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2/4

まずは、お友達から


 破滅フラグを折る。


 そう決めた翌朝。


 私は、いきなり困っていた。


(……で、何から折ればいいの?)


 昨夜の私は格好よかった。


 眠る娘の髪を撫でながら、ゲームなんかにこの子の人生を決めさせないと誓った。

 破滅フラグなど一本残らずへし折ってやる、とまで言った。


 誰にも聞かれていなかったけれど。


 それはまあいい。


 問題は、その破滅フラグとやらが具体的にどこに立っているのか、私自身がほとんど覚えていないことだった。


「奥様。先ほどから同じ頁をご覧になっておりますが」


「読んでいますわ」


「左様でございますか」


 朝食後の居間。

 ソファに座った私の前には、王家から届いた婚約打診に関する書類が置かれている。


 傍らに控えるメイドのセリーヌは、いかにも「そういうことにしておきましょう」という顔をしていた。


(読んではいるのよ。本当に。ただ一文字も頭に入ってこないだけで)


 第一王子アレクシス・ヴァレンティア。


 その名を見るたびに、前世の記憶が少しずつ浮かんでは消える。


 乙女ゲーム。


 王立学院。


 平民出身の主人公。


 攻略対象たち。


 そして、アレクシスの婚約者――エステル・グランヴェル。


 最後に断罪される悪役令嬢。


 そこまでは思い出した。


 けれど、肝心の途中が穴だらけだ。


(何年に何のイベントがあった? 選択肢は? 好感度は? そもそも主人公の名前は!?)


 駄目だ。


 十年以上前に遊んだゲームの攻略情報を、今さら一字一句思い出せという方が無理なのである。


 前世でテスト前日に教科書を丸暗記していた私へ言いたい。


 その記憶力、今使わせて。


「ミレーヌ」


 声に顔を上げる。


 執務を終えて入ってきたレオニスが、向かいの椅子に腰を下ろした。


 今日も深いワインレッドの髪はきちんと整えられ、黒を基調とした衣服にも乱れ一つない。

 鋭い目元と相まって、いかにも王国有数の公爵家を率いる当主らしい姿だ。


 ただし私は知っている。


 この男は昨夜、眠っているエステルの寝顔を見に行って、掛け布団を三回も掛け直した。


「考えはまとまったか?」


「婚約のお話ですか?」


「ああ」


 レオニスの顔が険しくなる。


「私は断って構わないと思っている」


「まだ仰っていたのですか」


「当然だ。エステルは六歳だぞ」


「昨日も聞きましたわ」


「六歳の娘に婚約者など――」


「旦那様」


 セリーヌが紅茶を置いた。


「昨日、奥様から『まずはお話を伺いましょう』と結論が出たはずですが」


「結論ではない。保留だ」


「世間では、それをひとまず話を進めると申します」


「……セリーヌ。お前はどちらの味方だ」


「グランヴェル家のメイドでございます」


「答えになっていない」


「便利な答えですので」


(強い)


 私はカップで口元を隠した。


 それから、少しだけ真面目な顔に戻る。


「レオニス。私も、エステルの意思を無視して婚約を決めるつもりはありません」


「ならば」


「ですが、相手を知りもしないうちから断るのも違うと思うのです」


 これは昨夜、一人で考えて出した答えでもあった。


 原作では、アレクシスとの婚約がエステルを破滅へ導く大きな要因になった。


 なら、婚約を断ればいい。


 そう考えるのは簡単だ。


 けれど。


「アレクシス殿下は、どのようなお子様なのです?」


 レオニスが少し考えた。


「聡明だと聞いている」


「六歳で?」


「既に読み書きだけでなく、歴史や地理の初歩も学んでいる。王族としての礼儀作法も同年代とは比較にならないそうだ」


「まあ」


「剣術も始めている。教師の評価も高い」


「……他には?」


「他?」


「好きな遊びですとか。好きなお菓子ですとか。何をすると笑うのか、とか」


 レオニスが黙った。


「…………」


「…………」


「知らんな」


「ですよね」


 王子としての情報しかない。


 それはレオニスが悪いわけではない。

 公爵が第一王子について知るべきなのは、普通そちらだ。


 けれど。


 私は胸の奥に、小さな引っかかりを覚えた。


 アレクシスは優秀だった。


 原作でもそうだ。


 いつだって完璧な王子だった。


 人前では穏やかに微笑み、誰に対しても公平で、成績も優秀。

 未来の国王として申し分ない少年。


 ――少年?


(……あれ?)


 私は眉を寄せた。


 記憶の中のアレクシスは、いつからあんなふうだった?


 ゲームが始まるのは学院入学から。


 その時には既に、彼は完璧な王子だった。


 そしてエステルも。


 未来の王妃に相応しい、完璧な公爵令嬢。


 二人が並べば、誰もが似合いの婚約者だと言った。


 けれど。


 主人公がアレクシスと親しくなったとき。


 彼女は、王子ではない彼を見つけた。


 疲れていること。

 苦手なこと。

 たまには何も考えずに笑いたいこと。


 そんな、ごく普通の少年の部分を。


 エステルは――。


(知らなかった)


 胸がざわついた。


 十年近く婚約者だったはずなのに。


 彼女はアレクシスの隣に立つため、ずっと努力していた。


 王妃教育を受けて。

 礼儀を磨いて。

 学問を修めて。


 アレクシスも、王になるため努力していた。


 なのに二人は、互いに相手へ「相応しい自分」を見せ続けた。


 王子と公爵令嬢。


 未来の王と王妃。


 婚約者。


 その前に。


(……友達だったこと、ある?)


「ミレーヌ?」


 レオニスの声で我に返る。


「どうした」


「……レオニス」


「なんだ」


「殿下とエステルを、一度会わせてみませんか?」


「それは当然、婚約の話を進めれば――」


「婚約者としてではなく」


 私は言った。


「子供同士として」


「…………」


「まずは、この子たちを友達にしてみましょう」


 レオニスが目を瞬いた。


「友達?」


「ええ」


「第一王子と、公爵令嬢を?」


「第一王子も公爵令嬢も、今は六歳でしょう?」


「それはそうだが」


「だったら、まず六歳同士でいいではありませんか」


 自分で言って、妙に腑に落ちた。


 婚約を受けるか断るか。


 未来の王妃になるかならないか。


 そんなことは、もっと後でいい。


 今のエステルに必要なのは、未来を決めることではない。


 目の前にいる人間を知ることだ。


 アレクシスにも。


「王家には、顔合わせという名目でお願いできませんか?」


「できなくはない」


「では、それで」


「待て」


 レオニスが眉間を押さえた。


「話が早い」


「善は急げと申しますでしょう?」


「王家相手に使う言葉ではない」


「旦那様」


 セリーヌが静かに告げる。


「奥様がこのお顔をなさった時に止められたことがございましたか?」


「……ないな」


「では、お茶のおかわりはいかがでしょう」


「もらおう」


(諦めた)


 でも、レオニスの口元は少し笑っていた。


     ◇


 数日後。


 王家から返事が届いた。


 顔合わせは、王宮の堅苦しい謁見室ではなく、王族が私的に使用する離宮の庭園で行われることになった。


 こちらの「まずは子供同士、気軽に」という意向を、先方も汲んでくれたらしい。


(よし)


 第一段階は成功。


 問題は。


「お母様」


「はい?」


「こちらのリボンと、こちらのリボン。どちらがよろしいと思われます?」


 鏡の前でエステルが真剣な顔をしていた。


 六歳の少女の前には、深紅と白、二本のリボン。


「どちらでも可愛らしいと思いますよ」


「それでは困りますわ」


「困るの?」


「はい。今日はアレクシス殿下に初めてお目にかかるのですもの」


 エステルは深紅の方を持ち上げ、鏡に合わせる。


「グランヴェル家の娘として、失礼のない装いでなくては」


(六歳!)


 私は心の中で叫んだ。


(あなた六歳だから! 初めて遊ぶ男の子に会うだけだからね!?)


 もちろん、口には出さない。


「エステル」


「はい」


「今日は、お友達になれそうな方に会いに行くのですよ」


「……お友達?」


 エステルが振り返った。


「ええ」


「ですが、第一王子殿下ですわ」


「第一王子殿下にも、お友達くらいいるでしょう」


「それは……そうかもしれませんけれど」


「ですから、あまり肩に力を入れなくていいのです」


 私は白いリボンを手に取った。


「こちらにしましょうか」


「理由を伺っても?」


「今日のお天気に似合います」


 エステルはしばらく考えて、それから頷いた。


「では、そちらにいたしますわ」


 素直だ。


 こういうところは、まだ六歳なのである。


 髪を整えてやりながら、私は鏡越しに娘を見る。


 深いワインレッドの髪。

 紫の瞳。


 昨日までなら、ただ可愛いと思っていた。


 今は、その向こうに画面越しに見ていた少女が重なる瞬間がある。


 でも。


(違う)


 私はすぐに、その考えを追い払った。


 この子は、この子だ。


 ゲームのエステルがこうだったから、などという目で育ててはいけない。


 未来を知っているつもりになることと、未来を決めつけることは紙一重だ。


「お母様?」


「なんでもありません」


 私は最後にリボンを結び、微笑んだ。


「とてもよく似合っていますよ」


「ありがとうございます」


 エステルは嬉しそうに胸を張った。


「では、行ってまいります」


「私も一緒です」


「そうでしたわ」


(緊張してるのね)


 少しだけ安心した。


     ◇


 離宮の庭園で待っていた少年を見た瞬間。


 私は思った。


(アレクシスだ)


 当たり前なのだけれど。


 柔らかな金色の髪。

 澄んだ青い瞳。

 幼いながらも整った顔立ち。


 前世のゲーム画面で見た少年を、そのまま小さくしたような姿。


 そして何より。


「本日はお越しいただき、ありがとうございます。グランヴェル公爵、公爵夫人」


 六歳とは思えない完璧な礼。


(完成してるー!)


 脳内で頭を抱えた。


(もう王子様が完成してる! 早い! 早すぎる!)


 隣のレオニスは平然としている。


「こちらこそ、お時間をいただき光栄です、殿下」


「堅苦しい挨拶は不要です。本日は私とエステル嬢のための席と伺っています」


 にこり。


 完璧な微笑み。


(六歳の笑顔じゃないのよ、それ!)


 いや、可愛い。


 可愛いのだけれど。


 どこからどう見ても「王子様の笑顔」なのだ。


 その視線がエステルへ向く。


「お初にお目にかかります。エステル・グランヴェルです」


 エステルが一歩前へ出て、優雅にドレスの裾をつまんだ。


「本日はお招きいただき、光栄に存じます。アレクシス殿下」


(こっちも完成してるー!!)


 私は笑顔を崩さないまま、心の中で天を仰いだ。


 六歳児二人の初対面とは思えない。


 これでは本当に外交会談だ。


「お会いできるのを楽しみにしていました、エステル嬢」


「わたくしもでございます、殿下」


 にこり。


 にこり。


 完璧。


 隙がない。


(駄目だこれ)


 原作の二人がどうしてああなったのか、少し分かった気がした。


 初対面から、もう「第一王子」と「公爵令嬢」なのだ。


 お互いに六歳の子供として会う隙がない。


 私が何とかしなくては。


「殿下」


「はい、公爵夫人」


「本日は、どのようにお過ごしになる予定でしょう?」


「庭園をご案内した後、茶席を用意しています。それから――」


 アレクシスはすらすらと予定を述べる。


 たぶん、事前にきちんと覚えたのだろう。


 偉い。


 本当に偉い。


 だからこそ。


「まあ。それでは少し予定を変えても?」


 少年の瞳がわずかに揺れた。


「予定を、ですか?」


「ええ」


 私は庭の向こうを見た。


 花壇。

 噴水。

 整えられた生垣。


 そして、その奥。


 一本の大きな木。


 枝には、小さな色鮮やかな鳥が止まっていた。


「あちらまで競走してみる、というのはいかが?」


「…………」


 沈黙。


 レオニスがこちらを見る。


 エステルも見る。


 アレクシスも見る。


 少し離れたところに控えていた王宮の侍従まで見る。


(あれ? 駄目だった?)


 さすがに王子へ「走れ」は雑だっただろうか。


 しかし最初に反応したのはエステルだった。


「競走、ですか?」


「ええ」


「殿下と?」


「嫌なら構いませんよ」


 その瞬間。


 エステルの紫の瞳に火がついた。


「嫌ではありませんわ」


(知ってた)


 負けず嫌い発動。


 アレクシスは困ったように私とエステルを見比べた。


「ですが……」


「殿下は走るのがお嫌いですか?」


「いいえ」


「では、苦手?」


 エステルが尋ねる。


 アレクシスの眉が、ほんの少し動いた。


「苦手ではない」


「でしたら、よろしいではありませんか」


「エステル」


「お母様が競走してみては、と仰ったのです」


 責任をこっちに投げた。


(娘よ)


 アレクシスが少し考える。


 そして。


「……分かった」


 初めて。


 王子らしくない返事をした。


「では、あの木まで」


「負けませんわよ」


「僕も負けるつもりはない」


(僕!)


 私は聞き逃さなかった。


 さっきまでの「私」ではない。


 ほんの一瞬だけ。


 六歳の男の子が顔を出した。


「では」


 エステルが並ぶ。


「始めましょう」


「合図は?」


 二人が私を見る。


「私?」


「お母様が言い出したのでしょう?」


 ごもっとも。


 私は二人の前に立った。


「では――」


 ちょっと楽しくなってきた。


「よーい」


 エステルが腰を落とす。


 アレクシスも構える。


「始め!」


 二人が飛び出した。


 速い。


 ドレス姿のエステルも、動きやすい服装のアレクシスも、思っていた以上に本気だ。


「エステル、転ばないように!」


「分かっておりますわ!」


 返事をした直後。


 エステルの足が芝に取られた。


「あっ」


 身体が傾く。


 その横を走っていたアレクシスが、とっさに腕を伸ばした。


「危ない!」


 エステルの腕を掴む。


 ――そして。


 二人まとめて転んだ。


「…………」


「…………」


 庭園が静まり返る。


 私の心臓も止まりかけた。


(王子を転ばせたぁぁぁ!?)


 いや違う。


 転んだのは二人だ。


 そういう問題でもない。


「殿下!」


 侍従が駆け寄ろうとする。


 その前に。


「……ふ」


 小さな音がした。


 アレクシスだった。


 芝生に座り込んだまま、口元を押さえている。


「……ふふ」


 そして。


「あはははっ!」


 笑った。


 声を上げて。


 王子様の微笑みではない。


 六歳の男の子が、転んだことそのものを面白がって笑っている。


 エステルがぽかんとする。


「殿下?」


「ご、ごめん……でも」


 アレクシスは笑いながらエステルを見る。


「すごい顔」


「……え?」


「エステル嬢、草が」


 頬に草の葉が張りついている。


 エステルは自分の頬へ手をやった。


 葉を摘まむ。


 見る。


 頬が赤くなる。


「……殿下にもついておりますわ」


「え?」


「ここです」


 今度はアレクシスが自分の髪に触れる。


 取れない。


「違います。もう少し右ですわ」


「こっち?」


「逆です!」


「右ってこっちだろう?」


「殿下から見てではなく、わたくしから見て――」


「それなら左じゃないか」


「…………」


「…………」


 エステルが吹き出した。


「ふふっ」


 すぐに口を押さえる。


 けれど遅い。


 アレクシスが見た。


「今、笑った?」


「笑っておりませんわ」


「笑った」


「殿下こそ先ほど笑ったではありませんか!」


「だって、面白かったから」


「でしたら、わたくしも面白かったのです!」


 言い返して。


 二人とも、また笑った。


 私は何も言わなかった。


 言えなかった。


 ただ、その光景を見ていた。


 前世のゲームで。


 エステルは、この笑顔を知っていただろうか。


 アレクシスは、こんなふうに笑うエステルを知っていただろうか。


 分からない。


 ゲームでは描かれていなかっただけかもしれない。


 私の記憶が抜けているだけかもしれない。


 でも。


(……これでいい)


 そう思った。


 王子と公爵令嬢になる前に。


 婚約者になる前に。


 まず、二人の子供であればいい。


     ◇


 競走は、結局やり直された。


 今度は二人とも転ばなかった。


 勝ったのはアレクシスだった。


「わたくしの負けですわ」


 エステルは悔しそうだった。


 けれど、いつものようにきちんと負けを認める。


「次は負けません」


「次?」


 アレクシスが聞き返した。


「もちろんです。これで終わりではありませんでしょう?」


「……そうだね」


 少年は少し考えてから笑った。


 今度の笑顔は、先ほどまでの完璧な王子のものと、芝生の上で笑った少年のもの、そのちょうど中間くらいだった。


「じゃあ、次もやろう」


「ええ」


「でも今度は、走る以外がいい」


「何故です?」


「エステル嬢、速いから」


「まあ」


 エステルの眉が上がる。


 分かりやすく嬉しそうだ。


「殿下は盤上遊戯をなさいます?」


「するよ」


「では、それで」


「得意だけど?」


「望むところですわ」


(あっ)


 私は知っている。


 エステルは盤上遊戯でも負けると何度でも挑む。


 アレクシスも、どうやらかなりの負けず嫌いらしい。


(……これ、友達になったら延々勝負するやつでは?)


 想像した。


 ちょっと頭が痛くなった。


 でも。


 悪くない。


 帰りの馬車。


 向かいに座ったエステルは、行きよりずっと饒舌だった。


「アレクシス殿下は、とてもお強いのです」


「競走が?」


「それもですけれど、盤上遊戯もですわ。今日は時間が足りませんでしたので一局だけでしたけれど」


「負けたの?」


「…………」


 エステルが窓の外を見る。


「負けたのですね」


「次は勝ちますわ」


 私は笑った。


 隣のレオニスは、少し複雑そうな顔をしている。


「楽しかった?」


「はい!」


 即答だった。


 レオニスの眉間に皺が寄った。


(お父さん)


「それで、お父様」


「なんだ」


「次はいつ殿下とお会いできますの?」


「…………」


「レオニス?」


「……調整しよう」


 声が低い。


 私は窓の外へ顔を向けた。


 笑ってしまいそうだったから。


     ◇


 その夜。


 私は机に向かい、小さな帳面を開いた。


 別に秘密の日記というわけではない。


 ただ、前世の記憶がいつまた曖昧になるか分からないので、思い出したことを書き留めておこうと思ったのだ。


 最初の頁。


 私はペンを取る。


『エステル・グランヴェル』


 その下に、


『第一王子アレクシスと幼少期に婚約』


 さらに、


『学院入学後、主人公とアレクシスが恋愛関係に』


『エステル、破滅』


 ……情報が雑すぎる。


(攻略メモとしては零点ね)


 仕方がない。


 思い出せるものから書くしかない。


 そして今日のことを考えた。


 アレクシスとエステル。


 競走。


 転倒。


 草まみれ。


 笑い声。


 次の約束。


 私は少し迷ってから、一行加えた。


『まず、友達になる』


 書いてみると。


 あまりにも小さな一歩に見えた。


 これで本当に未来が変わるのかなんて分からない。


 ゲームのイベントが一つ消えたわけでもない。


 婚約話そのものだって、まだ何も決まっていない。


 破滅フラグを一本、派手にへし折った――などという実感はなかった。


 それでも。


 私は今日初めて、ゲームの筋書きではなく、目の前の二人を見て選んだ。


 それでいい。


 きっと、こういうところから始めるしかない。


「……さて」


 帳面を閉じる。


「次は何を思い出せるかしらね」


 頼りない記憶。


 先の長い戦い。


 それでも、今日。


 未来の王と王妃候補ではなく。


 攻略対象と悪役令嬢でもなく。


 アレクシスとエステルという二人の子供が、初めて笑い合った。


 私はまだ知らない。


 原作では、幼い二人が互いを尊重しながらも、最後まで越えられなかった距離があったことを。


 互いに「相応しい自分」であろうと努力するほど、その距離が少しずつ広がっていったことを。


 そして今日。


 芝生の上で二人が一緒に転び、草をつけた顔を笑い合った、ただそれだけの出来事が。


 ずっと先の未来に立っていた最初の破滅フラグを――。


 もう、根元から少しだけ傾け始めていたことを。



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