婚約破棄ですか? では王家の薬花園は返していただきますね。土まみれ令嬢の私は冬の公爵に見初められたので元婚約者が後悔してももう遅い
王宮大舞踏会の床は、磨き上げられた鏡のようにきらめいていた。
幾重ものシャンデリアが灯りを落とし、貴婦人たちの宝石が星屑のように瞬く。その中心で、侯爵令嬢リディア・フロレンツは、誰よりも華やかに着飾っているはずなのに、場違いなほど静かだった。
袖口の内側に、ほんの少しだけ土の匂いが残っている。
つい先ほどまで、彼女は王家の薬花園にいた。今夜の舞踏会で使われる香油の原料になる花の状態を確認し、夜の冷え込みで傷みそうな苗に布をかけてきたのだ。王太子の婚約者である令嬢がそんなことを、と笑う者は多い。だが誰かがやらなければ、あの花々は咲かない。
それでもリディアは、別に理解してもらおうとは思っていなかった。
咲いた花が役に立つなら、それでいい。
――そう思っていたのに。
「リディア・フロレンツ!」
会場中に響き渡る、よく通る声。ざわめきが止み、人々の視線が一斉に集まる。その先に立っていたのは、王太子レオンハルト・アルヴェインだった。
金の髪、青い瞳、絵画から抜け出したような容姿。けれど今、彼の顔にあるのは慈愛ではなく、舞台役者のように作られた厳しさだ。その隣には、淡い桃色のドレスをまとった伯爵令嬢セシリア・ランベールが寄り添っている。彼女がそっと指を振るうと、光の粒が空中に舞い、会場にため息のような賞賛が満ちた。
美しい光魔法だった。
たしかに、人目を引くのだろう。
「お前との婚約を、ここに破棄する」
会場が息を呑んだ。
数拍遅れて、あちこちから囁きが広がる。驚き、好奇心、侮蔑、興奮。社交界において婚約破棄ほど甘美な見世物はない。
レオンハルトは、手のひらを広げて観客に示すように続けた。
「セシリアは優しく、明るく、社交にも長けた女性だ。それに比べてお前はどうだ、いつも土や薬草のことばかり。王宮の庭をうろついては袖を汚し、王太子妃にふさわしい品位も華もない」
セシリアが、わざとらしく悲しげに伏し目がちになる。
「わたくし、リディア様に嫌われてしまって……。殿下に近づくな、とまで言われましたの」
「それだけではない。セシリアの光魔法に嫉妬し、彼女の評判を落とそうとしたそうだな。見苦しいにもほどがある」
身に覚えはなかった。そもそもリディアは、セシリアとまともに話したことすら数えるほどしかない。
だが、否定したところでこの場がひっくり返らないこともわかっていた。レオンハルトの目は、最初から答えを決めている人間のそれだ。
彼はただ、皆の前でリディアを切り捨てたいのだ。
会場の隅で、誰かが「土まみれ令嬢だもの」と忍び笑いを漏らした。
その瞬間、胸の奥で何かが、すっと冷えた。
痛みではなかった。
たぶん、諦めに似たものだ。
リディアはゆっくりと息を吸い、裾をつまんで一礼した。
「……それは、正式な婚約解消と受け取ってよろしいのですね、殿下」
「今さら確認など不要だ。私はお前を見限った」
「承知いたしました」
あまりに落ち着いた返答だったからだろう。レオンハルトがわずかに眉をひそめる。泣き崩れ、縋りつき、みっともなく取り乱す姿を期待していたのかもしれない。
だが、リディアは顔を上げると、静かな声音のまま続けた。
「では契約に従い、王家の薬花園第一温室から第三温室までの管理権、フロレンツ侯爵家より持参した希少種の種子一切、母方継承の栽培法、および薬師会への優先納入契約を、返還していただきます」
しん、と会場が静まり返った。
「……何を言っている?」
レオンハルトの声が、さっきより低くなる。
「婚約締結の際、わたくしの持参金とともに王家へ貸与したものです。王家の薬花園はもともと荒れておりましたので、土壌改良、温室設備、灌水設備の更新、苗の選定、薬師会との販路整備まで、すべてフロレンツ家側で整えました。婚約が解消されるなら、貸与契約も終了です」
「馬鹿な。庭など王家のものだろう」
「土地は王家のものですわ。ですが、そこに咲く花すべてがそうとは限りません」
そう言って、リディアは会場の後方へ視線を向けた。
「グレゴル」
呼ばれた老庭師が、慌てたように前へ出る。土色の手をぎゅっと握りしめ、深く頭を下げた。
「……はい。リディア様のおっしゃるとおりにございます。あの薬花園は、土そのものが元は死んでおりました。王都の土に合わぬ希少種も、フロレンツ家の秘法と、リディア様の加護なくしては育ちませぬ。特に“月雫草”と“白玻璃花”は、あのお方がおられねば今年の収穫は望めません」
周囲がどよめく。王都の上級薬師たちが喉から手が出るほど欲しがる高級薬花の名だ。
レオンハルトは一瞬言葉を失い、それから鼻で笑った。
「大げさだな。庭師なら他にもいる。花くらい誰が育てても同じだ」
セシリアも扇の陰でくすりと笑う。
「そうですわ。所詮はお庭のことでしょう?」
その言葉に、リディアは少しだけ目を細めた。
怒ってはいない。ただ、完全に終わったのだと悟っただけだ。
「ええ。お庭のことですわ」
静かに、けれどはっきりと、彼女は言った。
「ですが、人の命を救う薬も、国の財を生む香油も、その“お庭”から生まれますの」
誰も何も言えなかった。
レオンハルトは顔を赤くし、体面を取り繕うように声を荒げる。
「好きにしろ! その程度で王家が困るものか。お前などいなくても、すぐに元通りになる!」
「かしこまりました」
リディアはもう一度だけ礼を取り、踵を返した。
背中に突き刺さる視線は無数にあったが、不思議と足取りは軽かった。長い間、胸の上に置かれていた重い石が、ようやく取り払われたような気がしたのだ。
その途中、ひとりの男が道を開けるように半歩下がった。
銀灰色の髪に、氷のような淡い瞳。隣国ヴァイスフェルト公爵アドリアン・ヴァイスフェルト。厳寒の北を治め、“冬の公爵”と恐れられる人物だ。
彼は何も言わなかった。ただ、会場で唯一、リディアに対して丁寧に一礼した。
それだけで、妙に救われた気がした。
翌朝、フロレンツ侯爵家の応接間に、アドリアンは正式な訪問者として現れた。
父である侯爵はやや驚いた顔をしたが、昨夜の一件があった以上、訪問の理由を深読みするのも無理はない。リディアも呼ばれ、温かい紅茶の香りが満ちる部屋で向かい合うことになった。
「昨夜の件、お気の毒に」
アドリアンの第一声は、慰めでも同情でもなかった。ただ事実を静かに置くような口調だ。
「……ありがとうございます」
「だが、私にとっては好機でもある」
あまりに率直で、リディアは瞬いた。
するとアドリアンは、わずかに口元を緩めた。笑った、のだと思う。
「誤解しないでほしい。あなたの不幸を喜んでいるわけではない。ただ、前からあなたに頼みたいことがあった」
彼は北部領地の現状を説明した。長い冬、痩せた土、繰り返す凍害。薬の原料になる植物の多くを他国頼みにしており、流通が止まれば領民が困ること。だから自領に薬花園を作りたいが、寒冷地向けの土壌改良と温室運営に長けた人材がいないこと。
「あなたの“春告げの加護”と知識が必要だ」
リディアは少し身構えた。
結局、どこへ行っても必要とされるのはその力だけなのではないか。そう思ってしまう自分がいた。
たぶん、それが顔に出たのだろう。
アドリアンはすぐに続けた。
「命令ではない。依頼だ。来てほしいと望んでいるが、来なくても構わない。あなたはもう、誰かに勝手に行き先を決められる立場ではないのだから」
その言葉に、喉の奥が熱くなる。
選んでいいのだと、初めて言われた気がした。
父が静かに口を開く。
「リディア。お前が望む道を選びなさい。王家に遠慮する必要はない」
窓の外には、冬の名残を含んだ薄曇りの空が広がっていた。
リディアは自分の膝の上で手を重ね、少しだけ考え、それから顔を上げた。
「……わたくしでよろしければ、お引き受けいたします」
アドリアンは目を細め、短く頷いた。
「歓迎する」
そのたった一言が、不思議なくらいあたたかかった。
ヴァイスフェルト公爵領は、噂どおり寒かった。
王都を発って数日、馬車の窓から見える景色は次第に白さを増し、木々の枝先に霜が降りる。けれど到着した屋敷は寒々しいばかりではなく、使用人たちの動きはきびきびとしていて、食卓には温かなスープと焼きたてのパンが並び、厳しい土地だからこその整えられた暮らしがあった。
何より驚いたのは、領地に着いたその日のうちにアドリアンが薬花園予定地を見せてくれたことだった。
雪を避けるように築かれた石造りの温室。地下を通る温水管。風除けの壁。貯水槽。作業小屋。まだ完成途上ではあるが、ただ「何とかしてくれ」と丸投げするつもりではないことがひと目でわかった。
「ここまで……ご準備なさっていたのですか」
「私にできることはしておきたかった。足りないところは教えてくれ」
リディアは温室の土に膝をつき、手袋を外して土を指でつまんだ。冷たく、痩せている。だが死んではいない。手を添え、目を閉じる。
彼女の加護は派手な光を放つものではなかった。ただ、雪解けの水が染みるように静かに、土の奥へやわらかな気配が広がっていく。痩せた土が呼吸を取り戻し、眠っていた微かな命が、ゆっくりと目覚める感覚。
近くで見ていた作業員たちがどよめいた。
「土の匂いが変わった……」 「ほんとうに、春みたいだ」
アドリアンはその変化を見ても大げさに驚いたりせず、ただリディアを見た。
「冷える。続きは中で計画を立てよう」
差し出されたのは、分厚い毛布ではなく湯気の立つマグカップだった。香草を煎じた飲み物で、冷えた指先にじんわり熱が戻る。
――こういうところなのだ、とリディアは思った。
派手な褒め言葉ではない。だが確かに自分を見て、必要なものを差し出してくれる。
その日から、リディアの新しい日々が始まった。
まずは土壌改良。腐葉土と灰、家畜小屋から出る堆肥を適切に混ぜ、凍結を防ぐ藁を敷く。温室内の湿度管理のため、水桶の位置を変え、日照時間を補う反射板を設置する。北では育たないとされていた薬花も、根の浅いものと深いものを分け、苗の時期をずらし、温度差を計算すれば可能性が見えてくる。
もちろん、加護だけでは足りない。
むしろ、加護は最後のひと押しだ。リディアが本当に積み重ねてきたのは、泥だらけの手と、地道な知識と、失敗の記録だった。
作業員のひとりが「貴族のお嬢様にこんなことがわかるのか」とぼやいた時には、リディアは笑って剪定鋏を渡した。
「では、この株を半分に切ってみてください。来月どちらが長く花を保つか、一緒に見ましょう」
結果は彼女の予想通りになった。頑なだった作業員は耳まで赤くして頭を下げ、その日以来誰より熱心に働くようになった。
薬師たちとの連携も進んだ。何がどれだけ必要か、乾燥方法はどうするか、輸送中の傷みを防ぐにはどう包むか。リディアは机の上でも畑の上でも同じように働いた。
そんな彼女を、アドリアンはいつも人前で正しく評価した。
「この成果はリディアの指示によるものだ」 「予算は追加しよう。彼女の案に従え」 「礼を言うなら私ではなく彼女に」
それはリディアにとって、思った以上に大きな救いだった。
王都では、成果はたいてい王家のものになった。誰がどれだけ夜更けまで帳簿をつけても、苗を守るために霜の中を歩いても、それは“当然”とされてきた。
だがここでは、違う。
彼女が働けば、彼女の名が残る。
ある晩、温室の作業が長引き、外へ出た頃には吐く息が白くなっていた。リディアが肩をすくめると、隣にいたアドリアンが無言で自分の外套をかけてきた。
「殿下……いえ、公爵様、わたくしは平気です」
「平気かどうかは、震えが止まってから言ってくれ」
そう返されて、思わず笑ってしまう。
彼はいつもこうだ。ぶっきらぼうで、不器用で、けれど誤魔化さない。
温室のガラス越しに、育ち始めた若葉が淡く透けて見える。その緑を眺めながら、アドリアンがぽつりと呟いた。
「あなたは、よくあれほど長く耐えたな」
王都のことだとすぐにわかった。
リディアは少し考え、夜空に白く流れる雲を見上げた。
「花が咲けばいいと思っていたのです。わたくしがどう思われても、必要な薬が届くならと」 「それで、幸せだったか」
答えに詰まる。
そんなこと、考えたこともなかった。
必要とされることと、幸せであることは同じではない。頭ではわかっていたはずなのに、ずっと取り違えていたのだ。
「……わかりません」 「なら、これから知ればいい」
アドリアンは前を向いたまま言った。
「あなたが働くことをやめろとは言わない。だが、役に立つことだけで自分の価値を測るのはやめたほうがいい」
やさしい言葉だった。
あまりにやさしくて、リディアは返事ができなかった。
王都からの手紙が届き始めたのは、その頃だった。
最初の一通はレオンハルト本人からで、「誤解があった」「感情的になりすぎた」「戻ってきて話し合おう」と書かれていた。二通目には「薬花園の収穫が落ちている」「君の不在で王宮が混乱している」とあり、三通目になると「君こそ王太子妃に必要な資質を持っていた」と、ようやくそれらしい文言が並んだ。
だがそこに、“君を傷つけた”ことへの謝罪だけは薄かった。
リディアは私的な返事を一切しなかった。
代わりに、フロレンツ侯爵家を通し、薬師会向けの最低限の薬花は交易品として納める用意があること、その価格と条件を文書で示した。困るのは民であって、王太子ではない。それは譲れない線だった。
数日後、アドリアンが執務机の上に置かれたその文書を見て、静かに言った。
「優しいな」 「商人として合理的なだけです」 「そういうことにしておこう」
彼の声に笑みが混じる。リディアも小さく笑った。
北の冬は長かったが、やがて終わる。
雪解けの頃、温室の一角で、初めて新しい花が咲いた。
白い花弁の縁に、薄い青が滲んでいる。厳しい寒さを越えて咲くその花は、氷の中に閉じ込められた朝の光のようだった。薬効は高く、保存性にも優れている。リディアが試行錯誤の末に育て上げた、寒冷地向けの新種だった。
「名前をつけてください、リディア様!」
作業員たちにせがまれ、リディアは少し考えてから答えた。
「……“冬明かり”にしましょうか」
いい名だ、と誰かが言った。
その声に重なるように、背後からアドリアンが続ける。
「春を連れてくる花だ」
振り返ると、彼の視線がまっすぐにこちらへ向けられていた。いつの間にか、その眼差しが怖くなくなっている。冷たいどころか、静かな熱を宿していると知ってしまったから。
その年の春、王都で大規模な交易祭が開かれることになり、ヴァイスフェルト公爵領も新たな薬花の出品者として招かれた。
リディアは一瞬だけ迷った。
だが逃げる理由はなかった。もう、あの場所は彼女を裁く場所ではない。自分の足で立って向き合える。
王都の会場に入ると、空気がざわめいた。
「あれがフロレンツ侯爵令嬢……」 「いえ、今はヴァイスフェルト公爵領の――」 「本当に見違えたわ」
リディアは淡い若草色のドレスをまとっていた。王太子妃候補だった頃より飾りは少ない。けれど余計な見栄をそぎ落とした分だけ、彼女自身の凛とした美しさが際立っていた。
隣に立つアドリアンはいつもどおり無駄のない装いで、彼女が人波に押されないようさりげなく一歩前に出る。その所作ひとつで、どちらが彼女を大切にしているかは誰の目にも明らかだった。
“冬明かり”は大きな評判を呼んだ。寒冷地でも安定して育ち、止血と鎮痛に優れ、輸送にも強い。薬師たちは目を輝かせ、商会は契約を求めて列をなし、王都の貴族たちはこぞって花の美しさを褒めた。
そんな喧騒の中、レオンハルトが現れた。
以前よりやつれた顔をしていた。豪奢な衣装をまとってはいるが、どこか焦りがにじむ。隣にいたはずのセシリアの姿はない。
「リディア」
その呼び方だけで、今の彼がどれほど立場を失いつつあるのか知れた。以前なら人前でこんな親しげな声は出さなかったはずだ。
「少し、話がしたい」
アドリアンが眉ひとつ動かしかけたが、リディアは小さく首を振った。
「短くでしたら」
案内されたのは、会場脇の回廊だった。春の陽光が差し込み、遠くで商人たちの声が響いている。
レオンハルトはしばらく言葉を探し、ようやく口を開いた。
「あの時は、私も若かった。周囲に煽られ、判断を誤ったんだ」 「そうですか」 「だが今ならわかる。お前こそ、私の隣に立つべきだった。お前ほど王妃にふさわしい女はいない。王宮も、お前を必要としている」
リディアは静かに聞いていた。
そして、ほんの少しだけ悲しくなった。
最後まで彼は同じなのだ。隣に立ってほしい理由が、“私”ではない。
「殿下」
彼女は穏やかな声で言った。
「あなたが必要としていたのは、わたくしではありません」
「何?」
「王家の薬花園で咲く花であり、薬師会への納入であり、滞りなく回る帳簿であり、都合よく黙って働く婚約者です」
レオンハルトの顔が強張る。
「違う、私は――」 「もし本当に違うのなら、あの日、あの場で、わたくしを人前の見世物のように切り捨てたりはなさらなかったでしょう」
彼は言葉を失った。
リディアは続ける。
「わたくしはもう、誰かに必要とされるためだけに咲くつもりはありません。尊重してくださる場所で、自分の意思で生きます」
「リディア、待て。私は本気で……!」
「彼女を困らせないでいただきたい」
低い声が割って入る。
振り向かなくてもわかった。アドリアンだ。
彼はリディアの隣に立ち、レオンハルトをまっすぐ見据えた。
「選択はすでに示されている。これ以上は無粋だ」
同時に、回廊の向こうから王宮文官たちが慌ただしく近づいてきた。その先頭にいる宰相補佐官がレオンハルトに深く一礼し、顔色を変えた彼へ文書を差し出す。
「殿下。陛下より通達にございます」
封を切ったレオンハルトの手が、わずかに震えた。
内容はすぐに知れ渡った。王都の薬花供給の混乱と交易損失、さらに舞踏会での軽率な婚約破棄による対外的信用失墜の責任を問われ、王位継承に関する権限の一部が停止されたのだ。加えて今後、王家が必要とする高級薬花は、フロレンツ侯爵家およびヴァイスフェルト公爵家との正式契約を通じてのみ購入することが決定した。
公にも、私にも、彼は完全に失った。
レオンハルトは何かを言おうとして、結局何も言えなかった。唇を噛みしめ、文書を握ったまま立ち尽くす。
リディアはそれを見ても、勝ち誇った気分にはならなかった。
ただ、終わったのだと思った。
本当に、今度こそ。
交易祭を終え、公爵領へ戻った夜。
温室には“冬明かり”が穏やかに咲いていた。ガラス越しの月光を受けて、白と青の花弁が静かに光る。暖かな湿気と、土の匂い。ここはもう、リディアにとって帰る場所になっていた。
「疲れたか」
アドリアンが隣に立つ。
「少しだけ。でも、不思議と心は軽いです」 「それならよかった」
短い沈黙が落ちる。けれど気まずさはない。
やがてアドリアンが、珍しく少しだけためらうように視線を伏せた。
「最初にあなたへ手を伸ばしたのは、領地のためだった」
「はい」
「だが、今は違う」
リディアの心臓が、ひとつ大きく打つ。
彼は不器用な人だ。だからこそ、次の言葉を軽くは言わない。
「あなたが働く姿を見た。笑うところも、悩むところも、無理をするところも見た。そのうえで、あなた自身を手放したくないと思っている」
アドリアンはコートの内から小さな箱を取り出した。中には、蔓草を模した細い銀の指輪がある。中央には、冬明かりの花弁に似た淡青の石。
「王太子妃の座でも、契約でもない。私の隣で生きてほしい。リディア、私と結婚してくれるか」
喉の奥が熱くなった。
こんなふうに求められる未来が、自分にあるとは思っていなかった。
役に立つからではない。失えば困るからでもない。ただ、共にいてほしいと願われること。それがこんなにも、胸を満たすなんて。
リディアは目頭が熱くなるのを感じながら、ゆっくりと頷いた。
「……はい。喜んで」
アドリアンが、ほっとしたように息をつく。その珍しい表情がおかしくて、リディアは涙のまま笑ってしまった。
指輪をはめられた左手が、あたたかい大きな手に包まれる。
温室の外ではまだ夜風が冷たい。けれどガラスの内側には、たしかな春があった。
後日、王都からは何度か祝辞と探るような手紙が届いたが、リディアは必要な交易以外に応じなかった。王都の民に必要な薬は公平に送り続ける。だが彼女自身が戻ることはない。
春は、誰にでも咲くわけではないのだ。
選び、育て、守った場所にだけ訪れる。
北の領地ではその後、“冬明かり”をはじめとする薬花が次々に根づき、多くの領民の暮らしを支えた。人々は土に触れる侯爵令嬢を、やがて親しみをこめて“春告げの公爵夫人”と呼ぶようになる。
そしてリディアは毎年、最初の一輪が咲くたびに思うのだ。
あの日、王宮で失ったものは確かにあった。けれどそれ以上に、自分の足で歩く自由を手に入れたのだと。
もう、誰かの都合で咲く花ではない。
彼女は彼女の望む場所で、愛されながら咲いていく。
終幕




