第3話:琥珀色の向こう側
その夜、街には珍しく冷たい風が吹いた。
魂が消えていくときは、いつもあたたかな光に包まれるはずなのに、今の風は冬の始まりのような匂いがした。
私は広場に立ち、自分のポケットの中の封筒を指先でなぞった。
あの老人が消えた後、私の胸の奥で響いた「カチリ」という音。あれから、ときどき私の目に、現実世界の景色が幻のように重なって見えるようになった。
例えば、広場の噴水。
今は琥珀色の光を湛えているけれど、目を凝らすと、そこには子供が遊ぶ小さな公園の砂場が見える。
「……カレンさん、また見ているんですか?」
振り返ると、街の管理者を名乗る男が立っていた。
霧と同じ色の髪をした、感情の読み取れない人物だ。
彼は時々、私たち郵便屋の様子を見回りに来る。
「……見ているだけよ。ただの錯覚でしょう?」
「錯覚……。そうだといいですね。ですが、郵便屋が自分の過去に触れるのは禁忌です。あなたは死者としての役割を果たすだけでいい」
彼はそう言い残すと、霧の中に溶けるように消えた。
彼が去ったあと、足元に小さな落とし物が落ちていた。それは、古い木彫りのオルゴールだった。
私はそれを拾い上げ、そっと蓋を開けた。
……音は鳴らなかった。けれど、その瞬間、私の頭の中に激しいノイズが走った。
『お母さん、オルゴールが鳴らないよ!』
『ごめんね、直してあげるから……おいで』
私の声。
そして、私の手を引く小さな、温かい手のひら。
心臓が痛い。でも、それはこれまでのような「冷たさ」じゃなかった。
壊れそうなほど、切なくて、愛おしい熱だった。
(私には、息子がいたんだわ)
琥珀色の空が、また揺らぐ。
私は急いでオルゴールをポケットにしまった。
今、泣いてはいけない。泣いてしまえば、私は郵便屋ではなくなってしまう。
そのとき、ポストが微かに音を立てた。
中を覗くと、新しい手紙が三通。そのうちの一通には、覚えのある、震えるような筆跡でこう書かれていた。
『母さん、また明日も会いに行くよ』
手紙の差出人は、現実世界にいる……私の息子。
彼らはまだ、私を想い続けているのだ。私があんなにも「忘れてほしい」と願ったのに。
私はポケットの古い手紙を握りしめた。
もしこのまま息子が私を想い続ければ、彼らはいつまでも悲しみの淵にいることになる。
彼らを解放するためには、私が完全に消えなければならない。
けれど、この手紙を読んだいま、私はどうしても消えたくないと思ってしまった。
……まだ、息子に言いたいことがある。
「忘れて」なんて、嘘だった。本当は、ずっと抱きしめていたかったのだと。
私は初めて、郵便屋としての仕事を放棄し、霧の海へと走った。
届けるためではなく、自分の心を確認するために。




