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第33話 受話器をとっただけなのに

 ハツはリンドウ丸の廊下を一人で歩いていた。すでに消灯時間をすぎて薄暗い。


 ヒメネス博士に指示された場所へと続くエレベーターの前には二人の番兵がいた。

 

 彼らはハツが名前を告げるとすんなり通してくれた。


 エレベーターはとてもスムーズに加速して指定された階へとハツを運んだ。


 扉が開くとそこにも番兵が一人いて、どちらに進めばいいか教えてくれた。言われた方向へ進むと大きな扉があった。


 ここには番兵がいない。監視カメラはあった。ハツを見つめている。


 呼び鈴と思しきスイッチがあったので押してみると大きな扉が開いた。


 中はリンドウ丸の他の場所よりも天井が少しだけ高かった。


 フローリングに薄緑色のじゅうたんが敷かれ、ベージュ色のソファや白いテーブルがあった。


 居住空間にも思えたが、壁際には何に使うのかわからない大きな機械が置かれていた。


「こっちですハツさん」

 女性の声がしたので、ハツはそちらを向いた。


 そこにいたのはヒメネス博士ではなかった。


 赤い髪のヒメネス博士ではなく、黒髪を後ろでたばねた女性。白衣ではなく、おとなしい色のゆったりしたワンピース。


 背はハツよりもすこし小さいくらい。


「あ、疲れていますよね、こんな遅くに申し訳ありません」

 深々と頭を下げて詫びる彼女にハツは見覚えがあった。


「わたし横須賀のハンバーガーショップであなたを見かけた気がします。試験の前日」


 ハツの目の前に立っているのは、あのときユキナガがとてもきれいだといった女性だった。


「確かにわたしはそこに行きました。へえ偶然。前にも一度会っていたのですね」


「そのようです。わたしは田中ハツといいます。ヒメネス博士の指示を受けてここに来ました」


「待っていましたよ田中ハツさん。わたしは一ノ瀬アン。あなたにしかできない仕事があるの。どうかわたしを助けて」


 アンと名乗った彼女は簡潔に用件を告げた。


「わたしにしかできない仕事。それはなんでしょう? 見当がつかない。わたしはただの中古AIよ」


「あなたはWiFi接続機能を搭載すると聞きました。それはわたしたちにとって必要な機能なの」


「WiFi……? そんな大昔の通信規格が重要なのですか。そういえばヒメネス博士も興味を持ったようだったけれど」


 確かにハツにはWiFi接続機能がある。AIヒューマノイドの開発黎明期にいろいろ試してみたころのごく一部機種にそれは付けられて、あんまり意味なかったので廃れた機能。


 それを聞いてユキナガは「ああ、テレビデオみたいなものか」と、聞いたことがない謎の単語を発していた。


「元々、WiFiはブラックホールからの電波を検出するために開発された技術です。それによって発生する特有の現象があります。もっともそれが発見されたのはつい最近のこと」


「なんと」


「ハツさんこっちへ」


 ハツは一ノ瀬アンに招かれるままに、さきほどから気になっていた大きな機械に近づいた。


「ハツさん、受話器をとってくれますか」


「受話器。ああこれ」

 ハツは機械に据え付けられた公衆電話の受話器のようなものを、いわれるがままに取った。


 そして耳に当ててみた。気づくと一ノ瀬アンがハツのもう片方の手を握っていた。

「おや」


 そのとき風が吹いたようだった。部屋の中なのに。


 ハツはたしかに風を感じたがそれは錯覚だった。


 物理モーメントが発生しているようだった。


 それは光の渦巻きを生み出し、ハツと一ノ瀬アンはその渦の中へ巻き込まれた。一瞬だけ大きな音が聞こえて消えた。


 あ、これはたぶんアカンやつ。ハツは危険を感じて目を閉じた。


 いろんなことを考えた。死を覚悟した。


 ユキナガのことも案じた。回転して、振り回されて、心と体がほどけていくようだった。


 そのうち急に静まったように感じた。


 おそるおそる目を開けると、ハツの前に兄のシバのすけの姿があった。柴犬ベースのAI。


「お兄ちゃん」


 シバのすけは何も言わずじっとハツのことを見つめていた。少し微笑んでいるようだった。


 ハツは彼にもっと何かを話しかけたかったができなかった。


 シバのすけの姿が上下さかさまになった。兄が回っているのかそれとも自分なのかがハツには分からなかった。


 そして気付くとハツは薄暗い、何もない一室にいた。


「ここは……どこ?」

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