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紅に散る―始原の岐路―  作者: 知佳
第三章
12/17

 おいで。

 そう、優しい声で導かれる。

 鈴音は温もりの近くへと、元気よく歩いていく。慣れ親しんだ祖母の家の縁側で、鈴音は無邪気に笑う。

 ――夢を、見ているの……?

 鈴音は薄っすらと、これが夢なのだと理解する。目の前には優しい顔をした祖母がいる。温かく、木漏れ日の差すこの風景そのものが、鈴音に夢だと静かに告げているのだ。

 祖母は幼い鈴音を膝の上に乗せると、頭を撫でながらゆったりとした口調で語り始める。

「鈴音も、もう大きくなったわねぇ。そろそろ、私の膝上に乗るのもお終いかしら」

「えぇー。おばあちゃんのおひざ、あったかくて好きなのになぁ」

 鈴音はにこにこしながら自分の腕を祖母の腕に絡ませる。幼かった鈴音は、祖母の家に来る度にこうして甘えていた。

 ――おばあ、ちゃん……。

 夢だと知りつつも、鈴音は目尻が熱くなるのを感じずにはいられない。

 祖母は微笑を湛えたまま、スカートのポケットから何かを取り出した。八卦鏡だ。

「良い、鈴音? この鏡にはね、不思議な力があるのよ。もしおばあちゃんに何かあったらね、きっとこの鏡があなたを導いてくれるわ」

「ふしぎな力? 絵本に出てくるような、魔法とか?」

「ふふ。そうね、ちょっとした魔法かもしれないわね。この鏡はね、お祖母ちゃんも、お祖母ちゃんのお祖母ちゃんからもらったのよ」

「おばあちゃんの、おばあちゃんから?」

「そうよ。鈴音からしたら、ひいひいおばあちゃんにあたるわね」

 この時の事を、鈴音は今でも覚えている。祖母は八卦鏡を見せてくれた事はあっても、その事について何か話したのはこの一度きりだった。

「鈴音。もし、“見えない何か”を恐いと思ったら、この鏡を握りなさい」

「どうして?」

「あなたを守ってくれるわ」

 鈴音は静かに首を縦に振った。そして祖母は鈴音の小さな掌に、しっかりと八卦鏡を握らせる。

「少し早いけど、これはおばあちゃんからの誕生日プレゼントよ。明後日は、鈴音の誕生日でしょう?」

「ありがとう、おばあちゃん!」

 祖母がくれた大切な鏡。それだけで、鈴音は無性に嬉しくてたまらなかった。

 庭にある桜の木が、静かに花弁を散らしている。

 ――……おばあちゃん。

 鈴音はそっとこの後の事を思い出す。鈴音の誕生日がきてから約一ヵ月後、祖母は眠るようにして逝ってしまった。

 そして中学生になってから、祖母の遺言に、高校は森羅に通ってほしいという事が書かれていたと知った。最初は私立という理由で両親の反対もあったけれど、祖父母の遺産があった為、学費という点での反対は自然となくなっていた。

 ――……おばあちゃんはやっぱり全部、知ってたんだね。

 自分が全の姫であり、その孫である鈴音も全の姫になる事を。五獣達が森羅学園に通っており、それぞれ宿命を背負っている事、それら全て承知の上だったのだ。

 ――あたし、まだ分からない事だらけだけどね。

 鈴音は目尻を拭いながら、夢の中で笑っている祖母に向かって語りかける。

 ――でも、頑張ってみようと思うんだ。

 これからもっと恐い目に遭うかもしれない。使命への憤りも感じるかもしれない。日常と非日常の狭間で悩むかもしれない。

 けれど、今はただ目の前の事を一所懸命に頑張っていこうと思う。

 ――だから、出来たら見守ってて欲しいな。

 まだまだ弱くて、何かに縋ってないと生きていけないから。鈴音は、はにかむように笑った。

 その時、幻かもしれないが、祖母が今の鈴音に向けて笑ってくれたような、そんな気がした。

 光がどこからともなく滲み出し、次第に鈴音の視界に(もや)がかかっていく。

 祖母の顔が遠のき、鈴音の意識はどこか深いところへと落ちていった。

「――……やっぱり、夢だったね」

 鈴音は薄っすらと開けた目を擦りながら、枕元にある携帯電話に手を伸ばす。ディスプレイに映し出された時間を見れば、アラームの鳴る六時半より少し前だった。

 すでに外は明るく、すずめの鳴き声が聞こえてくる。

 鈴音はもぞもぞと布団の中で動き、不思議な気持ちに包まれながら、小さく欠伸を漏らした。

 

 その日の放課後、鈴音は職員棟の理事長室前にいた。一斉送信メールで啓から、他のメンバーと共に呼び出されたのだ。

「――って、呼び出した本人が遅いじゃねぇか」

「……類、うるさい。爽も来てないから、まだホームルームやってるんじゃない?」

「でも、あたしが四組の前通った時はもう終わってたっぽかったよ?」

 鈴音は悟と類と共に、まだ来ない啓と爽を待つ。

 暫くの間、他愛も無い話で時間を潰していると、啓と爽が何やら大量のノートを持って現れた。

「なにそれ、どうしたの?」

「大丈夫か?」

「あぁ、問題ない。これは、担任に頼まれた。悪い悟、職員室の扉開けてくれ」

「あ、うん」

 悟は啓と爽に駆け寄り、職員室の扉を開く。啓と爽はすぐ手前の机にノートの束を置くと、静かに扉を閉めた。

「お疲れ様ー。ていうか、もうノート提出?」

「あー、なんつーか宿題チェックだな。お前らのクラスにも宿題出てるんじゃないか?」

「あー、やっべ俺まだ宿題やってねぇや」

「……ちなみに類、明日の英語は小テストだから」

「マジかよ!!」

「まぁまぁ。そろそろ理事長室に行かないと、理事長も困るんじゃない?」

 職員室前で騒いでいた鈴音達だったが、爽の一言ですぐに足を進めた。

「そういえば、今日はどういう集まりなの?」

「あぁ。一昨日ぐらいに言っただろ。定例会があるって。それについて理事長から説明がある」

「……なるほど」

 啓の言葉に、鈴音は僅かに眉を寄せる。理事長室に呼ばれた時点で、また小難しい話になるのは覚悟していた。

 理事長室の前に来ると、啓は扉をノックする。中から麻衣の「どうぞ」と言う声が聞こえた。鈴音は緊張しながら、ゆっくりと啓の後に続く。

「急に呼び出してごめんなさい。今日しかここに来れる日がなかったものだから」

「いえ、平気ですよ」

 啓は淡々と会話しながら、麻衣に勧められてソファに腰掛ける。鈴音達もそれぞれ座ると、麻衣は茶封筒を一つ取り出した。

「今回あなた達を呼び出したのは、八家の定例会について連絡する為よ」

 麻衣は封筒の中からA4の用紙を出すと、それに目を通しながら話を進めていく。

「来週の十三日の日曜日。午後二時より開催。あなた達は、私が車で送迎するわ。だから、そうね……学校の正門に、午後一時半集合ってところかしら」

 麻衣が視線を鈴音達に向ける。送迎してもらえるならばそれに越した事は無い。鈴音は無言で頷いた。

「まぁ、定例会って言ってもあなた達は顔見世よ。特にこれと言ってやる事はないから、安心なさい」

「あの……一つ質問いいですか?」

 鈴音は恐る恐る手を上げる。麻衣は微笑みながら首を傾げた。

「あの、八家っていうのは具体的にどこの家なんでしょうか?」

「あら、説明し忘れてたわね。八家っていうのは、南、北海、東間、西城、四条、八代、それから黄龍の中野、全の姫の春日の八つの家よ」

「なるほど。でも、黄龍は今不在なんですよね?」

 前に啓達から聞いた。黄龍は一家揃って姿を眩ませた、と。

 麻衣は一瞬にして表情を曇らせる。考え込むように頭に手を当て、それから緩慢な動きで顔を上げた。

「えぇ、そうよ。八家といいながら、実際は六家なの」

「六家……?」

「先代黄龍。そして、全の姫の不在よ」

 その言葉に鈴音ははっとする。先代全の姫は鈴音の祖母。その祖母はもう七年も前に死んでしまっている。

「欠けてしまった二つの役目のせいで、“全の姫”のシステムはここ数十年不完全だったわ。けど、今は違う」

「……あたし達が、定例会に参加するっていう事はつまり」

「えぇ、そうよ。これは綻びが直っていく事の象徴になるの」

 鈴音は顔を俯かせる。

 綻びが直っていくことを象徴したとして、それは一体誰に影響するのだろう。システムは八家で回しているものなのだから、外部にはあまり関係ないようにも思える。

 すると、啓が「つまり、妖たちへの牽制にもなると?」と言葉を発した。

「結果として、そういう事になるわね。“百鬼夜行”だなんて得体の知れない妖集団まで出てきているんですもの」

 悪縷や温羅といった、強大な力を持つ妖。まだあれらに対抗する力を鈴音たちは持っていない。

 だからこそ、立場として牽制できる妖には、今回の定例会は意味があるのだろう。

「……私達は、ずっと昔から鬼の封印の為にあるわ。何故封印がなされているのか、その理由さえも忘れてしまうほど、長い年月を捧げている」

 鈴音は麻衣の話に耳を傾けながら、時折脳裏を掠める光景を思い出す。

 血に塗れた誰かが、目の前に立っている。ただそれだけであとの事は何も分からない。ただ真紅に塗り潰されてしまっている、おぞましい記憶。

 もしかしたら、あれは前世の記憶なのかもしれない。一体前世で何が起きたのだろうか。鬼の封印に関わった結果があれならば、繰り返してはいけない結末だ。

 ――誰かが傷ついてまで、守らなきゃいけない“約束”なんて……。

「……鈴音?」

「うん?」

 すっかり思考の海に潜っていた鈴音は、爽の声に上の空で返事をする。ふと顔を上げれば、鈴音以外の四人は何故か立っていた。

「は……ッ!!」

 鈴音は慌てて立ち上がる。どうやら鈴音が考え込んでいる間に話は全て終わってしまったらしい。

 理事長室を出ると、類が眉を垂れ下げながら声をかけてきた。

「鈴音、大丈夫か?」

 鈴音は苦笑しながら「ごめん。ちょっと考え事してたの」と髪に触れる。

 それから、少し真剣な眼差しを五獣に向けた。

「一つ、聞いていい? 皆は、前世の記憶って見た事ある……?」

 自分で言葉にしながら、鈴音は胸の奥がキリキリと痛むのを感じた。

 案の定、五獣は表情を暗くさせる。生徒会室に向かう渡り廊下で、吹奏楽部の練習が空しく心に響く。

 暫く沈黙のまま鈴音たちは歩き、鈴音が生徒会室の扉に手をかけた時、啓が口を開いた。

「さっきの質問。俺たちは、全員前世の記憶を見た事がある。見たものはバラバラだけどな」

「……鈴音は、どんなものを見たの?」

 爽が儚く微笑む。鈴音はゆっくりと息を吐き出し、心を落ち着かせる。

「知らない人が、血まみれで目の前に立ってた」

 言葉に出しても、あの光景が脳裏をよぎる事はなかった。その事に安心しつつも、啓達の反応が恐い。

 彼らの表情には、どこか期待を裏切られたような気色がうかがえる。

「……そっか。やっぱ、俺たちの前世は繋がってないのかもな」

「どういう、事……?」

 類の意外な言葉に、鈴音は目を見開く。類はしまったという風に口を押さえるが、もう遅い。五獣は視線で何かを伝え合うと、啓が一歩前に歩み出てきた。

「……今まで俺たちが見てきた前世の記憶。それを照らし合わせても、どこも繋がらないんだよ。記憶が断片的だから、断定はできないけどな」

 繋がらない。その意味はなんとなく分かった。つまり――。

「あたし達の前世は、必ずしも同じ時代だったとは限らないってこと?」

 かつて鈴音たちは、違う時代の同じ場所で、同じ役目を担った。その魂が流転を繰り返し、再びこの土地に舞い戻り、“今”となっている。 

「まぁ、可能性の話だけどな。現に、俺たち五獣と理事長の前世は違う時代だとはっきりしている」

「理事長と……? え、理事長も生まれ変わりなの!?」

 それは初耳だ。啓達は黙って頷いており、鈴音は衝撃を隠せない。

 全の姫に関わる人たちは皆、生まれ変わりなのだろうか。そんな疑問も浮かんだが、今は置いておく。

「理事長は完全に前世の記憶を思い出している。その理事長とでさえ、誰も記憶が一致する事はなかったんだ」

「そっか。確かに言われてみれば、前世も同じ時代に生きていたとは限らないよね」

「……納得できる、のか?」

 今度は啓達が目を丸くして鈴音を見つめている。鈴音は俯きながら、小さく口角を上げて見せた。

「うーん、まぁ、納得とはちょっと違うかも。でも、ここまできたら、ありえない話じゃないって思えるの。それに……」

「それに……?」

 言うべきか迷ったけれど、鈴音はしっかりと前を向いてしっかりと笑った。

「生まれ変わってもここにいるのなら、それは運命を変える為だと思う」

 前世なんてものが本当にあるのか、そんなもの誰にも証明できはしない。けれど、思いが確かに残っているのなら、それを受け継ぐ意味はある。

「前世でどんな事が起きたかは分からないけど。でも、きっと今の皆みたいに悩んで、苦しんでたと思う。生まれで役目が決められちゃってさ、理不尽じゃない? だからきっと、生まれ変わってまでここにいるのは――」

「俺たちで、この役目を終わりにする為か」

 鈴音は口をつぐむ。自分も全く同じ事を言おうとしていた。けれど、他人から改めてそれを突きつけられ、僅かに怯んだ自分がいる。

 本当にそんな事が出来るのか。まだ何も知らないから言える夢物語じゃないのか。

 心のどこかで、そう思ってしまった自分がいる。

 けれど。

「……やっぱ、鈴音って時々ワケ分からないよね」

「あぁ、マジすげぇ! そんな事、俺考えたこともなかったわ」

「君は、不思議な子だね」

「……だが、目指すだけの価値がある話だ」

 五獣の皆が、力強く頷いてくれた。それだけで、鈴音の心も強くなれる。そんな気がしてきた。

 鈴音は緩み始めた顔を必死で抑えようと、下唇を噛み締める。 すると、それに気づいた類がぎょっとしてこちらに近づいてきた。

「す、鈴音大丈夫か!? 俺、なんかやっちまったか!?」

「あーあー、類が鈴音泣かせたー」

「な……ッ!?」

「な、泣いてない! あたし、泣いてないよ!!」

 鈴音は慌てて手を横に振るが、悟は完全に類をいじめるモードに入ってしまっている。

 類は更に焦って謝罪の言葉を何度も言ってきた。鈴音は類の真っ直ぐさが何だかおかしくて、それでいてどこか心救われる。

「……みんな、ありがとう」

 ぽつりと漏らすと、五獣は一瞬目を見開いて固まった。しかしすぐに、それぞれ口を開く。

「お礼を言われるような事、まだしてないよ」

「困ったらお互い様ってな!」

「悟の言う通り、これからだよ」

「……ま、なんにせよ俺たちは目の前のやるべき事をやるだけだ」

「……うん!」

 鈴音は彼らの優しさを噛み締め、はにかんだ。



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