1-1・五人目の秘書
入社三年目の八月、季節外れの人事異動。
部長付アシスタントは私で五人目になる。一人目は一週間、二人目は二週間、三人目は三日で追い出され、四人目なんか、辞令が出た一週間後には退職願を出したらしい。
その流れで五人目、私。
七月まで過ごした馴染みのデスクを拭いてやりながら、ため息をひとつ。
黒繰グループ 首都圏第二事業部 財務管理部 部長(役員待遇)・黒繰 朔夜氏。
この夏、弱冠二十五歳で異例の大抜擢。
前任部長による長年の不正を株主総会の場で堂々告発、挙句「自分ならもっと貢献できます」とプレゼンしたらしい。
流石はグループの運営血族。恐るべき野心、才能、行動力。
そして懲戒解雇された前任部長の後釜に収まり、今に至るというわけだ。
さて、ここで黒繰グループについて簡単に説明しよう。
弊社は主に不動産経営から都市開発まで、様々な事業に手を伸ばす大手企業だ。経営陣の半数以上が黒繰本家の直系か、御三家と呼ばれる分家筋によって構成されている。グループの総帥は黒繰轆轤氏。早口言葉みたいな名前だが、そのインパクトゆえ、一度でも耳にすれば忘れることはない。
そんな怪物一族の直系――しかも同い年――の秘書などと、私に務まるはずもない。
何がそんなに気に入らない。五人目って。よほど激務か、あるいは、黒繰朔夜氏の人格が終わっているか、どちらかだ。両方の可能性もある。ああ、帰りたい。なぜ私なのだ。異動願いを出した覚えはない。ほかにいくらでもいそうなものだ。彼の秘書を希望する、女性社員が。
部長室の扉の前、再度、ため息。汗ばむ右手でノックすると「どうぞ」と若い男の声が応えた。失礼します、そう唱えて扉を開く。
ブラインドの下ろされた大きな窓の前。見るからに高級で重そうな木のデスク。その上のノートパソコンは、今は閉じられている。ふかふかの社長椅子に腰掛けたその人物は、高級腕時計を巻いた右手で眼鏡を外した。
「鴻 優美さん?」
艶のある黒い髪に、黒い瞳。通った鼻筋。綺麗な微笑み。時計と共に輝くカフスに、差し色として抜群に映えるオシャレなネクタイ。おそらくオーダーであろうスーツは生地からして、そこいらの有象無象とは格が違う。弱冠二十五歳、私と同い年の、上司。
「……はい」
緊張から唾を呑む。部屋の中へ一歩踏み出し、後ろ手に扉を閉める。
「鴻です、黒繰部長」
「黒繰部長、何度聞いてもいい響きだね」
でも、と。彼は指を振る。
「名字呼びだとややこしい。悪いけど社内では下の名前で呼んでくれる? あるいは、単に『部長』と呼んでほしい。『財務管理部長』とね」
黒繰部長、改め、朔夜部長。
血族経営のグループだ、確かに、名字呼びはややこしい。
「……本日付けで財務管理部 部長付アシスタントを務めます。よろしくお願いします」
その場で頭を下げる。顔を上げたとき、朔夜氏は椅子に座ったまま、じっと私を見つめていた。値踏みするように。
落ち着け、慌てず深呼吸。
五人目の秘書。朔夜氏は明らかに選り好みしている。どういうタイプを望むにしろ、合わせてやるつもりはない。私は仕事をしに来たのだ。お前の機嫌を取る気はない!
どちらもしばらく無言だった。やがて、朔夜氏が頬杖をついた。
「鴻さんは口数が少ないほう?」
「は? 別に、普通ですが」
「なるほど。意気込みとか、アピールとかある?」
意気込み? アピール? ゴマを擦ってほしいのか、この男?
「ありません。私は仕事をするためここにいるんです」
ぴしゃりと跳ね除ける。朔夜氏は頬杖つくのをやめ、背筋を正した。
「そのとおりだね。では、仕事の話をしよう」
朔夜氏はデスクから書類の束を取り出した。引き継ぎ資料だろうか。
部屋の前半分はローテーブルと複数人掛けソファ二脚による応接スペースとなっている。ソファをよけながら、彼のデスクの正面まで歩み寄る。
「君の仕事はまず俺のスケジュールを把握するところから始まる。アポイントの管理、来客対応、不在時の連絡係、まずはこの三つをお願い。もし君が有能な場合は、もう少し追加で頼みたい」
紙束を数枚めくってみる。ヤバい、目が回るほど忙しくなる予感がする。
「今日一日かけていいから、この資料、全部頭に入れておいて」
さらっととんでもないことを言ってきた。書類束の厚さは約五センチ。五センチの資料って、コピー用紙何枚分?
「たぶん四百枚くらいある」
書類を数えようとする私の動作から、朔夜氏が事も無げに答える。
「代わりに、今日はほかの仕事はしなくていいよ。できそう?」
朔夜氏が、試すように私を見上げる。くそ、まつげ長いな。動作のひとつひとつが洗練されて、まるで映画の登場人物みたいだ。私は端役のはずだったのに、今、彼と共に舞台の中心でスポットライトを浴びている。同僚からの羨望、嫉妬、少しのお悔やみ。こんな絶世の色男、眺めるだけで十分だったのに! まさか秘書に選ばれるなんて!
くそ! 顔が良い!
できないとは言いたくない。私にも、社会人三年目としてのプライドがある!
「三日ください」
目の前の上司を睨みながら宣言する。
「今日中には難しい、ですが、三日いただければ、きっと」
朔夜氏は二度三度まばたきすると、椅子から立ち上がり――私の身長は一六〇センチ、対する朔夜氏は、およそ一七五センチ――見下ろしながら言った。
「二日」
値切るな! 三日でギリギリだ! 圧力には屈しない!
「いえ、三日、必要です」
抑えた声色で主張する。これ以上は絶対に譲らない。どんな美貌の持ち主でも、私を懐柔できるなどと思わないことだ!
朔夜氏はしばらく私を見下ろしていたが、やがて視線を外し、椅子に深く沈んだ。
「わかった。三日待つ。その間、君はこの資料を頭に入れる以外の仕事はしなくていい」
私は安堵のため息をついて、朔夜氏に頭を下げた。
「承知しました」
「その代わり」
顔を上げる。
「そこで仕事してほしい。部長室の外にある君のデスクじゃなくて、この部屋のローテーブルで」
私は背後、応接スペースを振り向いた。
「なるほど、朔夜部長は私を監視したいと?」
皮肉たっぷりに文句をつけると、彼は動じず「嫌?」と逆に聞き返してきた。
「君がこの部屋から書類を持ち出さないよう仕事してくれると、俺としては、機密書類に関してのリスクを大きく減らせるのだけど」
「……まるで、全然信用されていないみたいですね」
「その認識で合ってるよ」
朔夜氏は無表情に言った。
「君はまだ俺の秘書になったばかりだ。信用してほしいなら、仕事で示して、積み上げて。具体的には、三日でこの資料を完璧に頭に入れて。話はそれから」
私は唇が引きつるのを感じながら「承知しました」と唱えると、資料を両手に抱えた。
うっ、重い……。腕と肩にずっしり来る……。
応接用ローテーブルに資料を運ぶ私を、ただ眺めているだけの朔夜氏。手伝う素振りゼロ。
ぐうう、負けてたまるか……!
いや、逆に考えよう。これからは仕事中、朔夜氏のご尊顔を拝見し放題だ、と。
非公式ファンクラブにおいて一枚五百円で流通している隠し撮り写真を思えば、モチベも上がるというものだ。なんなら一枚持っている。
ようやく資料をローテーブルに乗せ、疲労のままソファに腰かける。と。
「うおわっ!?」
あまりのふかふか加減にお尻が深く沈み込み、膝が伸びて足をテーブルにぶつけてしまう。途端、書類の山が揺れ、テーブルと床に滑るようにして広がった。
「ああっ! あああ……あ……」
身体が緊張したのも一瞬のことで、すぐに諦め、脱力し、ソファにもたれこむ。もっと硬い、デスクチェアのつもりで座ったのだ。この高級ソファがいけないのだ。
朔夜氏は一連の事故を眺めていたが、やがて、デスクから別の書類を取り出した。先程外した眼鏡をかけ直し、言う。
「期限は三日から動かないよ。俺は俺の仕事をするから、鴻さんも頑張ってね」
朔夜氏を無言で睨むが、暖簾に腕押し。彼が書類拾いを手伝うことはとうとうなく、バラバラになったそれらをかき集めた私は、まず順番の復元から取り掛かるのだった。




