第二十八話 過去は取り戻せない
のろのろと沖田は馬を進めた。
茶屋には他の客もいる。
人目がある以上、見なかったふりは出来ない。
いや、それ以上に沖田自身が山南を許せそうになかった。
茶屋に馬を留めた時、手がやけに重かった。
「よく追いついたね、沖田君」
「そりゃ追いつくでしょうよ。この時間に大津にいるなら」
山南は朗らかだ。
対照的に沖田は陰鬱そのものである。
山南の隣に座った。
茶だけ頼む。
普段なら一緒に団子くらいは頼むが、食欲はまるで無い。
はぁ、と大きなため息をついた。
「勘弁してくださいよ、まったく。こんな緊迫感の無い脱走、見たことが無い」
「それは君も同じだろう。追手がたった一人とはね。形式を繕うにしても露骨だな。ああ、土方君の考えか。彼も苦労するな」
「他人事みたいに……」
どっと疲れた。
沖田は両手で顔を覆った。
横目で様子を伺う。
山南はのんきに団子を頬張っていた。
ゆっくりとした所作からは脱走者とは思えない。
「賭けをね、していたんだよ。自分の中でね」
ぽつりと。
山南が呟いた。
沖田は体を起こす。
山南は話し続けた。
「逃げて運試しをしてみよう。陸路か海路で二分の一の運試しだ。私はその賭けに負けた。それだけのことさ」
「勝つ気も無さそうに見えますが」
「いや、一応あったよ。あったけど勝ったとしてどうしたいかは……分からないなあ」
ハハ、と山南は小さく笑った。
乾いた、情感の乏しい笑いだった。
沖田を諭すように話し続けた。
「賭けに負けた場合は斬り死にしようと思っていた。でも君を見つけた瞬間、その考えも捨てた。沖田君は僕の小噺をよく聞いてくれていたからな。貴重な観客相手に剣は振るえないよ」
「……そう、ですか」
「子供達に会ったらさ。伝えておいてくれないかな。山南のおじさんは故郷に帰ったって。君らと遊ぶ時が一番楽しかったよって言っていたとね」
「山、南さん……やめてください、卑怯だ、そんなの……」
再び顔を覆う。
今の顔を見られたくなかった。
誰にも見られたくなかった。
新撰組一番隊組長が泣いているなど、知られていいことではなかった。
「済まないね、総司」と山南は優しく言った。
試衛館時代の呼び名をただ一度だけ使って。
「沖田君。屯所まで案内してくれるかい。私はやはりここで終わる運命のようだ」
「……分かりました」
山南が促す。
涙を拭い、沖田も立ち上がった。
これ以上感傷に浸る暇は無かった。
山南が茶屋の娘を呼ぶ。
「ここは私が勘定を持つよ。最後に奢ってあげられるのがこんなもので悪いね」
沖田にはもう、返す言葉が見つけられなかった。
******
沖田が山南を連行して屯所に戻ったのはその日の夕方であった。
冬の日は短い。
ただでさえ暗い気持ちに拍車がかかる。
「ただいま戻りました」
「ご苦労だった、総司」
出迎えた歳三は無表情だった。
無理しているのか、それとも本当に無表情なのか。
沖田には分からない。
歳三は沖田から山南へ視線を移した。
「山南さん。分かっていると思うが脱走は死罪だ。それは覚悟の上ですね」
「無論だ。一応これでも副長なのでね。局中法渡は理解している」
「結構。総司、お前は上がって休め。山南さんは牢に入ってもらう。今夜一晩の我慢だ」
歳三の言葉の意味するところを察し、山南は顔を伏せた。
今夜中に新撰組内部で決議をまとめ、明日切腹ということだろう。
法渡に則れば死罪は確定ではある。
だが、幹部内でその決議を共有する必要はあるのだ。
しばらく重い沈黙が続いた。
山南が口を開く。
「分かった。一つだけ頼みがあるのだが良いだろうか」
「内容次第だが聞こう」
「島原の天神という遊郭に、明里という芸妓がいる。私が死ぬことを伝えてもらえないだろうか。何も言わないままだったからね」
歳三もその女のことは知っている。
それだけに胸に刺さるものがあった。
「隊を抜けることは言わなかったのか」
「言わなかった。いや、言えなかった。口に出せば自分の決意が鈍りそうな気がした。それに彼女に迷惑がかかるかもしれないと……危惧したからね」
「分かった。武士の情けだ、お伝えしておく」
「かたじけない」
会話は終わった。
何人かの隊士が山南を連行する。
壬生には牢獄がある。
捕らえた浪士を閉じ込めておくための場所だ。
まさかそこに副長の一人を閉じ込めるとは、誰も予想していなかっただろう。
山南が連れ去られた後も、重い空気は屯所から消えなかった。
日が完全に落ちた後、新撰組幹部らが集まった。
議題はもちろん山南の処遇についてである。
灯ろうに火が入った。
ジジ、と蝋燭が燃え上がり、皆の顔を照らし出す。
頃合いと見て、歳三が切り出した。
「ご存知の通り、副長の山南敬助が脱走した。既に沖田総司の手により連れ戻され、身柄は確保している。処遇を確認する意味で集まってもらった次第だ」
各々が反応する。
その中で真っ先に口を開いたのは近藤であった。
局長の立場上、責任を感じているのだろう。
「脱走は死罪。局中法渡に則ればそれで確定だな、歳」
「ああ。完全に自分の意志で逃げ出しているからね」
「そうだな……うん」
近藤はむっつりと黙り込む。
大きな口は閉じられたままだ。
山南は試衛館以来の同士である。
隊規第一とはいえ葛藤は当然あるのだ。
だが口に出すことはしなかった。
「仕方あるまい」と近藤がため息をついた時だ。
「ちょっと待ってください、副長。ほんとに死罪なのか」
「異議があるのかね、永倉君。今しがた局長も認めただろう」
「あるから言っている」
永倉が立ち上がった。
厳しい顔で歳三に向き合った。
「山南さんは確かに脱走者だよ。だけどさ、江戸からずっと苦楽を共にしてきた仲間じゃないのか。それを簡単に切り捨てていいのかって、俺は言ってるんだよ」
「私情を仕事に挟むべきと永倉君は言いたいのかね。それこそ噴飯物だろう」
「なら言わせてもらうがね。山南さんから副長の実権取り上げたのは誰だい。土方さん、あなたじゃないのか。山南さんを追い詰めておいて、その結果がこれじゃないのかよ」
「何だと」
永倉の糾弾に歳三もかちんときた。
目つきが険しくなる。
二人の間に緊張感が走った。
慌てて沖田が割って入る。
「止めてくださいよ。これ以上仲間を失うなんて私はたくさんだ。敵と斬り合って死ぬならともかく、味方同士でなんて!」
「だから俺は山南さんを助けたいと思っているんだろう。土方さん、あんたほんとにいいのか。これが正しいと信じているのか」
「正しいと信じているさ。山南さんは脱走しますとわざわざ宣言までしている。これで彼を助命してみろ、他の隊士も抜けたいと思った時に脱走するぞ。武士の自覚も育たぬ前にな。そうなれば新撰組の崩壊などあっという間だ」
永倉は詰め寄るが歳三も譲らない。
これだけは譲れない一線があった。
右拳を握りしめる。
爪が掌に食い込むほど強く握った。
皮膚が耐えきれず、ぽたりと血が滴った。
気がついた永倉が呻き声をあげた。
その間にも歳三の拳は赤い滴に汚れていく。
「ちくしょう!」と永倉は叫んだ。
近藤が歳三の方を見た。
「歳、お前が正しい。明日、山南君は切腹してもらう。わしが認めた以上、これはわしの責任だ。これで構わんな」
「ああ」
答える歳三の声はひび割れていた。




