第三章 動乱の幕開け(2)
東の国境に近いエイン村の方角から、煙が立ち上るのが見えた。
「急げ!」
ヘルンは馬を走らせながら、帯同してきた兵士達へ声を張り上げた。
村に近付くにつれ、人々の悲鳴や、何事かを叫んでいる声などが聞こえてくるようになった。と同時に、物が燃える臭いが風に乗って漂ってきた。
やがて、逃げ出してきた村人の一団が彼方に見えてきた。
持てるだけの家財を抱えて走る男たちや、乳飲み子を抱える女、老人を背負って逃げる若者、子どもたちを励ましながら坂を駆け下りてくる娘たち。幼子は泣きじゃくりながら、手を引かれていた。
彼らは皆恐怖に顔を引きつらせ、生きた心地もしないまま、ただただ街道を逃げてきていた。
彼らの姿を目の当たりにしたとき、ヘルンは胸中に罪悪の感情を抱かずにはいられなかった。
彼らこそ、この動乱の最初の被害者たちだった。
ひたすら善良に、ささやかな幸福に感謝しつつ日々を暮らしていただけの名も無き人々。平穏な日常を過ごしていた無辜の民たち。明日もまた同じ毎日が続いてゆくことを一欠片の疑いもなく信じていた者たち。
それが今、突如として引き裂かれてしまった。
親を、兄弟を、友を、一瞬のうちに奪われてしまった。
彼らの誰ひとりとして、このような罪を背負うほどの者はいなかっただろうに。
領主は常に領民の平穏を守らなければならぬ。如何ないきさつがあろうと、今の彼らの苦しみは領主である公爵家の責任に他ならないのだ。
ヘルンの沈痛とは対照的に、公子たちの姿を発見した村人たちは、救いの神が現れたかの如く希望を取り戻していった。
「ヘルン様!」
みな口々にヘルンの名を叫び、感謝と救いを求める声を上げた。
「城下町へ向かえ!城門から城壁の中へ逃げるのだ!急げ!」
ヘルンは街道の西を指して、逃げてきたものたちに指示を与えた。
さらに村の方角へ馬を走らせ、逃げ遅れた者がいないか探す。何人かが、同じようにヘルンの指示に従って街道を急いだ。
そこから幾ばくか馬を走らせると、なだらかな丘陵の上り坂に差し掛かった。
そこで初めて、彼らは村を襲った敵兵に出くわすこととなった。
ヘルンと従兵たちは、勢いよく坂を駆け上がり、瞬く間に敵兵をなぎ倒していった。
彼らにとって雑兵などはものの数ではなかった。だが、倒した者たちがシュナイデル家の兵士であることがわかると、ヘルンは思わず顔を歪めた。
(なんたることを!)
ヘルンは怒りに震えた。
裏切り、というだけではまだ足りない。
彼らが襲っている民たちは、今まで共に同じ領内で過ごしてきた仲間だったではないか!一体如何な精神をもってここまで酷い仕打ちができるのか!
ヘルンの憤怒が爆発しそうになったその時、坂の上からしゃがれた声が響いてきた。
「これはこれは!ヘルン公子のお出ましか!」
ヘルンが声のした方を振り仰ぐと、私兵を引き連れたシュナイデル伯爵が馬上からこちらを見下ろしているのが目に映った。
嫉妬と憎悪が爛々と入り交じった両の眼。口角は、下卑た笑みでひきつっていた。
ああ、この男はこれ程醜かったであろうか。この時の伯爵は、ヘルンがそう思わずにはいられなくなるほど、ひどい顔をしていた。
「シュナイデル伯爵殿!」
内心の怒りを抑えながら、ヘルンは丘の上までよく響く声でこの醜悪な背信者に言い放った。
「今すぐに降伏せよ!さすれば、親戚のよしみで命までは取らぬ!」
「ハ、ハ、ハァ!」
伯爵は、これは滑稽、とでも言うように、大きく笑った。
「何を言うかと思えば、この私にお慈悲をかけて下さったのですかな?ハハ、流石は公子様、誠に!誠にお優しいことだ!・・・だが、はて、今の状況を理解されていないのではないですかな?」
自分の方が優位に立っていることが余程愉快なのか、ニタリと顔面を歪ませる。
ヘルンは、反吐が出そうな不快感を覚えた。彼の心には、かつてない程の怒りが燃え盛っていた。
しかし同時に、冷静も失ってはいなかった。
ヘルンは、慎重に伯爵の周囲を観察していた。
伯爵を取り巻いている兵の数はあまり多くはない。おそらく残りはエイン村の制圧や略奪に動いているのだろう。今ならヘルンの手勢でも戦えなくはないだろう。だが、今は村人の避難を優先させなくてはならない。
何とか、効果的に足止めをできないものか。
そこで一つの考えが浮かび、ヘルンはわずかに微笑んだ。
愉悦に浸っている伯爵を、少しばかりからかってやろうと思ったのだ。
「降伏する気がないなら、さっさと飼い主の所へ戻って、この私を討ってもらうよう懇願するがよい。ご安心なされよ。このヘルン、貴様の背中などは決して討たぬ故」
「何だと?」
伯爵の顔から、笑みが消えた。代わりに、耐え難い侮辱を受けたように、わなわなと全身に怒りが満ちてゆく。
ヘルンの放った言葉は、伯爵の最もナイーヴな所を、的確に抉ったのだった。
この男の心中には、密かな焦りがあった。
伯爵にとっては、皇帝の麾下に入ったはよいが、そこで己の有能さを示してゆかねば、ただ祖国を裏切った卑小な隷属者と蔑まれてしまう。
その焦りを、裏切ったばかりの相手に見事に見透かされ、あろうことか侮蔑の言葉で撫で上げられたのである。
「図に乗るな、若造が!」
顔面を紅潮させ、伯爵は馬の腹を蹴って物凄い勢いで坂を駆け降りていった。
それを見て、ヘルンも翻って後ろへ駆け出した。
「逃すものか!」
伯爵はさらにその背を猛烈に追いかける。
ヘルンは、馬を走らせながら左に大きく旋回し、伯爵の方へ態勢を向け直した。
「その目玉を抉り出してやる!」
槍を右脇に構えたまま、伯爵は若武者へと突進してゆく。ヘルンも、勢いをつけて馬を走らせ、距離を詰めていった。
実はこの場所は、坂の間にあって僅かに傾斜が浅く変わる地点である。ヘルンの狙いは、ここに伯爵をおびき寄せることにあった。
両者が激突する寸前、伯爵の馬は傾斜の変わり目に差し掛かり、そこで一瞬馬脚が乱れた。
伯爵が、あ、と思ったその瞬間、ヘルンの槍はもう伯爵の喉を刺し貫いていた。
伯爵の口から血が噴き出す。彼は、声もなく地面に倒れ落ちていった。
「恥を知れ」
伯爵が事切れたことを見届けると、ヘルンは一言言い残し、兵を退いた。
追っ手はこなかった。
主を失った兵士達は、地面に横たわる骸を見つめながら、呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかったのである。