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ノアの終焉  作者: 齋藤昴
第1部
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第三章 動乱の幕開け(3)

 ヘルンらが村人たちを護りながら城壁へたどり着いたのは、日もだいぶ傾いた頃だった。

 敵の追撃を気にしながらの撤退だったが、彼らが襲われることはなかった。シュナイデル伯爵を討ち取った効果は、思ったより大きかったようだ。敵もこちらの反撃を警戒し、進軍には慎重になっているらしかった。

 城壁の内側には、すでに別の村から避難してきたらしい人々が大勢集まっていた。

 街の広場では、彼らに身を落ち着ける場所をあてがうべく役人たちが慌ただしく指示を出していた。宿屋や酒場の主たちは、店を開放して彼らを受け入れていた。

 無事を喜ぶ家族たちや、女神に祈る者たちの姿があった。たくさんの人々が、不安を感じながらも、ここへたどり着けた幸運にひとまずは安堵していた。

 連れてきた村人たちが皆城門をくぐったのを見届けると、ヘルンはすぐに城へ向かって馬を走らせた。

 大通りを抜け、坂を駆け上り、城の入口までたどり着いたところで、ヘルンは後ろを振り返った。

 彼は思わず目を見開いた。

 ガリア湖の向こうに何万という数の軍勢が現れ、今にも湖畔を埋め尽くさんとしていたのである。

(急ぎ手を打たねば)

 ヘルンは足早に父・ハーラント公のもとへ向かった。


 城内も、やはり慌ただしく人々が動き回っていた。ヘルンを見かけると、彼らは急いで会釈をし、すぐにまた自分の役目に追われるようにその場を離れていく。

 公爵の待つ広間に足を踏み入れると、すぐにリフローネが駆け寄ってきた。

「お兄様!」

 ヘルンの変わらぬ姿を見て、硬い表情の中に僅かに安堵の色が浮かぶ。

「留守を任せてすまなかった。父上を支えてくれたこと、感謝するぞ」

 ヘルンは優しい眼差しで妹を労うと、父に向き直り再び表情を引き締めた。

「父上、只今戻りました」

「ご苦労だった。無事に戻ってくれて何よりだ」

 ヘルンと同じ色の髪と頬ひげをたくわえ、引き締まった顔の公爵・ハーラントは、厳しい表情を崩さぬまま、帰還した息子を労った。

「シュナイデル伯爵を討ちました。エイン村は奴によって襲われ、帝国軍の手に落ちました。敵は相当な数で城下に迫りつつあります。話が通じる様子はありません。急ぎ城壁の守りを固め、籠城戦に備えましょう」

 ヘルンの言葉を聞き、公爵は大きく目を見開いた。そして項垂れるように視線を落として呟いた。

「初めから、こちらの釈明など聞くつもりはなかったということか。皇帝は、この地までも欲するというのか」

 そう言って目を伏せ、しばし苦悩の表情を見せていた。が、次に顔を上げた時、そこにはもうどこにも絶望の色は見てとれなかった。領主の務めを果たすため、今すべきこと。そのための方策を立てることに、もう考えを切り替えていた。

 常から、領主にあるべき振る舞いを重んじる。公爵にとって、それは信念だとか矜持だとかいう以前に、長年その身に染み付いた習慣といった方が正しかった。この時も、今己がなすべきことをのみ考え、動き出そうとしていた。子息たちに敬愛され、領民に慕われる君主の姿は、この時も何ら変わることはなかった。むしろ、この難局を前にして、より一層輝くのであった。

「セルヤム王に親書を出し、救援を要請する」

 公爵は、力強い声で息子達にそう言った。

 セルヤムは、ハーラントからゲネブ山脈の峡谷を南下してドニエクル川を越えた先にある、海に面した王国である。交易によって栄えた大国で、ハーラントとは同盟関係にはないものの、隣国ということもあり貿易の結びつきは強く、古くから友好関係を保っていた。

「セルヤムの国王サールーン・ハジャドは実利を重んじる男だが、帝国が周辺へ侵食してくるのはセルヤム王国にとっても脅威のはず。上手く説得できれば、兵を動かしてくれるやもしれぬ」

 公爵の考えに、ヘルンも同意した。どの道、他に名案もない。

「サールーンは旧知の友だ。私からも親書を書こう」

 さらに、こう続けた。

「父上、使者はリフローネに任せたいと思うのですが、よろしいでしょうか」

 不意に自身の名を挙げられ、リフローネは驚いた。公爵も同じく驚いた顔をしたが、すぐにヘルンの意図を汲み取ってうなずいた。

「それが良いだろう。リフローネ、頼まれてくれるか」

 重要な役目である故、使者は公爵家の誰かが務めるのが最善だ。リフローネにもそのことは理解できたが、しかし彼女には躊躇いがあった。

「私は・・・お父様やお兄様と一緒に、ここを守るために戦いたいです」

 ここでの別れが、今生のものとなってしまうように思えた。それが恐ろしく感じられた。だから、この地を離れることに抵抗があったのだ。

 公爵とヘルンも、その可能性は考えていた。彼女を行かせることで、万一の時にも公爵家を再興できる道筋を残しておくことができる。そういった思慮もあることは事実だった。だが、ヘルンは努めて明るく、彼女に優しく諭すように言った。

「案ずるな。そう易々とこの城へ攻め込ませたりなどさせるものか。そなたが戻るまで、必ず守りきる。それに、この役目はそなたにしか頼めぬのだ」

 妹の肩を抱きながら、広間の壁を見上げた。そこには、一つの肖像画が飾られていた。

「母上も、きっと我らを見守っていてくださる」

 広間を見下ろすように穏やかに微笑んでいる女性の絵。それは、亡き公爵夫人の肖像画だった。夫人は、リフローネがまだ幼い頃に病でこの世を去ってしまった。物心がついたばかりの彼女は、朧気に母の優しい眼差しを憶えていた。今、母の絵を見上げていると、そのときの記憶が甦ってくる。

 肖像画の母の面影は、今の彼女によく似ていた。

 リフローネは、決意を固めた。

「お兄様、わかりました。必ずやセルヤム国王を説得し、援軍とともにこの地に戻って参ります。それまで、どうかご無事で」

 強い眼差しで兄を見つめる。兄も、力強く頷いてそれに応えた。

「ですが、セルヤムまでどのように向かえばよいでしょうか。おそらく、南の街道はすでに帝国の軍勢に押さえられているでしょう」

「一つだけ、道がある」

 リフローネの疑問には、ハーラント公が答えた。

「城の裏手から山の稜線づたいに抜ける道だ。険しいが、表からは見つからずに進むことができる」

「そんな道があるのですか?」

 リフローネも初めて聞く話だった。

 さらに驚いたことに、案内人に呼ばれたのは、従者のナジャであった。ナジャは、密かに公爵の命によって、公国とセルヤムとの間を動いて様々な情報を集める役目を負っていたのだ。

 ヘルンは、彼の役目を知っていたと見えて、特段驚く様子もなくナジャに声をかけた。

「妹を頼む。これは友としての頼みだ」

「勿体ないお言葉です。必ずや無事に国王の元へお連れいたします」

 ナジャは普段の冷静さを保ったまま、恭しく頭を下げた。

「さあ、ぐずぐずしている時間はないぞ。季節はもうすぐ冬になる。雪が降れば山の道は閉ざされてしまう。急ぐのだ」

 公爵に促され、リフローネとナジャは急いで旅支度を整えた。

 リフローネは、動きやすい衣服に着替え、髪を後ろに束ねて、革の胴当てとブーツを身につけ、手にも革製の手袋をはめた。さらに腰には小振りの剣を巻き、防寒のためにやや厚手のマントを羽織った。ナジャも同じく革製の胴当てと手袋、ブーツに身を固め、短刀を2本腰に帯び、その上から外套を羽織り、手早くまとめた旅の荷物を背負ってきた。

 再び公爵の前に戻ると、リフローネに公爵とヘルンから親書が渡された。さらに、王家の紋章が縫い付けられた旗も渡され、これはナジャが預かることになった。

「二人に女神ノアの加護があらんことを」

 公爵が祝福を述べたあと、リフローネは父と兄の二人とそれぞれ抱擁を交わし、隣国へ向かって旅立っていった。

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