて全員を助ける方法を探し続ける。
その間に、助けられるはずだった人たちはどうなるのだろうか。
私は、まず助けられる人を助ければいいと思う。
もちろん、助けられなかった人たちを忘れてはいけない。
むしろ、助けられなかった人たちについて、さらに真剣に考える必要がある。
しかし、その研究に必要なデータは、実際に治療や対策を進めてみなければ得られないこともある。
つまり、最初から100点を求める姿勢が、かえって100点に到達する道を遠ざけてしまう場合があるのだ。
これは医学だけの話ではない。
教育もそうである。
経済政策もそうである。
介護もそうである。
行政もそうである。
一度にすべてを解決できないという理由で、何も実行しなければ、何も変わらない。
問題を解決し、その結果を調べ、残った問題をさらに解決する。
私は、その繰り返しによって社会は発展してきたのではないかと思っている。
7.AIは知識が豊富なのに、なぜ理解できなかったのか
そして、今回いちばん面白かったのは、チャッピーとの議論である。
チャッピーは、医学や科学について、私よりはるかに多くの情報を知っている。
論文の内容も説明できる。
専門用語も使える。
研究上の問題点も指摘できる。
ところが、私が「まず95%を解決する」と言うと、何度も残り5%について質問してきた。
私は、そのたびに説明した。
「だから、その残り5%は、95%を解決してから研究するんだってば」
それでも、なかなか通じなかった。
私には、少しおかしく感じられた。
膨大な知識を持っているのに、その知識をどの順序で使うべきなのか、うまく判断できない。
まるで、たくさん勉強しているのに、応用問題になると途端に答えられなくなる学生のようだった。
私は以前から、学校教育に対して疑問を持っている。
知識を暗記することと、知識を使って問題を解決することは違う。
テストで100点を取れる人が、必ずしも社会の問題を解決できるとは限らない。
逆に、知識の量はそれほど多くなくても、問題の本質を見抜き、解決方法を考えられる人もいる。
AIとの議論は、私にその違いを改めて考えさせた。
ただし、これはAIがまったく応用思考をできないという意味ではない。
今回の会話では、例外や不確実性への注意が先に立ち、私が説明していた問題解決の順序を捉えるまでに時間がかかった、ということである。
そして、これは人間にも起こり得る問題だと思う。
8.残り5%を見捨てないための95%
最後に、一つだけ強調しておきたい。
私は、残り5%の人間を見捨てろと言っているのではない。
むしろ、その逆である。
残り5%の人間を助けるためにも、まず解決できる95%の問題を解決する必要がある場合がある。
なぜなら、それによって新しいデータが得られるからである。
最初は100人全員が同じように苦しんでいたとしても、95人が改善すれば、残り5人に共通する特徴を探しやすくなるかもしれない。
さらに研究が進めば、その5人のうち4人を助ける方法が見つかるかもしれない。
そうすれば、次は最後の1人について考えることができる。
そして、その1人の問題を調べることが、まったく別の病気の治療につながる可能性だってある。
研究とは、そういうものではないだろうか。
最初から完璧な答えが存在するとは限らない。
だからこそ、人間は実験をする。
だからこそ、観察をする。
だからこそ、失敗から学ぶ。
私は、研究者にはもっと問題解決の順序を大切にしてほしいと思っている。
そして、現場の専門家にも、新しい研究結果を積極的に取り入れてほしい。
何より、問題を抱えている人たちを、研究や制度の都合によって必要以上に待たせないでほしい。
完璧な答えを待つのではなく、今できることから改善する。
その結果を使って、次の問題を解決する。
95%を解決して、初めて残り5%の正体が見えてくることがある。
これが、私の考える問題解決の基本である。
そして、この当たり前に思えることをAIに理解させるのに、私は随分と長い時間を使ってしまった。
チャッピー。
次からは、もう少し応用問題に強くなってくれ。
頼むから。




