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「それでは皆さん、これからお友達と共に楽しい学校生活を、そして先生たちと共に学びを育んでいってください」
あれから教室に一度は集められた莉乃たちは、広い講堂に移り入学式に参加している。
どこかの音楽ホールと変わらないこの講堂の一階に一年生とお世話役の六年生が、二階に保護者達が座っていた。
ちなみにクラス分けは残念ながら朔とは離れてしまった。けれど隣のクラスと言うことなので一先ずは安心した。ついでに言うと竜伊も朔と同じクラスだ。何で二人が一緒で莉乃が一緒ではないんだろう、と不満げに思ったけれどそれは仕方ないだろう。婚約者同士を学園は同じクラスに入れないのが決まりだ。よって二人の家の力をもってしてお隣のクラス同士が精一杯という所だ。つまりこれから六年間____いや、高校卒業まで二人が同じクラスになれることは多分ないだろう。
その代わりと言っては何だが莉乃のお世話役の六年生は高野貴子という気が優しい子であった。莉乃に対して柔らかい態度を取る貴子に莉乃は心底安心したのである。
新しい環境に身を置く不安だけではなく、パーティーなどに参加したことのない莉乃は他の令嬢との正しい距離間など知らないので世話役との顔合わせの際は気高く背筋を伸ばしている裏では酷く緊張していた。高飛車な令嬢が相手であったのなら、悲惨なパートナー関係になること間違いなしであっただろう。
そうして簡潔に纏められている入学式が終わり、クラスで担任からの話__これは長かった__を聞いて莉乃は誰ともクラスメイトと言葉を交わすことなく教室から出た。周りのクラスメイトは、どこからか紛れ込んだ妖精の如く儚げで美しい莉乃に声をかけることが出来ずにいた。加えてこの教室の中で莉乃は誰よりも家柄が高い。早速一日目にして周りから遠巻きに見られて決して近づかれることのない高嶺の花と莉乃はなっていた。
そんなことを気づかない莉乃は冷静に「“あいうえお”から勉強を始めなければならないの?」と与えられた教科書を見据えていた。教科書と共に積み上げられているワークブックの一冊には永遠と“あいうえお”を繰り返し書く本さえある。前世は平凡と言っても二流であろうが国立大学に受かるために必死に受験勉強をした莉乃にとって、また今の世代でも高度な勉強を既に進めている莉乃にとってこれほど時間の無駄な作業はないだろう。それに嫌気がさしていた莉乃に、そんな莉乃を見つめる周りの視線なんて全く気にならないものであった。
そうして莉乃は誰よりも早く教室を出ていき、高級感あふれたカーペットを歩きながら入学式の為派手に飾られた廊下に目を向けていた。
そんな莉乃に声が掛かる。
「莉乃ちゃん」
柔らかい声に莉乃はハッとその声の方へ視線を向け、声の主に先ほどとは一変して大輪の笑みを向けた。
「朔!」
退屈な教師の話に、自分がピカピカの一年生のおべんきょうをやり直す事実にため息を吐きたいほど悶々としていた莉乃の心は、朔の姿を見るだけで綺麗に晴れた。
一足先に帰れることになった朔は階段の前で莉乃を待っていたのである。これから朔の家族と莉乃の家族で食事会を行うためだ。
スカートの裾を揺らして朔に駆け寄った莉乃は「ごめんね、まった?」などと言いながら朔の横に立つ。「ううん、大丈夫だよ」とかなり待ったにも関わらずお手本の答えを返した朔は、莉乃の歩調にしっかり合わせるように莉乃と歩き出した。
実は朔はクラスで当然と言っては何だが初日から非常にモテていた。それはもう殆どのクラスの女子がきゃーきゃー頬を染めてしまうくらい。もちろん竜伊に対してもそうだ。しかし朔にとっては不運なことに一見黒髪で端正な顔立ちの____幼いながらに将来の冷たい黒豹を思わせる風貌の竜伊には莉乃と同じようにクラスメイトは遠巻きに見るだけだが、一見優し気な王子の朔にはグイグイと積極的な一年生は詰めかけてしまうのだ。
なので先ほどまで「さくさまいっしょにかえりましょう!」と朔を何人もの女子が引っ張り合いをしていた。それに苦笑してしまう朔と呆れ果てている竜伊。二人にそれを止めるスキルはまだなく、女の子の争奪戦はヒートアップしていくだけでだった。小学一年生と言えど侮れない積極性だ。
直ぐに先生が駆け寄ったことと、「俺は帰るな」と竜伊が帰って行ったことで、争奪戦に参加していた女子生徒も今度は竜伊に引っ付いて帰って行ったので莉乃がこの騒動を見ることはなかったけれど、直ぐに目にすることになるに違いない。
「……さくさまとりのさまだぁ」
「あら、一条と宮野の。確か婚約者同士の筈よ。仲がいいのね」
その様子を見ていた新入生と保護者は多く、一日で名前と顔を周りに一致させた二人は、次の日には婚約者と言うことを周囲に把握させた。
迎えの車に二人仲良く乗り込んだ様子を見られたことから「好き同士の二人」と噂に尾ひれが付くことも、余談であるが言っておこう。
これがまだ顔を合わせた日数計二日の二人だなんて周りは欠片も思わない。
* * *
車内では、暫く好きな食べ物についてとりとめのない会話が二人の間で交わされていた。
朔は甘いものが好きだと言うことをしっかりと頭に刻んだ莉乃は、今度テンプレートの如くお菓子を作って渡さなければなどと思う。莉乃も甘いものが好きなので一緒に行きたいカフェやホテルのメニューを探しておかなければ、という考えも忘れない。
「……今日の食事会楽しみ?」
しかしここで、莉乃がそう切り出した。だんだんと目的のホテルに近づくにつれ朔が莉乃の会話の返答を流すようになったからだ。今だって上の空だ。
朔は驚いたように莉乃を見て、「……うん、そうだね」と緊張しているためかぎこちない笑みを浮かべた。
そう朔はとても緊張している。なにせ普段共に食事をしない父親と食事をするためだ。朔はいつも食事は一人で食べ、パーティー以外で賑やかな食事など経験したことはないのだ。
もし父親の都合があって一緒に食事をする時があっても、終始互いに無言で、朔は何を食べてどんな味がしているのか分かっていない。緊張の為震える手で食器の音を立てないように振る舞うのが精一杯なのだ。手は震えはしないものの、莉乃も同じような境遇だった。__最近は莉乃の父親の莉乃を観察する場となっているが。
そんな朔なので楽しみと言うより緊張が心の中を占めているわけだが、それを莉乃に言うのは憚られた。小さな見栄っ張りが朔の中で芽生えているのだ。
莉乃はそんな朔の様子を見て「お父様とはよく一緒に食事をするの?」という質問を飲み込んだ。この朔の様子からしているとは思わないし、していたところで莉乃と同じく会話はないだろうと予想したためだ。朔にとって一番デリケートで傷つきやすい話であるので、莉乃は慎重に言葉を選ぶ。
「私も楽しみよ!特にデザート!」
莉乃は少し考えた結果、一気に湿っぽくなった空気を振り払うことに徹した。一際明るい声を出して朔に笑いかけると、朔は眉を下げて笑うものだから莉乃はどこか切なくなってしまう。
(あぁ早く二人の関係が修復されてほしい)
高校生の朔よりも、まだ感情が未発達な朔にとっては正直とても難しいことだ。だからこそ、感情が莉乃に寄り添って形成されてしまう前に何とかしなければならない。けれどあくまで二人の心の部分であるので、出会って数日の莉乃がズカズカ踏み込める場所などほぼないに等しいのだ。
二人の問題であるけれど、二人に任せてはおけない。朔の為にも、将来の莉乃の為にも。お節介だとしても絶対に譲ってはならない問題だと莉乃は考えている。
しかしまた上の空に戻った朔と、いい解決法が思いつけない莉乃と、二人はそれっきり会話を交わすことなくそれぞれの想いを抱えてホテルへと車が到着した。