11 思い出ビター&スウィート
唐突な回想
色褪せた、セピア色の風景。反響する声と、ざわめく草木。遠い遠い、昔の記憶。
十年前、ハルちゃんはまだ子供で、わたしはもっと子供だった。でも、いまだに覚えてる。一緒に見た景色も、交わした言葉も、あの頃の気持ちも。
それは、吹く風の心地よい春のこと。
「うぅ……ぐすん」
ハルちゃんはしゃがみ込んで泣いていた。いつものようにドジを踏んで、しくしくと泣いていた。
ハルちゃんは本当に泣き虫だった。だから、わたしは年下だったけど、自然とハルちゃんをあやす役になっていた。
「もぉ、ハルちゃんったら、そんなことで泣かないで? はい、ハンカチ、かしてあげる」
「ぐすん、ごめんね? リンちゃん。ありがとぅ」
ハルちゃんは必死に涙を拭いた。けれど、後から後から、涙はぽろぽろと零れ落ちる。
「ごめんね……ごめんね……」
何度も何度も、ハルちゃんは繰り返す。そんな彼女を、わたしは放っておけなかった。
ハルちゃんは鈍臭いから、きっとこれからもドジを踏むだろう。そして、今のように涙をぽろぽろ流すに違いない。その時、もしわたしがいなかったら、一体誰がハルちゃんの涙を拭いてあげられるだろう。
きっと、わたし以外にはいない。ハルちゃんの涙を掬ってあげられるのは。そう、ハルちゃんには、わたしがいなきゃいけないんだ。
いつからか、そう思うようになっていた。
だから……
「ハルちゃん、立って? みせたいものがあるの」
泣いたままのハルちゃんの腕を引く。彼女は涙を湛えた瞳で、わたしを見上げる。
「見せたいものって……?」
「それは見てのお楽しみだよ!」
わたしはニカっと笑う。ハルちゃんに少しでも元気になってほしくて。
それから、わたしは走った。「見せたいもの」がある場所へ。一秒でも早く、ハルちゃんに見せてあげたかったから。
「ほら、ハルちゃん! こっちこっち!」
「ま、まってよぉ! リンちゃ~ん!」
住宅街を抜け、緩い坂を駆け上がる。坂が終わり、白い光が視界を塞ぐ。
それは、家から程近い丘の上。一本の木の立つ、わたしのお気に入りの場所。
「……わぁ……」
そして、ここから町を見渡せば、それは桜で満ちていた。光は弾け、回る風と踊る花びら。この景色を、ハルちゃんに見せたかった。わたしの大好きな景色。きっと、これを見ればハルちゃんも元気になってくれると思ったから。
ちらりと横へ目を向ければ、ハルちゃんは笑顔になっていた。丁度今、咲き誇る桜と同じように。
「わたしね、しょうらいの夢ができたの」
ハルちゃんへ視線を向けたまま、わたしは言葉を風に乗せる。彼女と、視線が合う。
「夢? それって、どんな?」
首を傾げる彼女に、わたしは全力の笑顔で答える。
「えへへ、それはね、ハルちゃんとケッコンすること!」
結婚。このとき、結婚の意味なんて知っているはずがなかった。ただ、わたしはハルちゃんとずっと一緒にいたかった。ハルちゃんを一人にしたくなかった。だって、彼女にはわたしが必要だから。
だから、わたしはハルちゃんと結婚する。そうすれば、お父さんとお母さんのように、わたしもハルちゃんとずっと一緒だ。
「ねぇ、ハルちゃんはどう? わたしとケッコンしてくれる?」
わたしの言葉に、ハルちゃんは笑顔で答える。さっきまでの泣き顔が嘘のように。
「うん! もちろんだよ! リンちゃんと結婚だなんて、嬉しい!」
その返事を聞いて、嬉しかった。だって、ハルちゃんと結婚できるのだから。ハルちゃんと、ずっと一緒にいられるのだから。
こんな約束、ただの子供の遊びだと思うかもしれない。けれど、わたしはこれが永遠のものだと信じていた。ずっと、ハルちゃんのお姉さんでいられると思っていた。この日常がずっと続いていくことを疑わなかった。
だから、あの頃のわたしは、どうしようもなく子供だったのだ。
***
ある年の暮れのこと、わたしとハルちゃんはいつものように夕焼けの中で一緒に遊んでいた。ただ、ハルちゃんの顔は、ずっと暗かった。
「ハルちゃん、どうしたの? ずっと暗い顔して。学校で何かあった?」
いくら訊いても、ハルちゃんは、
「う、ううん、なんでもないよ……」
と答えるばかり。バレバレの嘘だったけど、わたしはそれ以上訊くことはしなかった。言いたくないなら言わなくてもいい。でも、
「そっか。でも、何か困ったことがあったら、いつでも相談してよね? いつだって力になるから」
わたしは、ハルちゃんのお姉さんでいたい。だから、いつか打ち明けてくれるそのときを、待とうと思った。
「ありがとう、リンちゃん」
俯いたまま、ハルちゃんはぽつりと呟くように言った。
その数日後、ハルちゃんから電話があった。もし時間があるなら、今から少し会えないかとのこと。ハルちゃんから遊びに誘われたのは、これが初めてのことだった。
わたしはウキウキしながら、集合場所の丘の上に向かった。初めてのハルちゃんからのお誘い。一体何して遊ぶんだろう。それとも、何か見せたいものでもあるのかな。期待に胸を膨らませて、思わずスキップをしたくなるのを堪えながらハルちゃんの待つ場所へと向かった。
丘の上に着くと、ハルちゃんはあの大きな木の下に立っていた。周りには他に誰もいない。冷たい北風が、すぅっと吹いていた。
「お待たせ。珍しいね、ハルちゃんから電話くれるなんて」
「うん、ちょっと話したいことがあって……」
ハルちゃんは俯いてはいなかった。キリっとした目で、わたしを見つめていた。普段のふわふわした雰囲気ではないハルちゃんを見て、わたしの心に不安が湧いた。
「えと、話したいことって……?」
「うん、ほんとはもっと早く言わなきゃいけなかったんだけど、どうしても踏ん切りがつかなくて……」
ハルちゃんは一度、深呼吸をする。そして、もう一度わたしの目を見て、ゆっくりと口を開く。
「わたしね……引っ越すことになったの」
「……え?」
一瞬、耳を疑った。
「お父さんの仕事の都合で。とっても遠いから、もう、こうして会えないかもしれない」
ふと、目の前が真っ暗になった。信じられなかった。これまでずっと一緒だったのに。もう会えないなんて。信じられなかった。
「……うそ」
「嘘じゃないの。ごめんね、リンちゃん」
「ずっと一緒だって、約束したのに」
「わたしも、ずっと一緒にいたい。リンちゃんと離れたくないよ」
「……いつ? いつ、引っ越しちゃうの?」
「……来週の、今日」
それからの記憶は、いくら思い出そうとしても出てこない。気付けば、わたしは自室のベッドの中で泣いていた。ハルちゃんと離れ離れになる現実を受け入れられなかった。理不尽な現実と向き合うことができなかった。
それからの一週間は、ハルちゃんと会うことは無かった。何度かハルちゃんから電話を貰ったけど、すべて無視をした。そんなわたしを見て、両親が何度も声を掛けてくれた。
「悲しいのはわかる。でもな、それは春香ちゃんだって同じだよ。だから、離れ離れになる前に、もう一度ちゃんと顔を合わせておいで。後になって、お互い後悔しないように」
「これから永遠に会えなくなるわけじゃないのよ? だから、そんなに泣かないで? ほら、引越しの日には笑顔で送り出してあげましょう?」
けれど、結局あれからハルちゃんと会うことはなかった。極力ハルちゃんのことは考えないようにした。思い出したら、涙が溢れてしまうから。
それでも、いくら考えないようにしても、夜が来る度に、夢にハルちゃんが現れた。いつものように遊んで、笑顔で、楽しくて、そして場面は暗転する。ハルちゃんは唐突にいなくなる。風に吹かれて消えるロウソクの火のように。わたしは泣く。声を上げて、暗闇の中、たった一人で。そこで目が覚める。真っ暗な部屋。夢の内容が夢ではないことを悟り、声を抑えて泣いた。
そんな日々が続き、迎える別れの日。わたしはずっと部屋の中で布団にくるまっていた。
「鈴、お別れを言わなくていいのかい?」
お父さんが言ったように、ここで会わなきゃ、お別れを言わなきゃ後悔するって分かってた。でも、今更ハルちゃんに合わせる顔なんて無かった。今更、何て言ったらいいか分からなかった。
外で、お父さんたちとおじさんたちの話し声が微かに聞こえる。それすらも遮るように、息苦しい布団の中に篭っていた。ハルちゃんの声は聞こえなかった。
もう寝よう。今日一日を過ぎれば、きっと、すべてを忘れられる。ハルちゃんを失う悲しみも、不甲斐ない自分への苛立ちも、これまでのすべての後悔も。
だから、わたしは目を閉じた。涙を流しながら、静かに眠りに就いた。
夢の中で、ハルちゃんと会った。あたりは真っ暗。わたしとハルちゃんの二人だけ。呆然とするわたしに、ハルちゃんは微かに微笑む。
「いつか必ず、迎えに来るからね。だから、その時まで待ってて。絶対だから、ね?」
そして、ハルちゃんはわたしに背を向けて闇の中へ消えていった。
***
ハルちゃんのいない生活が始まった。と言っても、大きく変わることはない。ただ、家では一人で遊ぶことが多くなっただけだ。学校に行く以外で滅多に外に出なくなったのは、きっと、ハルちゃんのことを思い出してしまうから。
でも、いくら忘れようとしても、あらゆるところでハルちゃんの影を見つけてしまう。服の破れた人形、浅い小川、見晴らしの良い丘の上。ひらひら舞うちょうちょうを見つければ、思わず捕まえようと手を伸ばす。見せる相手もいないのに。
そんなある日のこと、お父さんが珍しくこんな提案をしてきた。
「鈴、こんどの休みに遊園地に行かないか?」
そして、少し大袈裟に同調するお母さん。
「あら、いいわね。遊園地なんていつ振りかしら」
今思えば、きっと二人ともわたしに気を遣ってくれたんだろう。いつまでもハルちゃんの影を引き摺るわたしに。
そして、その週末に家族全員で少し遠くの遊園地に遊びに行くことになった。
でも、それは間違いだった。
目が覚めると、わたしは病院のベッドの上だった。
頭や体のあちこちに包帯を巻かれていた。
一体何が起こったのか、全く記憶に無かった。覚えている最後の記憶は、お父さんの車の中で、お母さんの楽しそうな話し声を聞きながら遊園地に向かう途中の風景。そのとき、凄まじい衝撃を感じて、気付いたらこの状況だった。
わたしが目を覚ましたことに気付いた看護師さんが、慌てた様子で駆け寄ってきて、何度かわたしの名前を呼んだ。自分のことが分かるか、と。それを無視して、わたしは訊いた。
「お父さんと、お母さんは……?」
そのときの、看護師さんのひどく戸惑った表情を見て、なんとなく察しがついた。
二人とも即死だったそうだ。唯一生きていたわたしは病院に担ぎ込まれ、眠っている間に両親の葬儀は終わってしまった。
涙は出なかった。一度に沢山のことが起こりすぎた。ハルちゃんを失い、両親は死んだ。もう、何が何だかわからなかった。
そんなわたしのところに、ある夫婦がやってきた。親戚の人だった。親戚といっても、お盆とかで数回顔を合わせたことがあるだけ。話したことなんて一度もなかった。
そんな彼らは、手短にこう言った。
「うちに来なさい」と。
おじさんたちはわたしに良くしてくれた。ちゃんと毎日三食食べさせてくれたし、わたし専用の部屋も用意してくれたし、お小遣いもくれた。居候のわたしを、本当の家族のように扱ってくれた。
でも、一つだけ問題があった。おじさんたちには一人娘がいた。わたしの一つ上の子だ。
その子は何かにつけてわたしをいじめてきた。もちろん、おじさんたちの知らないところで。
すれ違い様に足を引っ掛けられたり、話しかけても無視をする、なんて可愛らしいものから始まり、いつからか故意に暴力を振るわれたり、罵声を浴びせられたり、私物を勝手に捨てたりした。
その事実をおじさんたちに言うことはできなかった。あなたたちの娘からいじめを受けているだなんて、居候の分際で言えるはずがなかった。だから、わたしは何も言わず必死に耐えた。
両親を失ったわたしがこうして生きていられるだけでも幸せなのに、これ以上何を望むだろう。理性ではそう分かっていても、時々考えてしまう。どうして、わたしはこんな酷い目に遭わないといけないんだろう。心の支えを失い、両親を亡くさなければならない理由が、はたしてあっただろうか。一体わたしが何をしたというのか、と。
そのうち、わたしは理由を付けて家に帰らない日が多くなった。おじさんたちは特に心配するでもなさそうだった。それはきっと、わたしが部外者だからだ。
家に居場所を失ったわたしは、いつからかあの見晴らしの良い丘の上に来るようになっていた。ここは、ハルちゃんとの思い出が沢山詰まってる。それらを思い起こしては、頬を涙で濡らしていた。
かつては忘れようとしていたのに、今ではこうして過去の記憶に縋っている。現在に居場所を持てないわたしは、こうして過去に生きる理由を探す。
「いつか必ず、迎えに来るからね。だから、その時まで待ってて。絶対だから、ね?」
夢の中で言ったハルちゃんの言葉。それだけが、耳の奥で延々とこだましていた。
そんな生活が続いたある春の日のこと。その日もわたしは丘の上のベンチに座り、春風に髪をなびかせていた。
年度の末。世間は短い春休みを楽しんでいるのだろうか。しかし、わたしはいつものように、こうして何をするでもなく、過去に思いを馳せる。
ハルちゃんとは、ここでよく遊んでたなぁ。一緒にシャボン玉を飛ばしたり、夕日を見たり。そういえば、ハルちゃんと結婚する、なんて子供みたいな約束をしたのも、丁度この時期だったかな。あぁ、懐かしい。
「ふふ、出来るはずもないのに……」
そう、出来るはずがない。そもそもわたしたちは二人とも女の子だし。それに、きっと今は、ハルちゃんはわたしのことなんてすっかり忘れてる。だから、あの約束が叶うことなんてない。
「何が出来ないって……?」
ふと、後ろから声が聞こえた。わたしに宛てられた、聞き覚えのある声が。
風に流されるように、背後を振り返る。そこには、一人の女の子が立っていた。首元までの綺麗な亜麻色髪をした、少し童顔な女の子。その顔立ちも、声も、雰囲気も、全てがあの頃の記憶を想起させた。
「ハル……ちゃん……?」
「うん、久しぶりだね、リンちゃん」
そして、彼女はにこりと笑って、桜色の唇から言葉を紡ぐ。
「約束通り、迎えに来たよ!」
***
両親のお墓参りの帰り道。
冷房の効いた快適なバスに揺られながら、わたしは窓の外の景色へ目を向ける。ゆらゆら揺れる熱気の中を、男子小学生たちが元気に駆けていた。
「リンちゃん、どうしたの?」
ふと、隣に座るハルちゃんが声を掛ける。
「ん? 何が?」
「ちょっとニヤニヤしてたから」
ニヤニヤって。わたし、無意識にそんな変な顔してたかなぁ。
「ちょっと、ね。思い出してたの」
「思い出すって、何を?」
ハルちゃんが顔を寄せてくる。
「ふふ、なんでもない」
わたしは人差し指で、ハルちゃんのおでこを押し返した。




