第2話「噂は山を越える」
マリアが最初に診察室に来たのは、熱が引いてから十日後のことだった。
「先生」
離れの扉を叩いた声は、あの病床の頃とは別人のように張りがあった。
「入っていい」
扉が開くと、秋の光が差し込んだ。マリアは両手を後ろに回し、背筋を伸ばして立っていた。蒼白だった顔に血色が戻り、翠の瞳に生気が宿っている。
「どうしたの」
「弟子にしてください」
私は手元の薬草の選別作業を一度止めた。
「理由を聞かせて」
「先生が薬草を刻んでいるとき、火の色が変わって見えました」
私は少しだけ目を細めた。
「火の色が変わって見えた、というのはどういうこと」
「鍋の下の炎が、普通は橙色なのに、先生が薬草を加えると青くなる瞬間があるんです。私だけに見える色みたいで、お父さんには見えないって言われました」
私は作業台に肘をついて、マリアをまじまじと見た。
「精霊視」は、長い訓練の末に身につく技術だ——と、私は神殿で習った。ところが稀に、訓練なしで生まれつき持っている者がいる。そういう者は薬草や自然の流れの中にある魔力の筋を、色として感知できる。
「その色は、いつ見えた」
「先生が調合しているとき、ずっとです。青になったり、緑になったり。ドクダミの葉を加えると金色の筋が入りました」
私はゆっくり息を吐いた。
それは訓練で身につけるものとは、少し違う。生まれつきの「感知型精霊視」だ。神殿でも十年に一人見かけるかどうかの希少な能力で、古代治癒術との相性が極めて高い。
「今日から来なさい。朝の作業を一緒にやる」
マリアの目が大きく開いた。
「いいんですか」
「薬草の選別と、煎薬の管理だけ。最初は見て覚えなさい。触るのは私が良いと言ったものだけ」
「はい」
「薬を間違えると人が死ぬ。それだけは忘れないこと」
「……はい」
返事の声が、一段低くなった。理解した、という重みのある返事だった。
よかった、と思った。
才能があっても、怖さを知らない子は、必ずどこかで失敗する。怖さを知った上で学ぶ子の方が、遠くまで行ける。
マリアの弟子入りから一週間が過ぎた頃には、朝の作業が二人の日課になっていた。
私が薬草を刻む横で、マリアは見ながら学んだ。黙って見るだけでなく、色を報告した。「タンポポの根を加えたとき、鍋の中が金色の渦を巻きました」「今のは何も変わりませんでした」。その報告は、私には見えない情報だった。
「見えない」というのは正確ではないかもしれない。私も精霊視を使えば類似の情報を得られる。でも、精霊視は能動的に意識を向けなければ発動しない。マリアの感知は受動的だ——意識しなくても、常に流れを見ている。
それはまったく別の能力だ、と私は確信し始めていた。
「先生、あの薬草とこの薬草、色が似ています」
ある朝、マリアが言った。
私が見ると、彼女が指差したのはヤーロウとセイヨウノコギリソウだった。植物学的には近縁種だが、薬効は異なる。
「どんな風に似ている?」
「どちらも薄い黄緑で、でも片方の方が少しにごっている」
「そのにごり方が大事。にごっている方が炎症抑制の力が強い。でも使いすぎると体が慣れてしまう。澄んでいる方は穏やかに長期で使える」
マリアが素早くノートに書いた。
「色でわかるんですね」
「あなたにとってはわかる。それを言語化していくのが、これからの修行になる」
エルダースへ来て三週間が過ぎた頃から、診察に来る患者の数が増え始めた。
最初は村の人々だった。例の老人の膝、農夫の肩、子どものしもやけ。一人治すと、その家族が来た。家族が来ると、隣の家の者が来た。
村の中で特に印象深かったのは、ある老農夫の症例だった。
ハンスと名乗った六十代の男は、二十年来の腹痛を抱えていた。
「食べた後に必ず痛くなる。光治癒魔法を何度かかけてもらったが、そのときだけ楽になって、翌日には元に戻る」
精霊視で腹部を読むと、胃と十二指腸の境界に強い「詰まり」があった。慢性的な炎症が続いて、組織が硬くなっている。
「食事の後、どのくらいで痛みが出ますか」
「三十分ほどで。鋭い痛みです」
「脂肪の多いものを食べたときは?」
「そのときは特にひどい」
胆管の問題も絡んでいると判断した。光治癒魔法が一時的にしか効かないのは、症状の根がここにあることを示している。
「二つの問題が重なっています。胃の壁の慢性炎症と、胆汁の流れの悪さです。それぞれに対処しなければ、片方だけを治してもすぐ戻ります」
ハンスが目を細めた。
「王都の神殿医でも、そんなことを言った者はいなかった」
「胆管の問題は、症状から特定が難しいんです。精霊視で読まないと分かりにくい」
「治るか?」
「食事制限と薬草の組み合わせで、三ヶ月で七割は楽になると思います。完全に元に戻ることはないかもしれませんが、毎食後に痛みで動けなくなることはなくなる」
ハンスは長い間黙っていた。それから、かすれた声で言った。
「……二十年だぞ。二十年、毎食が怖かった」
私は何も言わずに、処方の紙を書いた。
慰めの言葉よりも、正確な処方の方が価値がある。
そのうち、隣村から人が来るようになった。
「あんた、本当に元聖女なのか」
ある朝、診察に来た中年の男が開口一番そう言った。狩人らしい日焼けした顔と、山歩きに慣れた頑丈そうな足をしている。
「元、です。今はただの治癒師です」
「そりゃどっちでもいいが——本物ってのは本当か」
「本物も偽物も、治れば同じだと思いますが」
男はしばらく私を見てから、口を開いた。
「女房が、足の付け根が痛くて歩けないんだ。半年前からで、光治癒魔法を使える旅の魔法師に診てもらったが、治らなかった」
「今日、連れてきていますか」
「馬車で来ている。外に待たせている。歩かせると泣くほど痛いと言うから」
「案内してください」
男の後をついて外に出ると、村の端に荷馬車が止まっていた。荷台に毛布を敷いて、四十代と思われる女性が横になっていた。
近づいて声をかける。
「こんにちは。どちらが痛みますか」
「……右です。足の付け根から、腿の裏あたりまで」
「いつ頃から」
「半年前、急に歩けなくなって。最初は腰かと思ったんですが、腰ではないと言われて」
私は膝をついて、女性の脚を観察した。
動きを確認する。左脚は正常。右脚は股関節の外転が制限されていた。筋肉ではなく、関節の問題だ。触れると、鼠径部の深部に圧痛がある。
「精霊視をしてもいいですか。目を閉じます」
私は軽く目を閉じて、手を添えたまま「読む」という状態に入った。
精霊視を使うと、体の中の流れが見える。正確には「見える」という感覚ではなく、温度と引力の違いとして感じる——私の場合は。神殿の師匠は「水流の音として聞こえる」と言っていた。人によって感じ方は違う。
右の股関節の深部に、異様な「停滞」があった。熱を持っているが、それは炎症の熱ではない。もっと古い、固まりかけた滞留。
——これは関節唇の損傷と、周囲の循環不全が合わさっている。
光治癒魔法が効かなかった理由もわかった。光治癒魔法は急性の炎症や傷口には効果があるが、「慢性的な循環不全」には届かない。根本にある原因を取り除かなければ、表面を塞いでもすぐ戻る。
「半年ほど前、重いものを持ったり、急な動作をしたりしませんでしたか」
「……そういえば」女性が少し考えた。「秋の収穫で、麦袋を一人で持ち上げたとき、股関節がずれたような感覚がありました」
「おそらく、そのときに関節唇を少し損傷して、そこから循環が悪くなったんだと思います」
「治りますか」
私は少し考えた。
「完全に元通りとは言い切れませんが、痛みを取り、歩けるようにすることはできます。少し時間がかかります。週に一度、ここに来てもらえれば」
「週に一度……でも、ここまで馬車で——」
「最初の一ヶ月は通院が必要です。その後は薬草の処方だけになるので、月に一度で済みます」
男が妻の手を握っていた。
「……頼む」と、低い声で言った。
その男の妻には週に一度通ってもらうことにした。最初の二週間は痛み止めの処方で急場をしのぎながら、並行して関節周囲の血流を改善する処置を始める。時間のかかる仕事だが、辛抱強くやるしかない。
他にもその日、子どもの消化不良を持ってきた母親がいた。原因は食事内容だった。この時期の辺境では冬支度が進んで、生野菜が減り、塩漬けと干し肉ばかりになる。食物繊維が不足すると腸の動きが悪くなる。処方はシンプルだ——キャベツの葉を炒めて食べさせること、それと消化を助ける薬草を三日分。「こんなことで治るんですか」と半信半疑の顔をしていたが、翌日には元気に走り回っていたと後から聞いた。
老人の目の充血も見た。長年の外仕事で、目の毛細血管が弱くなっていた。薬草を使った洗眼液と、目の周囲の経絡を刺激する処置。「王都の医者にかかっても治らなかった」と言っていたが、それもそうだろう——この症状は薬一発で治るものではなく、毎日の積み重ねが必要だ。
その日の夕方、私はマリアと一緒に薬草を仕分けながら、患者の記録を口述した。マリアが几帳面な字でノートに書き留める。
「先生、この人の治療はどれくらいかかるんですか」
「三ヶ月から半年」
「そんなに」
「関節の問題は時間がかかる。でも、ちゃんと治療を続ければ、必ず良くなる」
マリアがペンを走らせながら言った。
「私が見ていた青い色、あの人にもありました」
「どんな色だった」
「くすんだ青。先生の手が触れているところから、少し広がって——でも、先生が精霊視したとき、急に色が変わりました。くすみが取れて、透明になって」
私はマリアを見た。
「それを、今初めて言うの」
「言っていいのかわからなかったです。変なこと言ってると思われるかもって」
「変なことじゃない。それは精霊視の感知能力の一種だと思う。あなたには私よりずっと鋭い感知があるかもしれない」
マリアが少し目を丸くした。
「私の方が鋭い? でも先生の方が——」
「私は訓練で身につけた。あなたは生まれつき持っている。種類が違う。どちらが優れているかではなく、どう使うかが大事」
マリアはしばらく黙って考えていた。
「……先生は、自分の能力が人より劣っていると思ったことはありますか」
私は薬草を選びながら答えた。
「ある。宮廷では、派手な光治癒魔法を使える者の方が評価された。私のやり方は地味で、時間がかかる。『それは古臭い』と言われ続けた」
「でも先生は、やめなかった」
「患者が治るから」
それだけだ、と思う。評価は後からついてくる。あるいは、ついてこない。でも患者が治るという事実は変わらない。
「私も、自分の色が見える能力を使えるようになりたいです」
「なれる。時間がかかるけど」
マリアは頷いた。その顔に、今日初めて、確固とした決意のようなものが宿ったように見えた。
十一月に入ると、山の峠に初雪が降った。
エルダースの冬は早い。十月の終わりから朝の気温が一桁になり、村人たちは薪の準備と食料の備蓄に忙しくなる。峠を越える行商人の数も減り始めた。
それでも、私の元に来る患者は増え続けた。
隣村だけでなく、二つ先の村からも来るようになった。誰かが「エルダースに治癒師が来た」と伝えたのだろう。行商人の口から、商人の口へ。峠道は通れても、噂は越えていく。
日によっては十人以上の患者を診ることになった。
長年放置された慢性病が多かった。腰痛、関節の炎症、皮膚疾患、慢性的な消化不良。命に関わるほどではないが、毎日の生活を苦しくしている症状ばかりだ。
そういう患者を診るたびに、私は怒りに似た感情を覚えた。
一つ一つは大したことでない。ちゃんとした治療を受ければ、多くは半年以内に楽になる。でも医療へのアクセスがないというだけで、何年も何十年も痛みを抱え続けている。
「仕方がない」と思って生きている人たちがいる。
仕方がないことなど何一つない、と私は思うが、それを声に出す場面ではなかった。ただ、目の前の患者に向き合うだけだ。
そうして診察が積み重なるうちに、少しずつ変化が起きた。
患者の家族が薬草を持ってきてくれるようになった。報酬として払えるものがないから、代わりに山で採ってきた薬草を、という形だ。これは非常に助かった。遠方から調達しなければならない薬草も、地域の人間が案内してくれれば効率よく集められる。
マリアの父ヨーゼフ村長も、空いていた畑の一角を使わせてくれた。春に向けて、薬草を植える準備を始めた。
ある夕方、私が畑の土を耕していると、見知らぬ騎馬の一行がエルダースの入口に現れた。
馬は二頭。一頭には若い騎士が乗り、もう一頭には初老の男が乗っていた。二人とも良質な外套を身につけていたが、旅塵で汚れていた。長い道を来たのだろう。
騎士が馬を降り、私の方に歩いてきた。
「こちらに、アイリス・フォン・ヴァルテリア先生がおられると聞き、参りました」
若い騎士は二十代前半で、生真面目そうな顔をしていた。甲冑ではなく、旅装束だが、背筋が良い。軍人か、近衛の出身だろう。
「私がアイリスです」
「エーレンベルク辺境伯クラウス様のご家令、ランベルト・ノイマンと申します」
エーレンベルク辺境伯——名前は聞いたことがあった。
この地域一帯の領主で、王都からは遠い。古い家の貴族で、農村部の管理を自力でやっていると聞いていた。エルダースもその領内のはずだ。
「エーレンベルク辺境伯の家令の方が、私に何の用でしょう」
「辺境伯様の義弟の御子息が、一ヶ月前から原因不明の高熱と意識の混濁が続いております。王都の医師や神殿の治癒師も手を尽くしましたが、快復の見込みが立たず——先生の名を耳にした辺境伯様が、一度診ていただけないかと、お願いに参りました」
私は少しの間、男を見た。
辺境伯の義弟の子。王都の神殿も手が出ない症例。
「症状を詳しく教えていただけますか。高熱と意識の混濁、ということですが——」
「はい」ランベルトは丁寧な口調で続けた。「お子様の年は七歳。一ヶ月前の朝、急に意識が朦朧として倒れ、その後から発熱が続いています。熱は三十八度から三十九度の間で上下し、完全に下がることはありません。食事はほとんど取れず、水分だけで保っています。意識は完全には失っていませんが、会話が難しい状態です」
「神殿の治癒師はどのような診立てをしましたか」
「脳への感染、あるいは精神的な呪いによるものではないか、という見解でした。しかし、呪いの解除を試みても変化がなく——」
「呪いではないと思います」
私は口を挟んだ。
「なぜそう言えるのですか」
「症状の経過から。呪いによる意識障害は、通常もっと急激に進行します。一ヶ月にわたって同じ状態で留まるのは、身体的な疾患の経過です。おそらく脳や脊髄への感染症か、あるいは希少な代謝系の病気です」
ランベルトが深く息を吐いた。
「先生のおっしゃる通りかもしれません。辺境伯様も同じ疑念を持っておいでで——だからこそ、先生を探しました」
「エルダースの名前はどこから」
「行商人からです。『辺境に元聖女の治癒師が来て、難病を治している』という噂を聞きました。辺境伯様は最初は信じておいでではありませんでしたが、念のため確かめに来るようにと」
私は考えた。
エーレンベルク辺境伯の城は、ここから馬で二日ほどの距離にあるはずだ。往復の時間を含めると、五日前後の不在になる。
その間、エルダースの患者たちはどうなるか。
「少し時間をいただけますか。引き継ぎの準備があります」
ランベルトが目を見開いた。
「……引き受けていただけるのですか」
「診てみないとわかりません。ただ、可能性がある場合は、診ないよりも診る方がいい」
「ありがとうございます。辺境伯様も喜ばれると思います」
「明後日、出発できます。今日明日は、緊急の患者への対応と、引き継ぎに使わせてください」
「承知しました」
私はランベルトに簡単な宿を紹介し、離れに戻った。
マリアが入口で待っていた。
「聞いていたの」
「すみません、少しだけ」
「明後日から五日ほど、辺境伯の城へ行く。その間のこと、村長に話を通してくれる?」
「先生がいない間の患者さんは」
「緊急でない人は待ってもらう。処方を終えている人は薬草だけ渡してある。本当に急を要する場合は——」
私は少し考えた。
「マリア、脈の取り方を教える。今夜」
マリアが真剣な顔で頷いた。
その夜、私はランプの光の下でマリアに基本的な診察の方法を教えた。
脈の取り方。呼吸の観察。発熱の判断。
本格的な治療はできない。でも「これは緊急か、そうでないか」の判断だけは、できるようになってほしかった。
「脈を取るとき、指先の圧を変えながら確認する。強く押したときに消える脈は弱い。強く押しても残る脈は力がある。今試してみて」
マリアが私の手首に人差し指、中指、薬指の三本を当てた。
「……これで合ってますか」
「ちょうどいい。どう感じる」
「規則的で、割としっかりある。少し早い気がします」
「今の私は少し疲れているから、少し早いのは合ってる。正確に読めている」
マリアの目が輝いた。
「次は、発熱の確認の仕方。額だけじゃなくて、首の後ろと、脇の下も確認する。三カ所を同時に触って、違いを見る」
説明しながら、私は思った。
この子は覚えが早い。ノートにメモを取るだけでなく、自分の感覚で確認しようとする。質問の仕方が的確だ。
「先生が戻るまで、六日以内に誰かが急変したら——」
「まず私の記録ノートを見なさい。似た症状のページが必ずある。判断できなければ、ヨーゼフの奥さんを呼ぶ。二人で相談して、一致したら実行する。一致しなければ、何もするな」
「何もしないのが正解なんですか」
「何もしないことで悪化する症例より、何か余計なことをして悪化する症例の方が多い。判断できないなら待て。それだけ」
マリアは真剣な顔でノートに書いた。
「わかりました」
「覚えられる?」
「覚えます」
マリアは記録ノートにびっしりとメモを取っていた。
「先生、辺境伯のお城、どんなところですか」
「行ったことはないからわからない。大きいんじゃないかな」
「帰ってきたら教えてください」
「教える」
マリアが頷いた。それから少し間を置いて、言った。
「先生が来てから、村が変わってきている気がします」
「どんなふうに」
「みんながなんか、元気そうで。体の痛みが減ると、気持ちも明るくなるみたいで——私も、病気の前より元気です」
私はランプの炎を少し見てから、答えた。
「それは、あなたたちが元々持っていたものが戻ってきただけ。私がしたことは、少し邪魔なものを取り除いただけです」
「それって——」
「体が持っている力を引き出す、というのが古代治癒術の根本です。力そのものは、最初からそこにある」
マリアはしばらく黙っていた。
「先生は、なんでそんなに知っているんですか」
「十年間、それだけを考えていたから」
シンプルな答えだが、それ以外の言い方が見当たらなかった。
王都で婚約者がいた頃、宮廷の夜会に出ながら、私はずっと治癒のことを考えていた。パートナーとのダンスの合間に、午前中の患者の薬草組み合わせを頭の中で検討していた。
エドワード様は私が「ここにいない」ことに、最終的には気づいたのかもしれない。
それについて後悔はない。
翌朝、私は引き継ぎの文書を作り始めた。
現在診ている患者のリスト、それぞれの症状と処方内容、緊急度の判断基準。マリアと村長の妻に渡す用の、できる限り分かりやすい書き方で。
「先生、この患者さんの薬草は毎日一包でいいんですか」
「二日に一包。多すぎると胃に来るから」
マリアが素早く訂正した。
「赤い点が今週届く予定だった薬草、もし来たら冷暗所に保管しておいて。私が戻ったら仕分けする」
「わかりました」
昼過ぎ、外が少し騒がしくなった。
ランベルトが馬の世話をしていた辺りから、複数の声がしている。覗いてみると、村の老人たちが三人、騎馬の男二人を取り囲んでいた。
「この治癒師は大事な人なんだ。お城に連れて行くなら、ちゃんと帰してもらわないと困る」
老人の一人が、頑として立っていた。
ランベルトが困惑した顔で言い訳をしている。
「もちろん、お戻りいただく予定で——」
「お城の偉い人は、気に入った者を手放さないって聞くぞ」
「それは誤解で——」
「アイリス先生は、この村の宝なんだ。持っていくな」
私は苦笑して、外に出た。
「大丈夫です。必ず戻ります」
老人三人が振り向いた。
「……本当かい」
「本当です。ここに薬草を育てる畑もあるし、弟子もいる。逃げる理由がない」
老人たちが顔を見合わせた。
「……先生が言うなら」
「お城の子供は先生が来ないと死ぬかもしれないんだよ。行かせてあげなさい」
その言葉は、村長の妻だった。エプロン姿のまま、手を腰に当てて立っている。
老人たちが渋々、道を開けた。
ランベルトが、呆気に取られた顔で私を見た。
「……先生は、村の方々に慕われているのですね」
「三週間で、そこまで言えるかどうか」
「いいえ」ランベルトは真剣な顔で言った。「慕われています。間違いなく」
その夜、村長のヨーゼフが離れに来た。
「明日、辺境伯の城へ行くと聞いた」
「はい。六日ほどで戻ります」
ヨーゼフは少しの間黙ってから、言った。
「辺境伯様に会うなら、一つお願いがある」
「何ですか」
「村の薬草畑のことを話してほしい。今は端の使っていない畑一区画だが、もし辺境伯様の許可が出れば、南側の斜面を少し使えるかもしれない。あそこは日当たりがよくて、薬草に向いている」
私は少し考えた。辺境伯への直接の依頼は、今回は医療相談として呼ばれているので、別件を持ち込むのは少し気が引けた。でも——
「わかりました。話す機会があれば、伝えます」
「助かる。この村だけじゃなくて、周りの村も使えるような薬草供給の拠点が作れれば、先生の仕事ももっとやりやすくなると思ってね」
私はヨーゼフを見た。
この人は、最初から先生をここに永住させるつもりで考えていたのだろうと、初めて気がついた。
「……先を見ていますね」
「村長の仕事なんで」とヨーゼフは照れもせず言った。「先生がいなくなったら、また困るだけだから。長くいてもらえるように、環境を整えるのが私の役目ですよ」
私は少しだけ笑った。
「できる限り長くいるつもりです」
「それを聞いて安心した」
ヨーゼフは立ち上がり、戸口に向かった。それから振り返って、言った。
「辺境伯様に、よろしく伝えておいてください。エルダースの村長として、先生を大切にするつもりだと」
なかなか豪快なことを言う、と私は思ったが、悪い気はしなかった。
翌朝、私はランベルトと騎士と共に馬車でエルダースを出た。
見送りにきた村人は二十人以上いた。マリアが一番前に立って、真剣な顔で私を見ていた。
「行ってきます」
声をかけると、マリアが頷いた。
「帰ってきてください」
「帰る」
馬車が動き出すと、村人たちの声が遠くなった。
窓の外に、秋の山が続いている。紅葉は峠を越えて中腹まで降りてきていた。橙と赤と黄、それから常緑の緑が混じって、複雑な色になっている。
エルダースに来て一ヶ月も経っていない。
でもすでに、「帰る場所」という感覚があった。
王都を出たときは、どこへ帰るのか、という問いがあった。今は違う。あの小さな村の、ランプの灯った離れが、私の場所だった。
馬車は山道を進んでいった。
窓に頬を当てながら、私は辺境伯の城のことを考えた。七歳の子供。一ヶ月の高熱と意識障害。王都の神殿が手を出せなかった症例。
原因の可能性をいくつか頭の中で並べた。
脳脊髄液の感染症。自己免疫性の脳炎。代謝異常。ごく稀な遺伝性疾患。
精霊視で読み取れるかどうか——実際に診てみないとわからない。
でも、試してみなければ何も変わらない。
それは、マリアの灼熱熱病のときと同じことだった。
山道の先に、次の試練が待っている。
私は荷物の中の治療道具の重みを確認しながら、窓の外を見続けた。




