第三十二話 冬の町
梅の花 一輪咲いても 梅は梅
この句を読み返す時、歳三はいつも一人の娘のことを思い出す。
もう何年も前になる。
島原の遊郭で、一人の少女と出会った。
平安神宮への案内を頼み、その際に少し会話した。
隊士には見せない顔を見せた気もする。
会う機会は無いだろうし、特に会いたいとも思わない。
だがあの頃が無性に懐かしくなることはある。
"鳥羽伏見以降はどんどん戦線後退しちまってるからな"
自然としかめっ面になる。
連戦連敗というわけではない。
中には宇都宮城攻略など特筆すべき勝利もある。
この蝦夷に到着してからは、松前城も陥落させた。
だが全体としては圧されっぱなしだ。
旧幕府軍の拠点はもはやこの函館しかない。
"考えても仕方ないか"
珈琲を一口飲む。
窓の外を見れば、白いものがちらついていた。
雪だ。
灰色の空から白い雪がはらはらと舞っている。
その雪一つとっても京都で見た雪と違う気がする。
考え過ぎだろうか。
感傷に浸りすぎているだけだろうか。
歳三は句集へ視線を戻した。
過去の足跡が五七五の形で和紙に刻まれている。
一句したためようかと思った。
けれども良い句が思い浮かばない。
俳句に凝っていたのは主に多摩にいた頃だ。
あの頃の自分と現在の自分はもう比べられない。
世間を知り、時代を知り、戦いを知り過ぎるくらい知っている。
情景を見る眼が変わってしまったのも無理は無い。
"ふん"
寂しいような、悲しいような、腹立たしいような。
自分の感情を持て余したまま、歳三は句集を再び開いた。
しばらく読み返し、時折窓の外を見て、また句集に視線を落とす。
それにも飽きてきた。
懐から別の書物を取り出し読み始めた。
和綴木版刷りの小冊子であり『歩兵心得』と書いてある。
相当読み込んできたため、表紙は既によれていた。
京都から江戸へ引き上げる時、同船した榎本武揚からもらった本だ。
"こいつをもっと早い内に手に入れていれば"
悔やむ気持ちは無くも無い。
この本は洋式戦闘の基本について記している。
幕府の陸軍所がオランダ陸軍の歩兵戦術を翻訳していた。
銃を持った歩兵をどう活用するか。
その知識が自分にあれば、鳥羽伏見で負けることはなかったのではないか……いや。
"俺が全軍を率いていたわけじゃない。夢を見過ぎだな"
自戒せねばならない。
自分を高く評価し過ぎだ。
歩兵心得を読み始める。
一部、カナ文字が使われていた。
蘭語を訳さずそのまま使っているのである。
もちろん歳三は蘭語を知らない。
だが、驚くべきことに初読の際に概ねこれらの意味を推察している。
読解力の高さが伺える。
"俺達の兵数は限られている。寡兵で多数の敵に打ち勝つためには、戦術で圧倒するしか無い"
文字の羅列を経験と照らし合わせる。
戦場の空気を学んだ論理に組み込んでいく。
この作業を歳三は何度も反復させていった。
******
読書を終え、喫茶店を後にした。
まだ雪はちらついている。
歳三は馬に跨り、函館の町を巡回することにした。
会議までは時間がある。
途中、何人かの隊士とすれ違った。
巡回中の新撰組であった。
もっとも今は函館新撰組と名を変えている。
服装も京都の頃の浅葱色の羽織ではない。
木綿の詰め襟服にズボンという洋装だ。
彼らは歳三を見かけるとサッと敬礼した。
「良い。任務中に邪魔したな。引き続き励みたまえ」
「はっ。土方陸軍奉行並にお声がけしていただけるとは有難き幸せ」
「そう固くなるなよ」
緊張している隊士達と別れた。
「陸軍奉行並か」と自分の役職名を呟いた。
今や陸軍の重鎮か。
陸軍奉行である大鳥圭介のすぐ下である。
この役職名で呼ばれることに未だに慣れない。
新撰組副長が骨の髄まで染み付いているらしい。
"仕方ないさ、あれだけ濃い時間を過ごしたのだからな"
自分を納得させた。
函館の町を馬でゆっくりと行く。
海岸線に出た。
ゆるやかに砂浜が広がり、開放感がある。
ザ、ザザァと波が打ち寄せ引いていく。
潮騒に混じり、海鳥の甲高い鳴き声が聞こえてきた。
群れで飛ぶ海鳥が視界の上方を横切った。
降りしきる雪の中、不規則に舞っている。
上昇と下降を巧みに織り交ぜ、海中の魚を狙っているらしい。
スッ、と襟元から寒気が忍び込んできた。
歳三は襟元のスカアフを立てた。
海に背を向け、馬を五稜郭の方へ向けた。
一人、ただ独り、馬上の人となった歳三は。
黒い影のように雪景色の中に滲んでいく。
胸の内の熱を未だ抱いたまま。




