彼の名は ★
広間の壁が割れた。城内の廊下と室内がひとつなぎになる。テレーマが暴れたためだ。
壁があったはずの天井からばらばらと雨粒のように瓦礫が滴る。広間内にとどまっているエルストとベルは鼻と口を手でおおい、粉塵が舞い込むのを防いでいた。アギは盛大にくしゃみをしている。
「ホンマにドラゴンやな。ふたりともコワないんか?」
それはアギの言葉だった。エルストはごくりと喉を鳴らす。眼前の、ベルの拘束魔法を自力でやぶったテレーマをよく見れば、右半身が紫色の爬虫類のように変貌しているどころか背後から長い尾のようなものも生えてきていることに気づいた。
「ここまで来たんだ。やるっきゃないだろ!」
ナイフはテレーマに奪われたままなので、エルストは付近にいた兵士から槍を受けとった。
「王子、なんやスンナリ兵士から槍を拝借したな。兵士も兵士ちゃう?」
兵士の様子を見ていたアギは腑に落ちないと言いたいらしかった。エルストは答える。
「平気だろ。ああ、どうして僕はもっと早く気づかなかったんだろう、こんな皇帝に忠誠を誓ってる兵士なんてハナっからいないんだ」
そうなのだ。テレーマはあくまでも恐怖によって国を支配しているにすぎない。兵士もまた、テレーマに怯えているにすぎないのだ。
テレーマの姿に恐怖したらしいマーガレットがそそくさと退去していった。しかしテレーマはエルストのみを眼中に据えているらしく、そのことは気に留めていないようだ。
「じゃあエルスト様、ゆうべ話したような作戦でお願いしますよ!」
ベルがアギを深くかぶる。
「もちろんだ!」
エルストは槍を構えたまま駆け出した。
昨夜、エルストの毛髪がベルの手によって引き抜かれたあと、ふたりとアギはテレーマを相手に戦う場合のことを想定し、魔法が使えないエルストがいかにして立ち回るかを談義していた。なりふり構っていられないと覚悟したベルはこう提案する。
「とにかくエルスト様はテレーマの心臓を狙うこと」
エルストは、ナイフを構え、テレーマに突進していけばいい。ただエルストがテレーマにひるむことなく、勇気を失うことなく果敢に立ち向かっていきさえすれば、ベルにとってはよいのである。
「ああッ? てめえ、殺されたいのかそうじゃないのかどっちなんだよ!」
エルストがあまりにも無謀な突撃をしてくるものだから、テレーマは面食らったようにのたまった。かといって、むろんテレーマはエルストへの攻撃は思いとどまらない。
「〈ポンーバ〉!」
首まで紫色に変色したテレーマが口から放ったのは人間が狩猟のために使う狙撃魔法である。小さな火球が弾道をえがきながらエルストの正面に迫りくる。
「〈ムーブ〉!」
エルストの後方にいたベルが杖を振った。ベルが動かしたのはエルストの体である。
「ぐっ」
ベルの魔法によってテレーマの背後に瞬間移動したエルストは、その刃をテレーマに突き刺した。両手で槍の柄をまわし、槍先がさらにテレーマの心臓奥深くまで入り込むよう仕向ける。そして貫通したことを見届けると、槍を思い切り引き抜いた。
テレーマの体がよろける。エルストはもう一度、今度はやや角度をずらしテレーマの体に槍を突き刺した。ぶちぶちといやな音がエルストの耳に届く。テレーマの肉が切れる音だ。
テレーマの全身はほぼドラゴンのように変わってしまっている。翼のような突起物も生えている最中だ。エルストがその異様な姿に目を奪われていると、そのうちテレーマの左腕がエルストめがけて振るわれた。
「〈ハッド〉!」
すかさずベルが拘束魔法を使った。これにより、テレーマの四肢はふたたび動きを停止させられる。エルストは三度目の槍を突き刺した。
「ドラゴンは『不死』だってこと……人間も知ってるよな?」
テレーマの低い声が響いた。エルストは思わず肩を震わせる。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
それはテレーマの咆哮だった。エルストやベルの耳をつんざくようなテレーマの声が振動を起こし、広間をおおっていた城壁が崩壊した。エルストは耳をかばい、槍を手放してしまう。そしてテレーマの尾に打たれ、体を瓦礫に叩きつけられた。ベルがエルストの名を呼んだが、兵士たちの悲鳴と激震の騒音によってその声はかき消される。
◇
「今の音は何!?」
テレーマの咆哮と城壁の崩れ落ちる音を聞いたミズリンは、アデルフィアの基地を出て、街から岩トカゲをあおいだ。
「岩トカゲが傾いてる……」
ミズリンは目を疑った。加工済みドラゴンとなり、永遠に動くことのないはずの岩トカゲが、このとき初めて体を動かしていた。だが、それは現在、城を襲っている大きな衝撃のせいだとミズリンはすぐに気づく。城壁がまた崩落した。
「あれはドラゴンでは!?」
ミズリンのとなりに立つレックは城内から突き出る紫色の尾を見た。
「まさか、テレーマの……」
ミズリンらはテレーマ本人がドラゴンであることは知らない。だが、「テレーマは強大なちからを持つドラゴンをなんらかの理由で配下におさめているのではないか」という憶測を抱いてはいる。とっさにその憶測が脳裏によぎったミズリンは、帝都の住民を地下に避難させるよう働きかけた。その間にも、城は次々と箇所を変えて破壊され始めていた。
◇
ガラス、陶器、武器、ありとあらゆるものが城内に飛散している。テレーマが上階から下階へ、順に城を壊してまわっているためだ。ベルの拘束魔法を、テレーマは簡単に解いてしまったのだ。そののちテレーマの爪の餌食となったのはもちろんエルストだった。
コウモリのような翼が生えそろい、上半身はトカゲのように、下半身は兎のように変化を遂げたテレーマは、鋭い爪のある手でエルストの胴体をつかみ、それを気のおもむくまま石壁に打ち続けていた。エルストはすでに血まみれになり意識がもうろうとしている。
あたりには瓦礫の下敷きとなった兵士が何人も絶命しているが、エルストも、このままでは生命が危うい。
「〈ティフロポディ・ラング〉!」
城内を飛び回るテレーマを追ってきたベルが長い蛇を出現させテレーマの肉体を捕獲した。蛇は石製だ。これによりテレーマは足止めされる。
ベルは蛇の上をつたい、テレーマの大きな肩に飛び乗った。ベルはテレーマにつかまれたエルストを見るなり動揺し、エルストへと移動魔法を放った。そのおかげでエルストの体は解放される。
エルストを抱き上げたベルは、そのままワープ魔法を使った。
「エルスト様!」
ベルの悲痛な呼びかけが響くのは、かつてエルストとベル、マーガレットの三名が囚われたことのある牢獄だった。ひと気のないひやりとした床の温度がベルの興奮を抑えてくれるようだ。しかし、エルストの体もまた冷えかかっている。ベルはアギのマントでエルストの身を包んでやった。そしてエルストの右手を握るベルはなかば涙目になりながら、エルストをテレーマに突撃させた自分を悔いた。
「……あ……うう……あ……」
エルストは苦しそうに呻いている。エルストがベルの手を握り返すことはない。
「どないすんねや、王子は生身の人間やで! ドラゴンとちゃうからこの怪我やと死んでまうッ」
ベルの頭上でアギが喚いた。アギのマントには、エルストの血によってできた染みが広がっている。
「私がサポートするなら大丈夫だって思った、私がバカだったんだ……」
「いま泣き言吠えとる場合ちゃうやろ! さっさと王子連れて逃げたほうがエエ!」
「逃げたところでエルスト様の怪我は治んないよ! それにテレーマ、きっとあのままだと王都じゅうを攻撃してまわる……そうなったら、いろんな人が危ない……」
「おまえはどっちが大切なんや、ベル! 王子助けるのか、テレーマ倒すのか!」
アギが怒鳴ったとたん、牢獄全体が震えた。テレーマだ。近づいてきている。ベルは天井を見上げ、やがて初めてテレーマを『怖い』と思った。
そのとき、第三者の足音が牢獄に届く。
「——エルストは助ける。テレーマも殺す。そうすれば問題はないよね」
「えっ? 誰!」
ベルがエルストを庇うように立ち上がった。
「あ、あなたは……」
ベルの目には、トカゲのような、蛇のような、ドラゴンのような姿をした誰かが映っている——それは以前、まさにここで出会ったその人であった。
「な、なんや、ベルの知り合いか?」
アギは目の前に現れた人物を目にしたことはない。これが初対面である。
「うん、あのね、ほら前この帝都に来たとき、私、この人に助けられたんだ」
ベルが困惑しながらもアギに答える。
「助けられたっていうより、はぐれてたエルスト様の居場所を教えてくれたの、この人が」
「『人』? いや、こいつ、どう見ても……『ドラゴン』やないか?」
アギは目を凝らして目の前の人物を観察する。グレーの、いかにも頑丈そうな肌が、頭部と右半身をおおっている。人間らしい箇所といえば、左半身だけだ。
「おたく名前は?」
アギが尋ねた。
「コネリー。コネリー・レレナ・エルオーベルング。そこに倒れてるエルストの兄貴だよ」
コネリーはドラゴンのようなマスクの下から返事を寄越した。それを聞いたベルとアギはそろってまばたきをし、
「えええええーっ!」
と、一斉に驚いた。
「って、ベルは知らへんかったんかーい!」
ふと気づいたアギが突っ込んだ。
「名前までは聞かなかったの! それにあのとき、すぐ居なくなっちゃったし、この人! あ、いや、このかた! けどエルスト様のお兄さんって、サルバに殺されたんじゃ?」
「そういう話はあとにしよう。今はすぐにこの秘薬をエルストに飲ませるんだ」
コネリーは右足を引きずりながらエルストのもとに歩み寄り、腰をおろすと、小袋に包んだ粉薬を差し出した。
「秘薬って、まさか」
ベルはあわててしゃがみこむ。
「ルナノワという町で作られた秘薬だよ。飲めばたちまち傷が治る。これはテレーマのやつがこっそり城で栽培してたものだけど……効能は同じだ」
「飲ませるんですか、エルスト様に?」
「この秘薬のことを知ってるのかい?」
ベルは頷いた。この場に秘薬が登場したことに驚きつつも、その効能と『栽培方法』を知っているベルは、エルストの怪我を治したい気持ちと『そんなものをこれ以上使いたくない』という気持ちの狭間で心を揺らす。だが、今もなお呻くエルストの顔を見ると、決心したように秘薬を受け取った。
「水はないけど、エルスト様、舐めて」
ベルはさらさらとした粉末状の秘薬を、少しずつ、少しずつエルストの口内に落とし入れた。
「う……」
エルストが意識を正常に戻し始める。そしてエルストは何度か目を開け閉めし、牢獄の天井と、手前に映るベルとアギの心配そうな顔を見た。
「やっぱりこの秘薬、すごい。エルスト様っ、もう怪我、治ってますよ」
「ベル……僕は……」
今度こそベルの手を握り返したエルストは、上半身を起こし、周囲の様子を確認した。流れ出た血こそ拭わないが、エルストが負っていたあらゆる怪我はとうに回復している。
「そうだ、テレーマ。あいつが凄まじい雄たけびをあげてから、僕、ヤツに攻撃されたんだ」
「よっしゃ、アタマのほうもダイジョブやな!」
アギも安心したようだ。
「ここは城の牢獄だよね。あれ、この人は?」
エルストは、ベルの向かい側に座っているコネリーを見た。コネリーはベルと初めて会ったときから顔、頭部全体をドラゴンの顔のようなマスクでおおっている。そのため、エルストもよく慣れ親しんでいたはずの兄の素顔は今、誰の目にも見ることはできない。
「やあ、エルスト。なんだ、かっこいい眼帯なんか着けてるじゃないか。久しぶりだな」
「えっ? そ、その声は……」
顔を見ずとも、エルストがその声の持ち主を忘れるはずはなかった。
「兄上? 兄上ですか? なんで? どうして? ……」
ベルは己の手を強く握りしめるエルストの手が震えたのを確認した。エルストは、ベルとアギには顔を背けたまま、コネリーを見つめたまま一粒の涙を右目から流した。
コネリーは答える。
「僕はある人物によって助けられた。二年前、こんなふうに、加工済みドラゴンの残骸と融合したんだ」
「待って、兄上……話についていけません……」
「そうだよな。だけどこれだけはシンプルだ」
エルストの肩を、コネリーの左手がつかむ。
「僕はテレーマに〈最強の魔法〉を使うためにここに来た。おまえもちからを貸してくれ、エルスト」




