第五章 フレスデンの戦い(7)
戦争が誰しもを震撼させる所以は、それが人の営みすべてを飲み込み尽くす圧倒的な暴力の嵐に他ならないことだ。突如現れる巨大な濁流のごとく、そこでは命だけでなく、魂や尊厳さえも、恐ろしい速度で消費されてゆく。如何な名将たりともその流れを終始制御し続けることはできない。できるのはただ、可能な限りの備えをしておくくらいのことである。しかし万全を期したはずの戦場でさえ、戦局はどんなきっかけで変わるかはわからない。濁流に飲まれた岩が川岸を削り、あるいはわずかな雨が水量を押し上げ、堤防を決壊させ、流れの行き先を変えてしまうこともある。ほんの少しの異変が結果を大きく狂わすことが、過去に何度も起こってきた。歴史上の数多の軍略家は口を揃えて、優勢な戦を勝ちきることの難しさを説いている。
今、この戦場にも、結果を塗り替えかねない重大な異変が舞い込んで来ていた。
異変の始まりは、戦場を見渡せる丘の上に立っているリフローネが真っ先に気づくこととなった。
戦場の右手から、雪を舞い上げながら走る黒い騎兵の姿が見えた。それは見る間に、彼女達がいる丘の方へと迫って来た。
ただならぬ雰囲気は、他の兵たちにも伝わったようだった。紫のターバンを巻いた兵たちは、彼女を守るように隊列を組み直した。ナジャは左右の手に短刀を握り、背中にリフローネを守って立った。マルコも槍を手に持ち、彼女の脇を固めるように寄り添った。
黒い騎士は、間違いなくリフローネを狙って迫りきていた。この戦場の象徴のような存在となった彼女を討ち取ることが、戦局を大きく変える鍵となることを見抜いているかのようだった。
地面の雪を巻き上げながら、黒い騎士はもう丘の坂を登り始めていた。セルヤムの精鋭たちは勇敢に立ちはだかるも、かの騎士の禍々しい槍の前に次々と倒されていった。
まさしく、戦場に現れた死神であった。黒い突風が兵士達を吹き飛ばしながら、瞬く間にリフローネ達の面前に立ちはだかったのである。
彼女を守っている兵士達が、黒い騎士を狙って一斉に槍を突き出した。並の騎兵であれば、ぐるりと取り囲むように突き込まれてくる槍に刺し貫かれていたであろう。しかし、それらはすべて得体の知れぬ力に弾かれ、騎士の体に届くことはなかった。そして兵士達はなす術もなくなぎ倒された。
「お下がり下さい!」
ナジャは背後の主君へ叫ぶと、勢いよく足元の雪を蹴り上げた。
一瞬、黒い騎士の視界が白く覆われ、ナジャの姿を見失った。その刹那の隙に、彼の短刀が騎士の喉元へ迫っていた。
すんでのところで騎士の左手が間に合い、短刀を小手で弾き飛ばした。その力は想像以上に強く、ナジャは勢いよくはね飛ばされ、かなりの距離を転がることとなった。
そして遂に、黒い山のような死神が、リフローネの目の前に辿り着いた。全身から禍々しい瘴気を発し、黒い兜の奥から心の底まで凍りつかせる眼光が覗いている。
しかし、それでも彼女は気丈であった。決して旗を手放さず、敵の視線を睨み返していた。黒い騎士は、彼女に狙いを定め、槍を大きく頭上へ振り上げた。
「リフローネ様!」
ナジャが全力でリフローネの元へ走り出す。だが、この距離では間に合わない。
絶望に飲み込まれそうになったその時、後方の戦場からカンカンという鐘の音が鳴り響いてきた。
それは帝国軍の撤退の合図であった。
黒い騎士は振り上げた槍を静かに下ろし、再び丘を走り下りて、戦場の彼方へと走り去っていった。
リフローネたちは、騎士の姿が見えなくなるまで、黙ってそれを見つめていた。
ついに勝敗は決した。ここに、フレスデンの激闘は終結したのである。




