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第1話「婚約の終わり、旅の始まり」

「アイリス、話がある」


 エドワード様の声に、私は振り返った。


 王宮の回廊。夕陽が石畳を染める時間。いつも逢瀬の場所として使っていた廊下の端——でも今日は違う。侍従二人が控えていた。正式な場所に呼ぶような、重大な話をする時の配置だ。


 私は何も感じなかった。正確には、すでに予感していた。


「聞いています、殿下」


「婚約を解消したい」


 エドワード様は、まっすぐ私を見つめた。その目には罪悪感も迷いもなく、ただ決定事項を伝える人間の目があった。


「理由を聞かせていただけますか」


「お前の治癒術は、時代遅れだ」


 私は少しだけ目を細めた。


「……時代遅れ」


「そうだ。神殿の古い術式、精霊への祈祷、薬草の調合。百年前の技術だ。今の宮廷では光魔法が主流になっている。王妃となる者が、前時代的な術式に固執するのでは国家の品位にかかわる」


 廊下の端から、人の気配がした。薄緑のドレス。金色の巻き毛。十八歳にしては大人びた立ち姿——神殿の見習いとして半年前に来たばかりの少女、セリア・アーヴィング。


 貴族令嬢だが後ろ盾の薄い家の出身で、光魔法の才能を持つ。それだけを知っていた。


 あとは、ここ数ヶ月、エドワード様が神殿を訪れる回数が急に増えていたこと。


 二つの情報は、今この瞬間、完璧に合わさった。


「なるほど」


「……それだけか?」


 エドワード様の眉がわずかに動いた。怒りではなく、困惑だと思う。泣き崩れるとか、怒鳴るとか、そういう反応を期待していたのかもしれない。


「はい。それだけです」


 私はスカートの裾を軽く持ち上げ、一礼した。


「婚約の解消、承りました。ご縁がありましたら、またどこかで」


 振り返って歩き出した。


 後ろからセリア様の声が聞こえた——「本当によかった、エドワード様」。エドワード様が何か答えている。でも私はもう聞いていなかった。


 頭の中で、計算していた。


 神殿に戻ったら何をしなければならないか。引き継ぎ書類の準備。薬草の在庫確認。進行中の患者の記録。弟子たちへの引継ぎ。


 聖女の婚約が解消された場合、慣例に従えば神殿の聖女位も返上することになる。十年かけて積み上げた地位だが、地位のために患者を置き去りにするわけにはいかない。丁寧に引き継ごう。


 夕陽が、長い廊下に私の影を伸ばしていた。





 私がヴァルテリア公爵家の次女として生まれたのは二十二年前のことだ。


 物心ついた頃から、庭の薬草を引っこ抜いては潰して、虫の傷に塗ったり、使用人の頭痛に当てたりしていた。母は呆れていたが、やめさせなかった。「アイリスが薬草に触ると、なぜか治りが早い」という事実の前では、叱る理由が見つからなかったのだろう。


 十二歳で神殿付きの薬師見習いになり、十五歳で独り立ち、十八歳で「聖女補」、二十歳で「聖女」に任じられた。


 神殿の歴史上、最年少での聖女叙任だった。


 といっても、聖女の仕事は華やかではない。祭事の時は白い衣を着て祈祷の儀式に参加するが、日常業務の九割は治癒だ。難病患者の往診、疫病の対応、出産時の緊急処置、戦場帰りの重傷兵の看護。地味で、泥臭く、時に血と膿で手が荒れる仕事。


 でも私はそれが好きだった。


 「古代治癒術」と呼ばれる技術がある。精霊の力を借りて患者の体内の流れを読み、薬草の成分を正確に組み合わせて、本人の自然治癒力を最大限に引き出す術式だ。魔力を大量に消費する「光治癒魔法」とは根本的に異なる。


 光治癒魔法は確かに即効性がある。傷口を一瞬で塞ぎ、骨折を数分で治す。見栄えがいい。


 でも。


 本当に難しい病——慢性疾患、複合感染、長年に渡る精神的な傷——に対しては、光治癒魔法では表面しか塞げない。根を断たなければ、一年後には必ず戻ってくる。


 それを言い続けてきた十年間だったが、宮廷では理解されなかった。


 華やかな見栄えを好む貴族たちにとって、「時間をかけて根本から治す」技術より、「その場で光輝いて傷が塞がる」技術のほうが価値があるらしかった。


 だからエドワード様の決断は、実のところ驚きではなかった。


 ただ——


 患者たちのことは、気がかりだった。





 神殿に戻ったのは夜になってからだった。


 弟子の一人、ニーナが回廊で待っていた。十六歳、薬草調合が得意な子だ。何かを察した顔をしていた。


「……先生、顔色が悪いです」


「そうかな」


「そうです。何があったんですか」


 私は少し考えてから、正直に言った。


「婚約を解消された。それと、おそらくこれに伴い聖女位も返上することになると思う」


 ニーナの顔から血の気が引いた。


「え……え? でも、第二王子と——」


「終わったの。気にしなくていい。それよりも、引き継ぎの書類を手伝ってもらえる? 三号室の患者さんの記録が特に複雑だから、次の担当者に分かりやすく伝えなければ」


「引き継ぎって——先生、どこへ行くつもりなんですか」


 私は窓の外を見た。


 王都の夜景。一万以上の人口を抱える大都市の、無数の明かり。十年間、この光の中で暮らしてきた。


「まだ決めていないけれど」


 そう言いながら、心の中には一つの地名が浮かんでいた。


 エルダース。


 王国の東の端、山脈の麓に位置する辺境の村。人口三百人ほどの小さな集落で、最寄りの神殿まで馬車で三日かかる。医療事情が極めて悪い——そういう報告書を、三年前に読んだことがあった。


 改善要請が来ていたが、予算がなく、担当する医師や治癒師がいなかった。神殿としては「保留」のまま放置していた。


 誰も行きたがらない場所。


 それは、つまり、必要とされている場所でもある。


「先生が辺境に行くなら、私も——」


「ダメ」


 ニーナが言いかけたのを、私は遮った。


「あなたはここにいなさい。あなたの師匠と一緒に勉強を続ければ、五年後には立派な薬師になれる。辺境に連れて行けない」


「でも」


「連れて行けない、って言ったでしょ」


 ニーナの目に涙が浮かんだ。私は彼女の頭をそっと撫でた。


「大丈夫。私のことは心配しないで。あなたは、目の前の患者さんのために働きなさい」


 それが治癒師の仕事だから。





 正式な手続きに一週間かかった。


 神殿長は形式上は慰留したが、本気でそうは思っていないことは態度でわかった。エドワード様の婚約者という立場が聖女位に権威を与えていた部分があり、婚約解消によってその後ろ盾が消えた。私は政治的には「手放しやすい」人材になっていた。


 貯えは少なかった。神殿勤めの給金は決して高くなく、治療道具や薬草に多くを使っていた。それでも、馬車代と最初の数ヶ月の生活費くらいは賄える。


 旅立ちの朝は、秋の空気が澄んでいた。


 荷物は小さなトランク一つ。調合道具と薬草のセット、着替えが数枚、それから十年間書き続けた治療記録のノートが数冊。重いが、これだけは手放せない。


 神殿の門を出たとき、ニーナが追いかけてきた。


「先生!」


 小走りに近づいてきて、布袋を押しつけてきた。中身が重い。


「何が入っているの」


「薬草です。辺境は採れる種類が限られるから。あと……みんなからのお餞別も」


 布袋の中に、小さな袋がいくつも詰められていた。弟子たちが集めてくれたのだろう。金額は大した額ではないと思うが、気持ちは十分に伝わった。


「……ありがとう」


「必ず手紙を書いてください」


「書く」


「約束ですよ」


「約束」


 馬車が来た。私は荷物を積み、振り返った。


 神殿の白い壁。十年間が詰まった場所。


 後悔はなかった。ただ、静かな感謝があった。


「行ってくる」





 王都から辺境エルダースまで、馬車で五日の行程だった。


 最初の二日間は、整備された王道を走った。宿場町ごとに止まり、乗客が乗り降りする。商人、行商人、旅人。そのほとんどが途中の町で降りた。四日目には、私一人になっていた。


 出発から三日目、道は急に細くなった。整備された街道から外れ、山道に入る。木々が深くなり、空気が変わる。澄んでいるというより、野生の匂いがした。草と土と、遠くから獣の気配。


 馬車の揺れが大きくなった。石畳が終わり、固められた土道になる。それも段々と轍の跡だけになり、やがて山の斜面を縫う細道になった。


 馬車の御者は寡黙な老人だった。白髪交じりの顎鬚、年季の入った外套。エルダース行きの定期便を一人で運営しているらしく、馬のことを我が子のように話す。


 四日目の夕方、山道の途中の小屋に泊まった。老人が勝手知ったように火を起こし、干し肉と豆を煮た。素朴な食事だったが、美味しかった。


「この辺に熊は出ますか」


 食後に聞くと、老人は頷いた。


「秋になると食いもの探して下りてくる。でも、道に慣れてる馬は怖がらないから大丈夫ですよ」


「馬が怖がらないなら、人は大丈夫ということですか」


「大体はね。まあ、深夜に一人で歩くのはお勧めしないけど」


 老人は少し笑った。人の少ない山道で、それが久しぶりの会話らしかった。


「聖女様は、なんでエルダースへ?」


 出発から一日半、ようやく彼が本題を口にした。


「治癒師として働くために」


「治癒師が? エルダースに?」


「それがおかしいですか」


「おかしいというか——」老人は少し言いよどんだ。「エルダースには、もう何年も医者も治癒師もいないんです。いない間に、ずいぶん体が悪い人が増えてしまって。でも今さら来てもらっても、報酬を払える余裕がないって……」


「知っています」


「知っていて?」


「来る前に調べました。村の財政状況も、医療の状況も」


 老人が不思議そうな顔で私を見た。


「なんで、それで来ようと思ったんです?」


 私は窓の外を見た。木々の間から、遠くの山が見えた。山が近くなっている。もうすぐエルダースだ。


「必要とされているから、です」


 老人は少しの間黙っていた。火が、小さく爆ぜた。


「……うちの婆さんも、ずっと体が悪いんです」老人が静かに言った。「腰で、動けなくて。神殿には遠いし、旅費もかかるし」


「エルダースに着いたら、診ましょうか。症状を詳しく教えてもらえれば」


 老人が驚いた顔をした。


「え、でも——」


「余分な薬草は持ってきています。何かできることがあれば」


 老人は少しの間、私を見た。それから「そうか」と低く言った。それ以上は何も言わなかった。でも、翌朝の馬車の揺れが、不思議と穏やかになった気がした。





 エルダースについたのは五日目の昼頃だった。


 村の入口に立って、私は息を吸った。


 想像より小さかった。木造の家が三十棟ほど、緩やかな坂に沿って並んでいる。中央に広場があり、井戸と石畳の小道がある。村の外れには畑と、小さな牧場。山を背にして、谷間にひっそりと存在している。


 人の姿がほとんどなかった。働き盛りの男たちは農作業に出ているのかもしれない。広場に老人が二人、日向ぼっこをしていた。


 馬車が止まると、老人の一人が立ち上がって近づいてきた。背が曲がり、杖をついている。七十代だろうか。


「旅人さんですか? 珍しい。エルダースに何の用で」


「治癒師です。しばらくここで働かせていただきたい」


 老人が目を大きく開いた。


「……ほんとに?」


「はい」


 もう一人の老人も立ち上がった。二人は顔を見合わせた。


「治癒師が来てくれた——」


 感慨深そうな声だった。その声に、なにか湿ったものが混じっていた。


「宿と作業場を探しています。ご存知であれば教えていただけますか」


「ああ、ああ、そうだ。村長のヨーゼフに話してみよう。ちょうど——ちょうどよかった。今年の冬は、早そうだから」


 老人は急に早足になり、坂を上り始めた。私は荷物を持って後に続いた。





 村長のヨーゼフは五十代の男で、農民らしい日焼けした顔と、実直そうな目をしていた。事情を話すと、長い間黙って聞いていた。


「……報酬は出せない。今は」


「構いません」


「暖かい飯と、寝る場所は用意できる」


「それで十分です」


 ヨーゼフが私をじっと見た。


「なぜ来た。婚約が解消されたからか」


 村の外まで噂が届いているとは思っていなかった。私は少し驚いた。


「届いているんですか、そういう話は」


「行商人が運んでくる。第二王子が婚約者を変えたって話は聞いた。その婚約者が聖女だったってのも」


 私は少しの間考えた。


「理由の一つではあります。でも——」


 正直に言った。


「ここに来る患者さんは、私が来なければ治らないかもしれない。それが主な理由です」


 ヨーゼフはため息をついた。深い、疲れたため息。


「実は今、一人、どうにもならない患者がいる」


「どんな症状ですか」


「娘だ。十四歳の。高熱が二週間続いている。食事も取れなくなっている」


 私は立ち上がった。


「案内してください」





 ヨーゼフの家は村の中心にあった。


 途中で、村の様子をすこし観察した。


 家の前に干してある洗濯物。井戸の縁に座って話している女性が二人。遠くから子どもの声。──一見、穏やかな村の光景だ。でも目を凝らすと、細かいところが気になった。


 老人の一人が、歩くたびに左足を引きずっていた。膝か、股関節だろう。慢性の炎症は、適切に処置しないと十年二十年と続く。


 井戸の傍の女性の一人が、頬をしきりにさすっていた。歯の痛みか、神経痛か。


 畑の端に立っている男性は、背中を曲げたまま右腕を伸ばせないでいた。肩の拘縮だろう。放置すると凍結肩になる。


 三百人の村に、治癒師が何年もいなかった。そのことが、こういう積み重なりとして村の中に蓄積されている。命に関わるほどの急病ではないが、毎日の痛みが人の生活を少しずつ削っていく。


 やることは多い、と思った。でも、それは希望でもあった。


 案内されたのは、小さな寝室だ。木製のベッドに、少女が横たわっている。


 蒼白の顔。唇が乾いて、切れている。呼吸が浅い。目を閉じているが、苦しそうな眉根の寄り方が、意識はあることを示していた。


「名前は」


「マリアです」


 私はベッドの傍らに膝をついた。少女の手首を取り、脈を確認した。速いが、不整ではない。次に額に手を当てる。高熱——三十九度以上だろう。続いて腹部を軽く触れて、リンパ節を確かめる。


「いつから食べていない」


「五日前から。水は飲めるが、何かを食べると吐く」


「目が黄色くなっていますか」


「少し……そうかもしれない」


 私は少女の瞼をそっと開いた。眼球の白目が、わずかに黄みを帯びていた。


 ——肝臓だ。


 高熱と黄疸、嘔吐。食欲不振。二週間の経過。これは肝臓への感染症——おそらく「灼熱熱病」と呼ばれる疾患だ。山間部に多い、夏から秋にかけて流行る病で、適切な対処をしないと肝不全に至る。


 光治癒魔法では、この病の原因を取り除けない。炎症を抑えることはできるが、肝臓そのものの機能を回復させるには、特定の薬草を組み合わせた解毒処理が必要だ。


「薬草はありますか。ヤーロウ、タンポポの根、マリアアザミ——この三つが必要です」


「ヤーロウなら畑の端に生えていた。タンポポも。でもマリアアザミは——」


「山に生えているはずです。標高八百メートル前後の岩場に。今から採ってきます」


「採りに行く? もう昼を過ぎて——」


「間に合います。戻り次第、すぐ調合します。今夜から治療を始めれば、三日以内に熱は下がる」


 ヨーゼフが私を見た。信じていいのか、信じていいのかという顔で。


「本当に治るか」


「断言はできません。でも、試しなければ何も変わらない」


 私は立ち上がり、薬草採集の道具をトランクから取り出した。


「ヤーロウとタンポポの根は、採集をお願いできますか。綺麗な水で根を洗って、待っていてください。私が戻ったら、一緒に調合します」





 山道は急だった。


 重い荷物を担いで坂を登りながら、私は息を整えた。秋の山は静かで、鳥の声と葉の擦れる音だけが聞こえる。王都の雑踏からは想像もできない静けさだ。


 よかった、と思った。


 理由は上手く説明できないが、この静けさが心地よかった。評価されることへの疲れ、評価されないことへの疲れ、その両方が、山の空気の中に溶けていくような感覚があった。


 岩場に差しかかった頃、目的のものが見えた。薄紫の小花、鋭く切れ込んだ葉——マリアアザミだ。岩の割れ目から力強く生えている。


 丁寧に根元から刈り取る。根に近い部分が最も有効成分が濃い。採りすぎず、来年も生えてくるように、三割ほどを残す。


 帰り道に、ふと立ち止まった。


 谷の向こうに、夕陽が落ちていた。


 橙と赤と、少しの紫。雲が染まって、山の稜線が影絵のように浮かぶ。王都では高い建物に遮られて、こんな夕陽は見られなかった。


 ここに来てよかった、と思った。


 婚約が終わったことを、悲しいとは思っていなかった。エドワード様のことは——好きでいたと思うが、「この人に付き合っていたら、本当にやりたいことができなくなる」という感覚も、ずっと持ち続けていた。


 宮廷の政治。貴族同士のつきあい。舞踏会の作法。そういったものが、徐々に治療の時間を奪っていく。それが嫌だったのかもしれない。


 山を下りながら、私は決めた。


 ここに根を下ろそう。





 ヤーロウとタンポポの根は、ヨーゼフの奥さんが綺麗に洗って待っていてくれた。


 私は作業台を借りて、三つの薬草を刻み始めた。


「見ていていいですか」


 奥さんが聞いた。五十代の人で、農村の女らしい、節くれだった手をしている。目が真剣だった。薬草のことを学ぼうとしている目だ。


「どうぞ」


 私は説明しながら刻んだ。


「マリアアザミには、肝臓を守る成分が含まれています。ヤーロウは抗炎症。タンポポの根は解毒と利尿を助けます。この三つを正しい比率で合わせて、特定の温度で煎じると、それぞれの成分が最もよく溶け出す」


「どうしてそんなことがわかるんですか」


「精霊視という技術があります。薬草の中に流れる力の筋を、直接見る方法です。何十年も訓練すると、どの薬草のどの部分に何が含まれているか、うっすらわかるようになる」


「……魔法じゃないんですか?」


「魔法とは少し違います。精霊の力を借りるのですが、光を出したり、直接体を変えたりするのではなく、ただ『読む』だけです。地味です」


「地味でも、効くんですか」


「効きます。時間はかかりますが、確実に」


 奥さんが鍋の火を調整しながら、小声で言った。


「マリアは、生きますか」


 私は少しだけ考えた。安易な保証はしたくなかった。


「全力を尽くします。おそらく、助けられると思っています」


「おそらく、というのは」


「医療に絶対はないんです。でも——私の見立てでは、まだ手遅れではない」


 奥さんは静かに頷いた。泣いていなかった。強い人だと思った。





 煎じ薬ができたのは夜になってからだった。


 色は濃い茶色で、香りは独特だ。苦みと、少し土っぽい匂い。見た目も香りも、体に良さそうには見えない。そういうものだ、と私は思う。効くものはたいてい、飲みやすくない。


 鍋から土瓶に移して、粗熱を取る。その間に、量を確認した。体重に対して適切な量を算出する。マリアは小柄で痩せている——今は病気でさらに減っている。慎重に測った。


 マリアに飲ませると、最初は拒否するように首を振った。でも私が「一口だけでいい」と言い続けると、わずかに口を開けた。


 苦い顔をした。


「苦いね」


 私が言うと、マリアはかすかに目を開けた。


 翠の瞳だった。小さな顔に、不釣り合いなほど大きな瞳。


「……苦い」


 初めて声を聞いた。かすれていたが、ちゃんと声だった。


「三日間、一日三回飲んでもらう。苦いけど、頑張れる?」


 マリアはしばらく私を見つめていた。見知らぬ人間を値踏みするような目だったが、やがて短く言った。


「……先生は、誰?」


「アイリス。治癒師です。今日からここで働きます」


「ここに住むの?」


「住みます」


「ずっと?」


「できるだけ長く」


 マリアはもう一度、私を見た。


「……苦いの、飲む」


 それが、マリアと私の最初の会話だった。





 それから、村長のヨーゼフに今夜の礼を言った。


「どうもありがとうございます。明日から、村の患者さんを診させていただいてもいいですか。一人一人の状態を確認したいのですが」


「……もちろんだ。でも、本当に報酬を受け取らなくていいのか」


「今は要りません。落ち着いたら相談させてください」


「相談というのは」


「村の中で、薬草を育てる畑を一区画、使わせていただきたいんです。市場から薬草を買い続けるのは、辺境では難しい。自分で作れれば、長期的には村の負担も減ります」


 ヨーゼフは少し驚いた顔をした。


「それくらいなら……。正直、去年から使っていない畑がある。好きに使ってもらって構わない」


「ありがとうございます。来年の春までには、基本的な薬草が揃えられると思います」


 ヨーゼフが、静かに言った。


「……あんたみたいな人が来てくれるとは思っていなかった」


 私は小首をかしげた。


「どういう意味ですか」


「神殿の聖女が来るって聞いて、最初は嘘だと思った。こんな村に、なぜ聖女が——って。今も、半分信じられない」


「私は元聖女です。今は、ただの治癒師です」


「そうか」


 ヨーゼフはしばらく黙って、それから頷いた。


「よろしく頼む、アイリス先生」


 先生、と呼ばれた。


 不思議な響きだった。王都では「聖女様」と呼ばれ続けた。それが当たり前だったから、ただの「先生」という言葉が新鮮に聞こえた。


 その夜、私はヨーゼフ家の離れに用意してもらった小さな部屋で、ランプの光の下で記録ノートを開いた。


 一ページ目に書いた。


 *エルダース。秋の始まり。最初の患者、マリア(十四歳)。灼熱熱病。三種複合煎薬を投与。経過観察中。*


 ペンを置いて、窓の外を見た。


 星が出ていた。王都では見えない数の星が、山の暗闇に無数に輝いていた。


 婚約が終わった。十年勤めた神殿も去った。


 でも私は今、正しい場所にいる気がした。


 必要とされる場所に、技術を持った人間がいる。それだけで十分だった。





 三日後、マリアの熱は三十七度台まで下がった。


 五日後には自分で起き上がり、粥を食べた。


 一週間後、マリアが離れの扉を叩いた。


「先生」


「どうしたの」


「出かけていい?」


 私は少し考えた。外出するには、まだ早いかもしれない。でも外の空気を吸いたいという気持ちも、回復の一つだ。


「十分だけ。あと、重いものを持たないこと」


 マリアは頷いて、小走りに出て行った。


 離れの窓から、マリアの後ろ姿を見送った。秋の光の中を走っている。


 ここでやっていける、と思った。


 最初の患者を助けた。それだけでよかった。


 のちに私は知ることになる——この村でマリアを助けたことが、すべての始まりだったということを。マリアが私の最初の弟子になること、彼女の天才的な魔力感知能力が古代治癒術と組み合わさって、この辺境の村を変えていくことを。


 そして、王都の方角から、一年後に一つの知らせが届くことも。


 新しい聖女では、疫病に対応できなかった——と。


 でも、それはまだ先の話だ。


 この秋の日、私はただ、ランプの光の下でノートを開き、次の患者のためのメモを書き始めた。

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