第三十六話 宮古湾海戦
度重なる逆風にも関わらず、作戦の中止の声は上がらなかった。
誰もが作戦決行を覚悟していた。
どのみち不利なことは変わらない。
宮古湾まで来てしまったならやるしかないという訳である。
"破れかぶれと紙一重ではあるが"
三月二十五日、早朝。
歳三は回天の甲板に立っている。
遠く前方に宮古湾が見えていた。
荒波に晒された岸壁が湾の左右に広がっている。
この辺りでは宮古湾しか波が穏やかな場所は無い。
新政府の艦隊が停泊に使うわけである。
「上手くいきますかね」
隣で甲賀が呟いた。
マストを仰いでいるので、歳三も視線を追った。
潮風にはためくのは星条旗だ。
いわずとしれた米国の国旗である。
回天を米国艦に見せかけ、甲鉄艦に接近しようという肚である。
「今更ですが、こんな子供だましが通用するんですか」
「回天の外壁を多少塗り替えております。星条旗に注意が向けば、この朝もやの中なら」
甲賀の言う通り、海には白くもやが出ていた。
上手く行くことを願うしかない。
回天が前、高雄は後ろだ。
ニ隻は縦に並び、じりじりと湾内へと進んでいく。
波が次第に穏やかになってきた。
朝もやを通して、敵艦隊が徐々に姿を表す。
マストの上から見張りが声を上げた。
「二時の方向に甲鉄艦発見!」
緊張が高まる。
甲賀の指示に従い、操舵手がかじを切った。
ごぅん、と回天が船首を右に切る。
他の敵艦も周囲に見え始めた。
だが動かない。
こちらを米国艦と誤認したままなのだろう。
ならば……一縷の望みはある。
「米国旗下げぇ! 代わりに日章旗を掲げろ! 回天はこのまま全速前進! 機関部にありったけの石炭をくべろっ!」
甲賀の号令が飛んだ。
マストの上にはためく旗が日章旗へと変わる。
ほぼ同時に回天の速度が増した。
船の両横の巨大な外輪がごぅんと回る。
甲鉄艦との距離を縮めていく。
思わず歳三は「行け!」と叫んでいた。
"敵は浮き足だっている。アームストロング砲だってここまで近ければ撃てないはずだ"
甲鉄艦最大の武器は三門のアームストロング砲だ。
だが、弾込めにもたつく間に回天が間合いを詰めていた。
歳三の目にも甲鉄艦がはっきり見えた。
事前に聞いていた通り、こちらより甲板は低い。
これでアボルダージュは可能なのかどうか。
いや、やるしかないのだ。
「接舷します!」
操舵士の叫び声と回天が甲鉄艦の右側に並ぶのはほぼ同時だった。
だが予想していた程の衝撃は無かった。
回天の左の外輪が、甲鉄艦の右側の船体を削っただけだ。
接舷以前の問題である。
海軍奉行の荒井が身を乗り出す。
甲賀の方を向いた。
「船首から甲鉄艦にぶつけられないか。一点接舷で乗り込む」
より難易度の高い方法だが、他に手は無い。
甲賀は回天を一度後進させ、そこから前進に切り替えさせた。
甲鉄艦は嫌がるように逃げるが、回天の方が速い。
強い衝撃が突き抜ける。
回天の船首が甲鉄艦の左後方部へと乗り上げたのだ。
「ようやくか」
歳三は体勢を立て直した。
波に揺れる甲板の上では流石にいつものようにはいかない。
だが、待ちに待った好機である。
逃がすわけにはいかない。
「撃剣隊、抜刀! 艦首から甲鉄艦へ飛び移れ!」
無茶は承知の上である。
一点接舷では敵の船への道筋が狭い。
船首から一人ずつしか攻め込めない。
飛んで火にいる夏の虫状態である。
しかも回天と甲鉄艦の高さの違いもある。
回天の船首から甲鉄艦の甲板へと飛び降り、そのまま白兵戦となる。
飛び降りに失敗すれば、海の藻屑だ。
だが、撃剣隊の隊士達は勇敢であった。
歳三の命令に応えるため、前に出た。
一列となり船首から飛び降りていった。
だが、あまりにも条件が悪過ぎた。
「送り込める数が少な過ぎる」
歳三は歯噛みした。
狭い船首からでは雪崩込めない。
敵は甲板で待ち構えている。
飛び降りたところで袋叩きに遭うだけだ。
開始早々、劣勢は明らかだった。
しかもこの間に残りの敵艦が迫ってきた。
高雄だけでは牽制にもならない。
甲鉄艦の乗組員も小銃を撃ち込んでくる。
火薬の匂いが戦場を満たした。
"やむえん"
隊士に命じ、縄を用意させた。
ぐるりと自分の胴に巻く。
縄のもう片方の端は回天のマストに括りつけさせた。
「私が甲鉄艦に乗り込む。合図をしたら引き上げろ」
雑音を視線一つで黙らせた。
時間が無い。
ダン、と踏み切る。
一拍の静寂の後、無事に着地。
着地から抜刀までの時間が極端に短い。
幾多の実戦をくぐり抜けてきた経験の賜物である。
"この作戦は失敗だ。だが一糸は報いてやる"
悪条件が重なり過ぎた。
アボルダージュ続行は無理だろう。
だが、このまま引き下がれば本当に無駄になってしまう。
せめて一太刀浴びせるまでは引けない。
意地である。
敵が誰何の声をあげた。
歳三は不敵に笑った。
「陸軍奉行並の土方歳三だ」
返事は待たなかった。
斬り込み、刃を合わせた。
次の瞬間、わざとこちらの右半身の力を抜いた。
引き込まれた形になり、敵兵の体勢が崩れた。
首筋を狙って剣を振るう。
血飛沫、確認もせず、次の敵兵を標的にする。
「今のうちに一人でも逃げろ!」
まだ甲鉄艦に残っていた味方を鼓舞する。
その一方で歳三は独りで敵を翻弄していた。
決死の時間稼ぎである。
歳三の捨て身の活躍が何人の命を救ったのかは分からない。
けれども劣勢の中の一条の光明であったのは確かだ。
歳三は死力を尽くして暴れ回った。
敵兵の包囲網が微かに緩む。
「縄を引け!」
この隙にすかさず離脱を選択。
縄の引かれる速度に合わせ、甲板を蹴って跳躍する。
目の前に迫る回天の船壁に足をかけ、どうにかよじ登った。
敵兵の刀が足元を掠めた気がする。
けれども確かめる暇も無い。
「撤退だ、撤退ーっ! 総員、持ち場につけーっ!」
号令が飛んだ。
声の主は荒井だ。
歳三は不審に思った。
艦長の甲賀ではなく、何故荒井が?
嫌な予感がする。
けれども回天は既に後退し始めていた。
甲鉄艦の姿がゆっくりと小さくなる。
「口惜しいがここまでか」と歳三は甲鉄艦を睨んだ。
戦闘開始から僅か三十分。
アボルダージュは失敗。
総戦死者は十三人。
負傷者は四十人余り。
しかも艦長の甲賀源吾まで敵兵の銃撃により戦死していた。
「何たることだ……」
荒井が肩を震わせていた。
歳三は「甲賀さんまでが」と無念の声を絞り出した。
どうにか敵艦は振り切った。
けれども被った痛手は余りに大きい。
回天も銃撃による損傷が目立つ。
航行は可能だが、船壁やマストは穴だらけだった。
"函館で巻き返すしかあるまい。まだ終わってはいない"
歳三は拳を固めた。
この男の戦意は負けて尚、燃え盛っていた。
回天、三月二十六日に函館に帰港。
宮古湾海戦はこうして終わった。




