第2話:初めての「手紙」
その日、広場のポストには一通の手紙しかなかった。
いつもなら何十通と溜まっているポストが空っぽに近いなんて、この街では珍しいことだ。
私はその白い封筒を取り出した。
差出人の名前もなければ、宛先も書かれていない。
ただ、封筒の裏に、震えるような字で『息子へ』とだけ記されていた。
「珍しいわね。封筒の匂いが、少しだけ懐かしい……」
それは、庭に咲く花の匂いだった。
嗅いだ瞬間に、なぜか胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
私はその手紙をポケットにしまい、いつものように「霧の海」へ向かおうとした。
けれど、広場の隅に誰かが座り込んでいるのに気づいた。
小柄な老人だった。
彼は膝を抱えて、まるで何かを待つように琥珀色の空を見上げていた。
「どうしたの? ここにいる人はみんな、手紙を書いていくのよ」
「ああ、お嬢さん。書いたんだ。さっき、ポストに入れたよ」
老人の声は、枯れ葉がこすれるような音だった。
私はハッとして、ポケットの中の白い封筒を見た。彼が書いたものだったんだ。
「おじいさん。この手紙、届けていいの?」
「……届けてほしい。でも、怖いんだ。」
老人は力なく笑った。
「私が死んだことなんて知ったら、息子は泣くかもしれない。私がいない世界で、あの子は生きていけるだろうか。いっそ、このまま消えてしまいたいとも思う。でも、あの子に伝えたいことが、どうしても消えないんだ。」
私はその言葉を聞いて、自分のポケットにある「宛先のない手紙」を思い出した。
『私のことは忘れて、幸せになってね。』
私も、あのおじいさんと同じように、誰かを悲しませないために「消える」ことを選んだのだろうか。
「……おじいさん。大丈夫よ。手紙はね、ただの紙じゃないの。想いを伝えるための、魔法みたいなものよ。」
私はそう言うと、霧の海へと足を踏み入れた。
霧の向こう側――現世の空気は、この街とは違う。
冷たくて、湿っていて、けれど、とても生きている匂いがした。
私は霧の境界から、現実世界の中にある小さな家を覗き込んだ。
そこには、一人の男がいた。老人の息子だろう。
彼は仕事帰りの疲れた顔で、キッチンで湯を沸かしている。
私はその背中に向かって、そっと手紙を差し出した。
手紙は、風のように彼の胸の中に吸い込まれていった。
次の瞬間、男が立ち止まる。
そして、驚いたように目を見開いて、ポロポロと涙を流し始めた。彼は空っぽの食卓に向かって、優しく微笑んだ。
「……ああ、お父さん。ありがとう」
その声を聞いた瞬間、霧の向こうで老人の姿が、淡い光となって弾けた。彼は満足げに、琥珀色の空の彼方へと消えていった。
私は、その光景を眺めていた。
消えていく彼を羨ましいとは、思わなかった。
ただ、胸の奥で、カチリ、と小さな音がしたような気がした。
私のポケットの中で、もう一通の古い手紙が、少しだけ熱を帯びていた。
それは、私の「記憶」を少しだけ呼び起こそうとしているみたいだった。
(……ねえ。私は、誰のお母さんだったのかしら?)
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
琥珀色の空が、一瞬だけ、現実世界のような深い青色に見えた気がした。




